PHASE II-12|余熱
零域基地 士官居住区画
五階|隊長居室
夜間灯だけが残る廊下の壁にもたれ、冴木は軍服の上着を肩に掛けたまま火のついた煙草を咥えていた。
煙草をほとんど根元まで吸い、何本目かの吸い殻を携帯灰皿に押しつける。
エレベーターの到着音が、静まり返った廊下に小さく響いた。
開いた扉の奥から、背筋を崩さない長身の影が静かに現れる。
「冴木?」
エレベーターを降りた蓮は歩みを緩め、自分の部屋の前で待つ冴木に目を留めた。
「この区画は禁煙だ」
冴木は答えず、腕時計に目を落とす。表示はすでに日付が変わる手前を指していた。
「こんな時間まで事情聴取を?」
「お前こそ、いつからそこにいる」
「今日の業務報告をと思って」
「そうか」
「損耗率再計算の報告会は予定通り終了、資源帯報告書の確認も問題なし。補給線調整も──」
「もういい」
蓮は短く遮る。
「そんなことを言いに来たわけじゃないだろう」
蓮はカードキーを認証部にかざして指先を重ねる。
解錠音が控えめに鳴った。
「入れ。立ち話は好きじゃない」
扉を押さえたまま、冴木に中へ入るよう示した。
「じゃあ、遠慮なく」
冴木がリビングへ入るのを背に、蓮はローテーブルに出したままの写真へ手を伸ばす。読みかけの本の間へ差し込み、元の位置へ戻した。
冴木は、余計な物のない室内をゆるく見回した。
「……らしい部屋」
冴木の口元に浮かんだ笑みを気に留める様子もなく、蓮は硬く結ばれたネクタイを緩め、上着のボタンを外す。
軍服を脱いだあとのシャツは体に沿い、肩幅の広さと胸板の厚みが隠しきれずに主張する。
袖を抜いた瞬間、左肩に痛みが走る。表情を曇らせたまま軍服の形を整え、ハンガーへ掛けた。
「指先、痺れてます?」
「日常動作に支障はない」
「今日みたいに拘束時間が長いと、炎症が戻る可能性ありますよ」
装具の位置を確かめるため、冴木は距離を詰めた。
「傷、見せてください」
左肩に触れようと横に並ぶと、上背のある蓮を見上げる形になり、想定より距離が近い。
厚手の軍服に隠れていた無駄なく締まった輪郭が浮き彫りになる。
鎖骨の下には、砂漠の地下で見たあの黒いタトゥーが、まるで記憶をなぞるように斜めに走っていた。開いたシャツの胸元には、その黒がくっきりと浮かび上がっている。
「距離が近いのは、前の部署での癖か」
「は?」
「これも任務なら、そういうつもりで部屋に入れたわけじゃない」
「違うけど……そういうつもりって、どういう意味」
思ったより強い調子になり、上官相手だということも忘れて、素の声が混じる。
「そっちこそ、また、ああいう状況を期待してるんじゃないの」
「ああいう状況、とは何だ」
蓮の返答には探る色がなく、冴木は言葉を失う。
本当に分かっていない──
「ちょっと待って、まさか覚えてないとか」
思わず感情が先に出て、冴木は蓮の左腕を掴む。制止するつもりの力が、思ったより強く入る。
「……っ」
左肩に鋭い痛みが走り、蓮は体勢を崩して背中からソファに倒れ込む。その勢いに巻き込まれ、冴木も引き寄せられるように胸元へ落ちた。
互いの息が触れ合うほどの距離で、体温が逃げ場なく重なる。
「どけ、肩に響く」
「……どかしてみたら?」
長い睫毛を伏せ、唇の端を湿らせると、冴木はゆるやかに顔を近づけた。
甘い息が蓮の唇をかすめ、かすかな煙草の香りと熱が肌に触れる。
次の瞬間、蓮の手が冴木の腕を掴み、体勢が入れ替わる。
冴木の背がソファに沈む。
蓮の腕が逃げ場を塞ぐように両手を押さえつけ、身を重ねて抑え込んだ。
「どかしてみろ」
想像以上の握力で手首を押さえられ、動きを失う。
「……いいよ」
瞳だけが光を孕み、冴木は濡れた下唇をゆっくりと持ち上げる。艶めいた微笑が、囁きより低い声で零れた。
「忘れてるなら、思い出させる?」
「その顔、やめろ」
蓮は顔を背け、力を緩めた。
「……くだらん」
「ごめん、……調子に乗った」
予想より率直な調子で返ってきた声音に、蓮は手首を離した。
「……悪かった。少し苛立ってた」
蓮はソファの背へ手をかけ、冴木を抱き起こす形で体を起こした。
「お前の言う通りだ。長時間の拘束で、少し痛む」
そう言って、ボタンへ指を掛ける。
肩口からシャツが滑り落ち、引き締まった胸元と肩の線があらわになる。
冴木より一回り大きい体格が、位置の近さを余計に意識させる。
固定具を外すと、内側のガーゼに薄く血が滲んでいる。
「思ってたより悪そうかも」
「そうか」
「明日の朝、医療班で再処置。これは一度きちんと見せた方がいい」
「面倒だな」
「……素直じゃないね、隊長」
「軍警察で同じことを延々と繰り返されて、疲れただけだ」
「何か温まるものでも、淹れようか」
「いや」
「じゃ、俺が飲みたいので」
冴木は立ち上がり、肩越しに笑みを投げる。
制止の言葉が返るより先に、冴木はキッチンへ向かった。
蓮はその背中を一瞥してから、足元に落ちていたシャツを拾う。
代わりに黒の部屋着を手に取り、強張った肩を軽く回して、袖を通した。
キッチンの収納を開け、冴木は並べられたカップの奥に小さな箱を見つけた。
「へぇ。ハーブティーなんて、あるんだ」
箱の端に、細い青色のリボンが掛かったまま残っている。
(もらい物、か……)
給湯ユニットの電源を入れた冴木は、リボンの結び目に指をかけた。
リビングへ戻ると、蓮はソファに腰を下ろし、背もたれへ体重を預けていた。
黒の部屋着に変わっただけなのに、余計な線が消えて、さっきより存在感がはっきりする。
「何だ?」
「……別に」
冴木はローテーブルにカップを置く。
「何か食べます?」
「今はいい」
蓮はカップを手に取り、立ち上る香りを確かめる。心地よい匂いが、緊張を押し戻した。
「今日の資料、後で送っておいてくれ。こんな時間で悪いが、整理しておかないと白倉が困る」
「もう全部、整理してあるよ。議事も補給線の修正も反映済み。明日の予定も、俺が出れば回るようにしてある」
「助かる」
「やっぱり明日も、今日と同じ?」
「だろうな」
蓮はカップを置く。
「……作戦指示が、書き換えられていた」
冴木は思わず顔を上げた。
「FRINGE-07は俺には殲滅任務として通達されていたが、中央の公式記録では最初から捕縛作戦として扱われている」
「捕縛対象を、隊長が処理した形に?」
「そういうことだ」
「それで軍警察」
「筋書きはできているらしい」
「俺以外で、隊長に不利になる形を作れそうな相手に心当たりは?」
「一番疑うべき立場のお前を、自分で先に外すのか」
「疑ってくれていいよ」
肩の力が抜けた素直な声音に、蓮の口元がふっと緩む。
「まあ、そういうことだ。明日も頼む」
額にかかった髪を無造作にかき上げ、背もたれに体を預けたまま目を閉じる。
「さっきは、すまなかった」
冴木は何も言わず立ち上がり、再度キッチンへ向かった。
「おい」
背後から声が掛かるが、構わず冷蔵庫を開ける。
「明日も同じなら、何か食べておくべきだから」
中を確かめながら、小さく肩をすくめた。
「初日からこんな時間まで、業務が伸びる想定じゃなかったけど」
冷蔵庫の扉を押さえたまま振り返る。
「一応、あるもので何でも作れるんで」




