PHASE II-10|着任
零域戦術部隊ZΩ-00/基地内
越境武装勢力殲滅作戦 作戦終了後【三日目】
零域基地執務区画に、明け方の薄い光が差し込んでいた。
廊下の奥では当直士官が仮眠室へ戻るところだった。
通路を進むたび、感知灯が順に点き、足音だけが奥へ抜けていく。
蓮は執務室へ入り、隊長デスクの椅子を引いた。
上着の裾を払って腰を下ろしかけた瞬間、肩を固定する装具が服の下で擦れた。
「……っ」
左肩の奥が強く引きつり、押し殺した息が喉の奥でこぼれた。
呼吸を整えるより先に、端末が起動し、作戦一覧が立ち上がる。
投入部隊、損耗率、転送ログ。
整然と並ぶ記録の中、三日前の越境武装勢力殲滅作戦FRINGE-07を確認する。
作戦記録の最終統合は、すでに中央戦略府のアーカイブへ転送されているはずだった。
蓮の目が止まる。
──分類階層:Ω
統合防衛軍の通常アーカイブで完結しているはずの作戦記録が、別の階層に移されていた。
再分類の通知は来ていない。中央戦略府へ統合転送済みの作戦記録が、基地側で階層変更される理由はない。
蓮は転送履歴を呼び出す。
端末、権限、再分類時期──ログの欄は空白だった。
「……おはようございます、桐生隊長」
扉の外で感知灯が点灯し、執務室の扉が控えめに開く。
「相変わらず、早いですね……」
白倉修司は、縁の細い眼鏡の奥で顔を上げ切らないまま、入口側の事務補佐官デスクに座る。
端末の光が、真面目に整えられた前髪の端を淡く照らした。タブレットから予定表を開き、今日の欄を確認する。
0830 損耗率再計算報告会
1000 資源帯報告書確認
1130 補給線調整打合せ
1200 中央会着
……空白は、ほとんどない。
「隊長、午前の予定は──」
言葉が途中で止まる。
デスク越しの横顔に、 触れていい温度ではないと感じる。
三ヶ月前に配属されてから、まだ測りきれていない距離があった。
「後ほど、まとめて転送します……」
その言葉に重なるように、控えめなノックの音が、澄んだ空気の執務室に響いた。若い女子隊員がトレーを抱えて入ってくる。
「おはようございます。桐生隊長、珈琲を」
デスクに置かれかけたカップを、蓮は視線を上げないまま手で軽く制する。
「必要ない」
言い終わるより先に、カップから甘い匂いとわずかなミルクの香りが立った。拒むはずだった言葉が喉の奥でほどけ、制しかけた手が止まる。
「いただこう」
「……あ、どうぞ」
普段から必ず断られるはずの珈琲が、そのまま隊長の手に収まっている。白倉が、思わず手を止めた。
女性隊員は軽く会釈して執務室を出る。廊下から歩いてきた冴木と扉の前ですれ違った。
「受け取ってもらえました、珈琲」
「そう、良かったね」
冴木は軽く微笑み、閉まりきらない扉を指先で押して執務室へ入った。
扉の近くの机で端末を操作していた白倉が、気配に顔を上げた。
見覚えのない顔。
冴木は自然な動きで軽く白倉に会釈した。
白倉の机の奥、窓際の隊長机の手前にもう一つ机が置かれている。しばらく空席だった机。
デスクの端に、鈍い金属色のネームプレートが立てられていた。
Lt. Yuto Saeki
Executive Officer
一瞬、白倉の反応が遅れた。
整った輪郭に、場違いなほど艶めいた気配。
「申し訳ありませんが、こちらは関係者以外立ち入りが……」
「副官だ」
窓際の机で蓮が短く言った。
冴木は表情を和らげ、正式な礼を取った。
「はじめまして。副官の冴木悠斗です」
白倉は慌てて姿勢を正す。
「し、失礼しました。事務補佐官の白倉です」
「後ほど、改めてご挨拶を」
冴木はネームプレートを手に取り、鈍い金属の重みを指先で確かめるように眺め、口元に淡い笑みを浮かべる。
静かに机へ戻すと、蓮の前まで歩み出た。
「現場では顔を合わせていましたが、こちらには初出勤になります。よろしくお願いします、桐生隊長」
蓮はコーヒーカップを持ち上げ、冴木へ向けた。
「お前か」
「お気に召しましたか」
冴木の笑みに、蓮はわずかに眉を寄せる。
カップに口をつけ、一口含むと、ほのかな甘みが喉の奥に広がった。
「余計な配慮は不要だ」
蓮は静かにカップを置くと、机の端末に指先を触れ、表示を冴木へ向けた。
「どう思う」
冴木は画面の作戦記録のアーカイブへ目を落とす。
「先日の作戦記録が、階層Ωに移されていますね」
「軍作戦だが、政府直轄案件に移されている。初めてだ」
「政府が回収したのでしょう」
「交渉材料か」
「あり得ます。対象の死が交渉材料になる場合、軍の記録から外されることもあります」
「……そうか」
互いに顔を上げた瞬間、ふと目が合った。
三日前と同じ熱が二人の間をよぎる。
地下通信室で外された装甲。砂の落ちる音の下で触れた体温と、アルコールの感覚。
その空気を断つように、デスクの端末が短く鳴る。
『桐生隊長、司令室までお越しください』
「了解」
短く返し、蓮は端末の表示を閉じた。
白倉が思い出したように声を掛ける。
「隊長、0830から損耗率再計算の会議です」
「それまでには戻る」
それだけ残して、蓮は執務室を出ていった。
「忙しいね」
白倉は少し困ったように笑った。
「そうですね。朝も誰より早いですし」
言いながら、肩をすくめる。
「それで僕も早く来ないといけなくて……正直、ちょっと大変なんですけど」
白倉は眼鏡の位置を直し続けた。
「まだ三ヶ月で、僕も慣れてなくて。ここ、事務補佐官も長く続かないんです」
「そうなんだ」
冴木は答えながら副官席の椅子を引き、脚を組んだ。
「副官も何人も辞めてるので、もし冴木さんも無理そうなら──」
「無理じゃないよ」
「……え」
「朝早く来いって、桐生隊長が言ってるの?」
「いえ、それは……」
「完璧にやれって強要してる?」
「それは、ないです」
「じゃあ、勝手に思い込んでるだけだよね」
白倉の思考が一瞬止まる。
「なのに辞めるの?」
「……それは」
白倉が言葉を探して黙り込むと、冴木は思い出したように椅子の横に置いていた鞄へ手を伸ばした。
「そうだ。初出勤の手土産、持ってきてた」
丁寧に包装された菓子箱を取り出し、白倉へ差し出す。
「甘いの平気?」
「ありがとうございます」
「ちなみに隊長も甘いもの好きだよ」
「まさか」
「また決めつけてるよね」
甘い香りが静かな執務室に広がる中で、冴木は机の上に置かれた銀色のネームプレートへ指先を伸ばす。
「冴木さんって、前の部署……第七戦略域でしたよね」
「そう、赤域管理部だよ」
「それって……」
「うん。だいたい想像してる通りの部署」
冴木はネームプレートに刻まれた自分の名前をなぞる。
「それ、嬉しそうですね」
「まあね。自分のデスクって、初めてだから」
白倉は改めて冴木を見る。そこがどういう部署か、知らないわけではなかった。
整いすぎている顔立ち。
細い顎の線、長い睫毛、軍服を着ていてもどこか場違いに見える静かな色気。普通の部隊に置くには、目立ちすぎる。
赤域管理部がどういう仕事をする部署かを思えば、納得はできた。
「よろしくね、白倉くん」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「長く一緒にやることになるかもしれないよ」
冴木は手の中のネームプレートを指先で軽く弾く。
澄んだ音が、静かな執務室に小さく響いた。




