第21話:重大な欠陥
「チュンチュン」
ヒヨリは小鳥のさえずりで目を覚ました。
昨日は、昔のことを思い浮かべるうちに、いつの間にか眠ってしまったようだ。
独房の空気は冷たく湿り気を帯びていて、薄い布団が敷かれたベッドの上でも、冷えが体に染み込むようだった。
小さい窓から差し込む朝の光が、頼りなく室内を照らしている。
ふと、遠くから響いてくる足音に気づく。
ゆっくりとした足音に混じる杖の音――ガスポール先生だ。
毎朝、先生が様子を見に来るのは恒例となっていた。
けれど、その優しさも、今のヒヨリには重荷でしかない。
扉の鍵が外れる乾いた音が響き、続いて鉄格子が重く軋む音を立てて開いた。
冷たい空気が揺れ、ガスポールが独房の中に足を踏み入れる。
「ヒヨリ君……調子はどうかの」
穏やかな声が独房に静かに響く。
ベッドの隅に座り込んでいたヒヨリは、顔を上げることなく膝を抱え込んだまま、小さな声で答えた。
「もう、ここには来ないでくださいって言いましたよね?」
その言葉は、どこか乾いた響きを帯びていた。
ガスポールは少しの間黙り込んだが、やがて静かに口を開いた。
「ヒヨリ君、とにかく、今すぐ過去に戻るんじゃ」
ヒヨリは顔を伏せたまま、反応を返さなかった。
その姿は、言葉を発する気力すら失っているように見えた。
「我が国のためには、ヒヨリ君の力が必要なことくらいわかるじゃろ」
ヒヨリの肩がわずかに震える。胸の奥に刺さった言葉が、じわじわと痛みを広げていく。
ヒヨリは答えなかった。
冷たい空気が無言のまま二人の間を漂い、ガスポールの言葉が、疲れ切った心にさらに重くのしかかるようだった。
「何度でも戻ってやり直せばええんじゃ」
ガスポールは簡単に言ったが、その言葉はヒヨリの胸を深くえぐった。
――何度でも? どれだけ傷ついても、私だけが我慢し続ければいいってこと?
戻るたびに心がすり減り、光が消えていくあの苦しさを、目の前の人は何もわかっていない。
ヒヨリは唇を噛んだまま、何も言えずにいた。
心の奥で膨らむ不満が、徐々に声になりそうになるのを必死に抑え込む。
「ヒヨリ君にしかできんことなのじゃよ」
その言葉に、ヒヨリの喉元がぎゅっと詰まった。
瞳には薄っすらと涙が滲み、視線を落としたまま震える指先をぎゅっと握りしめる。
けれど、その涙を拭おうとはしなかった。
拭ったところで、この重荷は消えてくれないのだから。
「いつまで甘えておるんじゃ! ヒヨリ君は選ばれた“光属性”なんじゃ!」
その言葉が、ついにヒヨリの心に最後の一撃を加えた。
胸の中に溜め込んでいた感情が、一気に弾けるように溢れ出す。
「……てください」
小さく漏れた声は、ガスポールには届かなかった。
彼は眉をひそめ、聞き返す。
「なんじゃ? なんと言ったんじゃ?」
ヒヨリは息を詰めた。喉の奥が焼けるように熱い。
指先の震えが止まらない。怒りと絶望が全身を侵食していく。
ヒヨリは心の奥底から込み上げてくる怒りと絶望に耐えきれず、ついに堰を切ったように言葉を放った。
「もういい加減にしてくださいっ!!」
独房の静寂を切り裂くようなヒヨリの叫び声が響き渡った。
それは冷たい鉄格子に反響し、室内に何度も跳ね返る。
「いっつもそう!! 私ばっかりに押し付けて!! もう放っておいてください! 私には無理なんですっ! もう限界なんですっ!」
ヒヨリの言葉が冷たい空気を震わせた。
ガスポールは面食らったように目を見開き、口を開こうとしたが、言葉が出てこなかった。
「全部ガスポール先生のせいですっ!」
ヒヨリの声は震え、涙が溢れて頬を伝う。
これまで堪えていた感情が、溢れる涙とともに一気に吐き出される。
「全部、先生の言うとおりに……我慢して、頑張ってきたんですっ! でもっ、みんなからは疑われて、嫌われて……いつだって、ひとりぼっちで……!」
止まらない涙は視界を歪ませ、部屋の薄暗い光を滲ませていく。
どんなに叫んでも、伝わらない痛みに胸が締めつけられ、言葉が途切れ途切れになる。
「逮捕された時だって、もう一度過去に戻ってやり直そうか考えたんですよっ? でも、どれだけ頑張っても誰かが死んじゃう……全然うまくいかないんですっ……!」
ヒヨリの言葉が鋭い刃となって、室内に響き渡る。
「どういうことじゃ、ヒヨリ君?」
ガスポールの声が静寂の中に溶け込むように響いたが、その言葉はヒヨリの涙を止めることはできなかった。
震える声で、ヒヨリは必死に続けた。
「……私、……もう数時間も過去に戻れなくなってるんですっ……! 私の中にあった光がどんどん消えていっちゃう……」
ヒヨリのその言葉に、ガスポールの表情が凍りついた。
独房の冷たい空気が二人の間に重くのしかかる。
「ヒヨリ君、それは……、“光属性”の論文をまとめる中で見つかった“欠陥”の影響かの……?」
ヒヨリは静かに頷いた。
頷くたびに涙が溢れ、ぽたりぽたりと床に小さな染みを作っていく。
「そんな……、これほど急激に起こりうるものとは……思っておらなんだ……」
ガスポールの声は動揺を隠せず、震えていた。
ヒヨリの“時間を戻す能力”には重大な欠陥があった。それは、ヒヨリの能力を知ったり、その能力に起因する疑念を持つ人間の数が増えるほど、戻せる時間が短くなるというものだった。
信じる人が増えるたび、未来を変えるための猶予が削られていく――。
それは、ヒヨリの力が抱える本質的で厳しい制約だった。そのため、能力の秘密はアモン国王、ソロモン皇太子、ライクンを含めたわずか五人だけに留められ、細心の注意を払って管理されてきた。
しかし、そうした事情を知らない人々からすれば、ヒヨリの行動は不可解で、矛盾に満ちているようにしか見えなかった。仲間たちの疑念や不信感はヒヨリの心に重くのしかかり、それ自体がヒヨリの能力を弱める原因ともなっていた。
「……私、もう疲れたんです……。お願いします……もう、このまま放っておいてください」
震えるヒヨリの声が、独房の静寂に溶けるように響いた。
そこには、あきらめと底知れぬ疲労が滲んでいた。
ガスポールは、その場で言葉を失い、立ち尽くしていた。
杖を握る手がわずかに震えている。
やがてガスポールは、ゆっくりと歩み寄り、ヒヨリの肩にそっと手を置いた。
「ヒヨリ君……すまんの。すべてワシの責任じゃ……」
その声には深い後悔と自責の念が滲んでいた。
ガスポールはヒヨリの顔を見ることができないまま、静かに続ける。
「裁判のことは、ワシがなんとかするでの。じゃから、今はゆっくり休むのじゃ」
それだけを言い残し、ガスポールは重い足取りで独房を後にした。
杖が床を叩く乾いた音が、徐々に遠ざかっていく。
独房には再び静寂が訪れた。
小さな窓から差し込む朝の光は頼りなく、床の一角を淡く照らしている。
ヒヨリはベッドの隅で膝を抱えたまま、小さく震えていた。
瞳から溢れた涙が頬を伝い、膝にぽたりと落ちる。その涙は布地にじわりと染み込み、冷たい感触となってヒヨリの身体に広がっていった。
第21話までお読みいただき、ありがとうございます!
今回は、ヒヨリが抱えてきた重圧や苦しみがついに限界を迎え、彼女の心情が大きく揺れ動く回でした。
次回以降、少し視点が変わりますので、ぜひここまでのヒヨリのお話について、評価やブックマーク、感想で教えていただけると嬉しいです。
引き続き、応援よろしくお願いいたします!




