41 幕間(エピローグ5)
後日、領主は来訪スケジュールを順調に消化し、彼は自らの領地へと帰っていった。
それからは、何事もなく日々が過ぎた。
いや、ヨハンにしてみれば何事もない日々だったが、ベルフォルマ商会ミラ支部は、公開審議の後始末や、問い合わせの対応などにかなり慌ただしくしていた。
それでも領主が禁を下した効果なのか、キール・ベルフォルマに関する質問は少なかったようで、当然、ペテン師といった非難の声もそこにはあったが、彼が下した決断に賛同してくれる声も確かにあったそうだ。
ただ、あれほどの出来事があった後だというのに、旧都市ミラに住む市民たちが日常を取り戻すのはあっという間だった。
本社へと帰っていったルーク・ベルフォルマの予見通り、ギルバート王子に関する“新たな物語”も、早速そこかしこで聞こえてきており、むしろ、公開審議の余波で観光客は増えたと誰かが言っているのを、ヨハンは耳にしていた。
旧都市ミラほど早くはなかったが、ミラ支部のベルフォルマ商館もひと月ほどで落ち着きを取り戻していく。
そうして余裕が出来たからだろう、その頃になってネイサンがようやく、例の“ナ”発言についてヨハンに言及してきた。
けれど彼は、あれを謎かけか何かだと思ったらしく、降参したように「な、って、結局なんなんだ?」と直接聞いてくる。
ヨハンは少し考えたあと、答えを答える代わりにネイサンの手を取って、自分の手のひらと合わせることにした。
無言で行われたその行動に、ネイサンの頭にはさらなる疑問符が浮かんでいたが、ヨハンの手のサイズに少なからず驚いていたようなので、“徐々に慣らす”は順調に進行していた。
皆と同じように、ヨハンもまた商館での下働きを再開している。
少し前までは王女捜しを手伝っていたから、せわしなく商館を行き来する事が多かったが、もうその必要が無くなって、随分のんびりとした日々だったが、しかし、それはそれで少し物足りなくも思っていた。
そんな、ある日のこと。
言付かった用事でベルフォルマ商館と隣接している居館へと向かったのだが、その庭先で、ある人の姿を認めた。
少し離れた場所に置かれるベンチに座って、藍色の髪に黒いリボンをしたその人は、アンジェリカ王女の生まれ変わりである、アンナだった。
そういえば、とヨハンは昨日キールが言っていたことを思い出す。
ここしばらく忙しくしていたが、今日やっと、初デートとなるものをするらしい。その待ち合わせとして彼女はここに居るのだろう。
ちなみに、アンナのことは少し前に捜していた、例のベルフォルマ家の遠い親戚の娘となっている。
ネイサンの懸命の捜索の結果ようやく見付かって、その出会いがきっかけで、アンナと付き合いはじめたという設定だった。
2人とも王族だった頃は、気軽に出歩くことはもちろん、会うことすらままならなかったから、今の身分はとても身軽だろうと思う。
街へと自由に出掛けられるだけでも楽しめそうな気がするが、この旧都市ミラには、劇場だけでも二桁を越える数があるし、舞台で使われたりするパンチカードで動くオーケストリオンやオートマトンの展示会や、ショッピングアーケードなどもあるから、一体どこへ行くのか興味本位で聞いたら、キールが初デートの場所に選んだのは、写真館だった。
写し絵とは比較にならない写実性をたいそう気に入ったようで、アンナの姿を是非とも写し撮っておきたいらしい。
まず、普段通りの格好のまま写真を撮って、それから、ちゃっかりと用意していた既製品のドレスやら装飾品を何点かを、写真館で着替えさせて撮るつもりだとか。
本当なら写真館を丸ごと一つ買い取って、受注品のドレスや装飾品を詰め込み、巨大ウォークインクローゼット化させたいのだろうが、あんな公開審議があったばかりだから、まだ自重しているようだった。
キールが写真を欲しがるのは分かりきったこととして、写真が欲しいのはどうやらアンナの方も同じらしい。
3百年ぶりに再会したのだから、本当なら毎日のように会ってもいいくらいだろうが、2人とも仕事のある身なので、代替品となるものが欲しいそうだ。
ただ、王女にあれだけの執念を見せていたキールである。彼女と会える時間が減ることはもとより、彼女を労働階級に置いていることにいつまで耐えられるかと思っていたが、それもしばらくは大丈夫そうだった。
キールとアンナが同じ16歳だという事は、2人が出会ったその日に分かっていたが、先日、生まれた日まで同月同日だったことが判明して、それからずっとキールはすこぶる機嫌がいいのである。
アンナと魂で繋がっていることが、あたかも証明されたようだと、きっとまた、死する時も同時だろうと、人目もはばからず笑っていたので、ネイサンとヨハンはその場をそっと離れた。
そんなことがあったことも知らず、ぼんやり空を眺めているアンナの姿を、ヨハンも何とはなしに眺めていたが、彼女がおもむろに振り向いたので、どきりとする。
視線が合った途端、全身の何かがぞわぞわとざわついた。
アンナは微笑みながらベンチから立ち上がり、ヨハンのそばへと歩み寄ってくる。
「こんにちは」
「……こんにちは」
ヨハンの声は、まるで人見知りする子供のように小さくなっていた。
「この間、お会いしましたね。ええと……ヨハンさん?」
こくりと、ヨハンは頷く。
「…あ、ごめんなさい。お仕事中でしたら、引き止めてしまいましたね」
「いえ。……その、大丈夫、です」
言った後で、しまったと思った。それを口実に、この場から離れれば良かったのだと後悔するヨハンを、アンナはじっと見つめている。ヨハンは余計に緊張していった。
「……あの、つかぬ事をうかがいますが、もっと以前にお会いしたことはありませんでしたか?」
「……? いいえ」
「…ですよ、ね」
アンナは、自分でも何を言っているのか、よく分からないという顔をしていた。
そんな可笑しな会話のせいなのか、何やら言葉では言い表しがたい奇妙な空気が2人の間を流れていく。
不意に、何かの気配を感じて、ヨハンは後ろを振り向いた。
その数秒後、商館側の裏口から現れたのはキールだった。
彼は、アンナとヨハンの2人に目を留めると、意外な光景を見たように瞠目するが、ヨハンはそれよりも、これで逃げ出す理由が出来たことにほっとした。
「……えと、それじゃあ」
おざなりな挨拶を残して、ヨハンは足早に駆けだした。
アンナは、居館の戸口へと消えていく、ヨハンの後ろ姿を見送っていた。
「……気になる?」
「え。…ええ、少しだけ」
すぐ隣にいたキールに、アンナは返事を返しながら彼を見向く。
「そうなんだ。……やっぱり」
「…………え?」
「……何て言えばいいかな。僕もさ、どうにもあの子には甘くなるみたいで。結局、断り切れずに稽古とか付けてしまってるし……痣とか付けるの嫌なんだけど」
ぽつりとした語尾にアンナが首を傾げると、キールから苦笑が返ってきた。
「たぶん、あの目と髪の色に、既視感を覚えるせいだと思う」
言われて、ヨハンの髪と目の色を思い出す。
綺麗なブロンドに、グリーンの瞳だった。そう、金と翠の。
「何より、あの能力」
「…能力?」
「うん。あの子には、ちょっと変わった才能があってね。……だから、単なる仮説なんだけど、王家の傍系が何人か生き残っていても不思議じゃないし、その内の一人が先祖返りした、とか?」
王家の傍系という言葉が“何を”指しているのか、アンナには理解の外すぎて、すぐには結びつけられない。
けれど、しだいに湧き上がってくる“可能性”を理解して、アンナは自らの口を両手で覆った。
「――ど、ど、ど、どどどどどど」
「大丈夫。落ち着いて」
キールに優しくなだめられ、アンナは口を閉じてゆっくりと頷く。
きょろきょろと辺りを見渡し、誰も聞き耳を立てていないことを確認してから、キールの耳元でささやいた。
「ど、どうしましょう」
「うーん。どうしようもないんじゃないかな。確かめようにも、血筋なんて辿りようがないし……でもまあ、とりあえず領主様には黙っていた方が良いかな、とは思う」
アンナは、キールが言ったことの意味を呑み込むと、こくこく頷く。
「それに、あの子の事はどっかの誰かに……いや、逆か。どっかの誰かさんは、あの子に任せておけばいいしね」
「……どなたの事ですか?」
「さあ、どなたの事だろう」
言葉遊びのような言い回しに、アンナはまた首を捻る。
「それより、アンナ。僕たちの約束は、いつ果たそうか?」
「あ、はい。写真館ですよね、参りましょう」
「ううん、そっちの約束じゃないよ」
「……?」
キールは、灰色の目を悪戯っぽく細めると、自分の手をアンナの目の前に掲げて見せた。
そこには、白い花と青い花の小花で作られた、とても小さなブーケがあった。
「忘れてしまった? 僕たちは、3百年前から婚約してるよね?」
アンナは、はっとして、灰色の目に視線を返す。
彼から問われた言葉と、差し出された花の色。
2つ同時の贈り物は、アンナの胸を愛しさと懐かしさで苛んでいく。
何も言えないでいると、それを見取ったように、キールが小さなブーケをアンナの髪にあるリボンとの間に挿し込んだ。
「……それとも、16歳では早すぎる?」
頭上からふってくる声に、アンナは首を横に振る。
「わ……私も、これからはずっと、キール様と共にありたい、です」
距離がいっそう近づいた。熱をはっきり感じるほど近づいて、抱きしめられるのかと身構えてしまうが、そうはならなかった。
「――――ありがとう」
こめかみに、彼の額が触れた感触があった。
それだけなのに、アンナは途方に暮れそうだった。
こんなにも気安く触れ合ってしまっている。触れ合っても、誰も止めはしない。
これからも、こうした事が続くのかと想像するだけで頭がゆだりそうだった。
やがてキールがアンナから離れた。
安堵したような、物寂しいような感覚を持て余していると、
「じゃあ、今度こそ行こうか。写真館」
そう言って、キールから手が差し出される。
「…………」
どこからどう見ても、それは手を繋いで行こうという意思表示だった。
けれど、これから写真館へ行くはずで、そうなると手を繋いだまま人前に出ることになる。そんな恥ずかしいことをするのかと、問うように彼を見上げれば、とても期待に満ちたキールの破顔がそこにはあった。断れなかった。
写真館へは徒歩で向かうことになっていたため、馬車には乗らず、人と人が行き交う街路へ出ていくが、手を繋ぐアンナたちを気に留める者は特にいなかった。
アンナの気を紛らわすためにか、所々でキールが適当な建物を指して、どういう目的を持った建物で、3百年前のどういう建築様式が継承されているか、アンナにも分かる名前や名称を使って説明してくれる。
まるで、彼がひとつひとつ建てていったかのように、キールはとても詳しかった。
次第に人目を気にする気持ちも薄れ、キールの解説に耳を傾けながら街の中を行くが、その時、劇場街へと続く路地がアンナの視界に入ってくる。
劇場街の付近は、今もたくさんの人を集めているようだった。
知らず見ていた視線の先に目敏く気付いたキールが、アンナの胸の内を見透かしたように、こっそりと耳打ちしてくれる。
あの公開審議のあと、『セントリーズの悲恋』を演目としていた劇場は、公演を自粛してしまったことはアンナも知っていたが、多くの顧客や市民からの声を受けて、近々公演を再開する予定らしい。
その報せに、アンナは素直に嬉しいと、ただそれだけを感じることが出来た。
キールにそう伝えれば、彼も穏やかな微笑みを返してくれる。
言葉をそれだけ交わして、アンナとキールは、再び石畳の上を歩き出した。
他人事だと言うつもりは、けっしてない。
これからもきっと、何度となく向き合っていく自分たちの過去で、けれどそれは、ずっと昔に聞いた物語のようなものでもあった。
事実、物語なのだろう。
あの悲恋はもう、物語の中にしかないのだから。
これにて完結です。
たくさんのブクマ、評価、感想ありがとうございました。




