プロローグ
傾国の怪物。
そう呼ばれる皇子はいつもたった独り、塔の上に居た。
物心がついた時から――否。きっと、生まれた時から怪物だった。
これは、いずれ「傾国王」と畏れられる男が、何よりも王の威光を放ち、何よりもの王の権威を示したとされる「王笏」たちを、その掌中に収める物語。
◇◇◇
ルトレギナ・カリステギア・デックアールヴは大陸南部の超大国、ヤルンヴィド帝国が第三皇子として生を受ける。
その半生を振り返ると、ルトレギナはまさしく「怪物」と呼ばれるに相応しい存在であることに間違いはなかった。
ルトレギナの湯浴みのお世話をしていた侍従の爪が、ルトレギナの肌にほんの微かな掠り傷をつけた時。
「痛い」とルトレギナが小さく肩をびくつかせただけで、浴場の遍く水が大渦大竜巻を生み出して巻き上がり、侍従たちをことごとく吹き飛ばして、壁へと叩きつけた。
侍女に寝物語を聞かせてもらって、ルトレギナがくすくすと小さな笑い声を零した時。
その笑い声が雷を伴った衝撃波と成り、窓硝子をいとも容易く割って、ついには侍女の鼓膜をも破ってしまい、両耳を出血させる重傷を負わせた。
そうして気が付けば、ルトレギナの周りには、侍従どころか皇帝たる父も、兄皇子たちも、誰も近づくことがなくなり。いつの間にかルトレギナは、皇族の居城たる大宮殿のはずれにある牢獄の如き高い塔に独り隔離され、まるでその存在を隠されるかのようにひっそりと生きていた。
あるいは、生かされていた。
独房のように何もない塔の部屋の中で寝転がり、天井を見上げていた齢七つのルトレギナは、小さく息を吐く。
己の半生を悲観的に振り返るなど、こんなことを考えてしまうのは、部屋の外からルトレギナを監視する近衛兵たちの陰口が嫌でも聞こえてくるせいだった。
「いいか、新入り。〈塔の君〉に決して心を許してはならんぞ。あれは怪物だ。常に警戒を怠るなというのが、皇帝陛下からの命だ」
「は、はい。わかりました。けど……〈塔の君〉はまだ七つの子どもでしょう? そこまで言わずとも良いのでは……」
どうやら新人の近衛兵に、この塔の近衛兵としての心得とやらを言い聞かせているらしい。「塔の君」とはルトレギナのことだ。
ルトレギナは、近衛兵たちのひそひそ声に、耳をそばだてずにはいられない。
「知らんのか? 〈塔の君〉は、母君の産道から産まれ落ちた瞬間――産声を上げた瞬間に、その膨大過ぎる魔力が大嵐を呼び寄せ、産屋を吹き飛ばしたどころか、帝都に甚大な災厄を齎したのだぞ。七年前の帝都を呑み込んだ大洪水がそうなのだ」
「ま、まさか……! そんなことが!?」
新人近衛兵の声が慄き、震える。新人に〈塔の君〉の恐ろしさを説いている近衛兵も、息を吞んで唸るように呟いた。
「それから〈塔の君〉の魔力は、今も成長と共に、更に強大に成りつつある。まさに〈傾国の怪物〉。その怪物じみた大いなる御力の暴走を危惧され、皇帝陛下は〈塔の君〉に読み書きさえ覚えることを禁じられたのだ」
その言葉と共に、本の一冊もペンの一本すらも置かれていない、殺風景な己の部屋の有り様が、痛いほどにルトレギナの目についた。
まるで、近衛兵たちの陰口が――噂されている皇帝の御心が、真意であるかのように、思えてしまう。
ルトレギナは頭を振って、小さく声を絞り出す。
「……ちがう……そんなもの、うそだ」
皇帝陛下が――父が、己を恐れて読み書きを禁じるなど。そんなことするはずがない。
ルトレギナは両手で耳を塞いで、ぎゅっと目を瞑ると、身体を丸めて縮まり込んだ。目の奥が熱くなってきて、これはいけない、と歯を食いしばる。
目の奥が熱を持った瞬間に、外で突風が吹き荒れたのだろう。窓が激しく、がたがたと揺れて鳴き喚いた。それが己の魔力のせいではないと、ないはずだと、必死にルトレギナは自分に言い聞かせた。
「おい、お前たち! 至急、迎賓の準備を整えろ――皇帝陛下が視察のためおいでになられた!」
不意に、近衛兵たちの慌ただしい声が聞こえてきて、ルトレギナは弾かれたようにその身を起こす。
「……ちちうえが……?」
ルトレギナは思いがけず、金色の瞳が零れんばかりに目を大きく見開いた。
父が、この塔を訪れている。
それはあまりにも珍しく、随分と久しいことだった。ルトレギナが最後に父に会ったのは、確か二年ほど前だったはず。
ルトレギナは分厚い暗雲に覆われていたかのようにどんよりとしていた心が、ぱあっと晴れ渡るような心地がした。
今、ただひたすらにルトレギナの胸を突くのは、父に会いたいという熱情にも似た衝動。
ルトレギナはその衝動に突き動かされるがまま、唯一の出入り口である部屋の鉄扉を振り向いた。
鉄扉の向こうでは、近衛兵たちが慌ただしく行き交っている気配がする。やはり、あの扉から下へはおりられないだろう。
(それならば……)
ルトレギナは鉄扉の反対方向にある、扉と同じくこの部屋にたった一つしかない窓へと張り付くように駆け寄った。
(ここからおりて……ちちうえの、もとに……!)
ルトレギナは一切の躊躇もなく、厳重に掛けられた鍵を片手で握りつぶすことで破壊し、窓を開け放つ。
そうして、身軽に窓枠へと飛び乗ると、石造りの塔の壁面に裸足の足と指を引っ掛けて、夢中で下へとおりはじめた。
「ちち、うえ……ちちうえ……!」
きっと父は、自分に会いに来てくれたのだ。今すぐに会いたい。父と、色んなお話をしたい。その一心で、ルトレギナは塔の壁を伝って地上を目指していた。
しかし、古い塔の壁面は、強すぎるルトレギナには脆かったのだろう。
ルトレギナの足が力の制御を間違って、壁面を破壊してしまい、ルトレギナは大きく足を滑らせた。その拍子に両手も壁面から外れてしまい、ルトレギナはあっという声を上げる間もなく、真っ逆さまに地面に向かって落ちてゆく。
そんな時でも、ルトレギナの心を占めていたのは、父に会いたいという願いだった。
「ちちうえ……まってて……!」
ルトレギナがそう声を零して、片手を宙に伸ばす。
その声が、誰かに届いたのだろうか。否――ルトレギナが秘める、強大な魔力を呼び覚ましたのかもしれない。
瞬く間もなく、塔の全体を覆い尽くすように巻き付いていた蔦植物が壁面から剝がれて蠢き出し、次々と伸びてきて、落下するルトレギナの身体を受け止めた。
ルトレギナは己の手足の如く自在に動く蔦植物に導かれて、地上へと着地する。ルトレギナは目を丸くしながらも、己を守ってくれた植物群を振り返るが、すぐに目を輝かせて笑みを浮かべると、植物群の表皮を柔く撫でた。
「ありが、とお……! ぼく、ちちうえのとこ……いってくる!」
そんなルトレギナの声に、植物群はどこか恭しく地面に這いつくばる。ルトレギナは植物群に手を振ると、前を向いて駆け出そうとした。
「つ、蔦を、植物を操って……!? ひっ……バ、バケモノォ!」
「!」
松明の明かりに全身を照らされて、ルトレギナは驚きと共に眩しさで目を細める。いつの間にかルトレギナの背後には、松明を持った近衛兵が一人いた。
近衛兵が悲鳴を上げたことによって、続々とルトレギナの周りに大勢の近衛兵たちが集まってくる。
「塔の君……ルトレギナ殿下!? なぜ、このようなところに!」
近衛兵たちの中でも、一際豪奢な軍服を着た男が脂汗を額に滲ませながらも、恐る恐るといったように、ルトレギナに近づいてくる。
ルトレギナは「しまった」と内心で呟いて、下唇を薄く嚙み締めた。
「ルトレギナ殿下、いけません! お早く、塔の中にお戻りください!」
「……いや、だ。ぼくは、ちちうえに、あいたくて……」
ルトレギナはぎゅっと衣服の裾を両手で握って、近づいてくる近衛兵から後退る。ふと、近衛兵たちからひそひそと囁き声が聞こえた。
「〈塔の君〉を脱走させるなど……前代未聞だぞ……!?」
「皇帝陛下に見つかれば、ただ事では済まないだろうな」
「ならば一刻も早く、〈塔の君〉を捕らえて……!」
ぎょろり。
無数の近衛兵たちから、恐れと、奇異と、焦燥に駆られた目が一斉に向けられる。近衛兵たち全員が次第に、じりじりと追い詰めるようにルトレギナへと迫って来た。
とうとう、塔の壁面に背中が当たって、逃げ場を失ったルトレギナは、突き上げるように己の中で噴き出した、何もかもが上手くいかない焦燥と、どうしようもない怒りのままに、叫び声を上げた。
「いやだ……くる、な……こないで!」
幼い子どものただの癇癪。
それだけで済めば、どれほど良かったことだろう。
ルトレギナが叫びをあげた瞬間。それに呼応するが如く、塔に巻き付いていた蔦植物たちが一斉に牙を剥き、近衛兵たちの手足や首を絡めとって投げ飛ばし、攻撃を開始した。
それに併せて、ルトレギナの焦燥と怒りに煽られた心の写し鏡の如く、暗雲が瞬く間に空へと立ち込め、大嵐が襲来した。
塔の周りのあちこちに雷が落ち、暴風と豪雨が近衛兵たちを容易く吹き飛ばす。
近衛兵たちの悲鳴が雷雨と共に響き渡るが、硬く目を瞑って、怒りと迸る魔力に身を任せたルトレギナの耳には届かなかった。
「ルトレギナ――何をしておる、ルトレギナ!」
しかし、たった一人。ルトレギナの耳に、ルトレギナの心に届く声があった――ルトレギナの父であり、ヤルンヴィド帝国が皇帝。カムヴィ・ヘリアントス・デックアールヴの声だ。
ルトレギナは、父たるカムヴィ帝の声が耳に入った瞬間、固く閉じていた目を開けて、声がした方向を振り向く。
そこには、背後に伴う近衛兵たちに止められながらもそれらを振り切り、ずぶ濡れでルトレギナのもとへと速足で歩み寄ってくるカムヴィ帝の姿があった。
父の姿を認識した途端、ルトレギナの心が安堵に包まれる。その心に寄り添うように、嵐の勢いも弱まっていった。
ルトレギナは目元を赤らめながらも、目を輝かせて父帝のもとへと駆け寄る。
「あ……ちちうえ! ちちうえ。ぼく、ずっとちちうえに、あいたくて……」
「愚か者め!」
カムヴィ帝の怒号が、落雷の音よりも重く轟いた。思いがけずルトレギナはびくりと身体を震わせて、カムヴィ帝の前で立ち止まる。石よりも硬く、身体が固まった気がした。
カムヴィ帝はルトレギナを睥睨し、怒気を孕んだ低い声をルトレギナに突き刺す。
「余は命じたはずだ。この塔から余の許可なく出ることを禁ずると。それを破り、あまつさえそなたは、多くの民をも己が力を振るって危険に晒すのか!?」
己は、父に怒られているのだと。否、それ以上に責め立てられているのだと、ルトレギナはすぐに悟った。その事実が、ずぶりと心臓の中心に突き刺さったようで、痛くて、苦しくて堪らなくなって――気が付けばルトレギナは、泣き出していた。
「う、ううぅ……うあ、あああ……!」
ルトレギナは呻き声を上げながら止めどなく涙を零し、痛む心臓を庇う様に胸へと両手を当てて、その場に蹲る。
すると、大嵐がまるで爆発でもするかのように、ゴウ! と唸りを立てて強まった。
塔を囲む森の木々が、次々と暴風に煽られて、地面ごと根こそぎ倒れてゆく。
大地が揺れ、地響きが轟き、どこかで地滑りが起きたのだろう。濃い土の匂いが鼻腔を支配した。
滝のような豪雨が大地を叩きつけ、遍く音が雨音によって掻き消される。雨は次第に水たまりから小さな川の如き流れを伴って変貌し、洪水となってゆく。
それはまさに、大災厄。
この大災厄を引き起こしているのは、紛れもなく――大泣きしてしまったことで、秘めたる強大な魔力が暴発してしまった、ルトレギナに違いなかった。
この大災厄は、ルトレギナの今の心の、写し鏡なのだ。
ルトレギナは我を忘れて、ひたすらに泣く。
自分はただ、父に会いたかっただけなのに。どうして、怒るのだ。どうして誰も、自分のことを解ってくれないのだ、と。
塔の中は嫌だ。塔の中にいると、ずっと息が苦しくて、胸が圧迫されるように痛いのだ。肌寒くて、堪らないのだ。ひとりぼっちはもう、嫌だ。だから――。
(だから、ちちうえ。ぼくのそばに、いて――)
そうしたら、誰に何を言われようとも。陰口を叩かれ、恐れられ、疎まれ、蔑まれようとも、構わない。どんなことも、きっと平気になるから。
そう願って、祈ることしかできなくて、ルトレギナは泣く。
帝都を滅ぼす魔力を迸らせ、泣き続ける。
「ルト……ナ……ルトレギナ……ルトレギナ!」
ふと、父の声がすぐ近くで聞こえたかと思えば、ルトレギナの全身が、温かいものに包まれた。
我に返ったルトレギナは、ぱちりと目を見開いた。すると、己の全身がカムヴィ帝に抱きしめられていることに気が付く。それを理解した途端、ルトレギナの涙は止まった。
「泣き止め……泣くな。ルトレギナ……」
言い聞かせるようにそう耳元で囁く父は、抱いているルトレギナの身体を揺する。
それがあまりにも心地よくて。何より――父に抱きしめられていることが嬉しくて、嬉しくて堪らなくなって、ルトレギナはさっきまで大泣きしていたことも忘れて、頬を赤らめた。
「ちち、うえ……!」
ルトレギナがそう呟いて、抱きしめてくれる父に縋りつくと、帝都を滅ぼしかけていた大嵐などなかったかのように、たちまち空が晴れ渡っていった。
カムヴィ帝がルトレギナを抱きしめたことで、ルトレギナの心が喜びに満ち、心だけでなく帝都にも平穏を取り戻したのだ。
ルトレギナは嬉しさのあまり、父の胸に頬擦りをしようとするが、すぐに父の腕は離れていってしまう。
「え……ちちうえ……?」
父の胸が、腕の中が恋しくて、ルトレギナは父を見上げる。
そこでルトレギナは、はっと息を呑んだ。
「……ルトレギナ」
それはもう、父の目ではなかった。
全身が泥水に汚れてしまった、ヤルンヴィド帝国皇帝――カムヴィ帝の、王たる者の。昏い、黄昏時よりも昏い眼差しだった。
カムヴィ帝の昏い眼差しがルトレギナを捕らえ、ルトレギナの身体も心も、全てを固まらせる。
「よいか、ルトレギナ。もう二度と皇帝の命に逆らい、塔から出てはならぬ。そしてヤルンヴィド帝国が皇子たる者、決して泣いてはならぬ。決して心を乱してはならぬ」
ルトレギナは、己を抱きしめてくれた父に、慰めてもらえると思っていた。優しく宥めてもらえると思っていた。しかしそれは、勘違いも甚だしかった。烏滸がましいにもほどがある考えだった。
カムヴィ帝が光の無い目でルトレギナを見据え、命令してくる。
父として、息子であるルトレギナのためではなく。皇帝として、ヤルンヴィド帝国のためだけに、唖然としているルトレギナへと、静かに命じてくる。
「ルトレギナ。そなたの心は、一国をも傾ける恐ろしきもの。それをゆめゆめ忘れるでない」
そう言い残し、カムヴィ帝は駆け付けた近衛兵たちに囲まれて、またルトレギナのもとから去って行った。
ルトレギナは齢七つにして、その時に痛いほど思い知らされたのだ。
己がどれだけ罪深い存在なのか。
(……心なんてもの、なければよかった)
再び牢獄の塔に囚われたルトレギナは、それからずっと、そんなことばかり考えている。
「傾国の怪物」とされる己は本当に――生まれてきても良かったのだろうかと。国を傾かせる力を持つ、この心がある限り、生きている意味はあるのかと。
ルトレギナは今日も、牢獄の塔の上で窓に凭れかかりながら、か弱い世界を壊してしまわないように、そっと見つめている。
(災厄を呼ぶ、この心さえなければ。僕はもっと、父上の傍に……皇帝陛下の傍に、居られたのではないだろうか)




