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潰れかけ水族館を継いだ俺だけが、生き物の声を聞ける件 〜「水が苦い」と呟くウミガメの予言を信じたら、研究を奪った教授を破滅させました〜  作者: 烏賊亀


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第8話 海の声を聞く場所

守屋春臣が潮凪シーライフパークに来たのは、ルカの動画が小さく広がり始めた翌日の午後だった。

濃紺のスーツ。

灰色のネクタイ。

手には小さな菓子折り。

大学の研究室で見たときと、何も変わっていない。

穏やかな顔。

丁寧な物腰。

相手の怒りを、最初から見越したような薄い微笑み。

「水瀬くん。久しぶりだね」

その声を聞いた瞬間、蒼真の胸の奥で、七年間分の雨が降った。

研究棟のガラス壁。

段ボール箱。

補助員という三文字。

誰も目を合わせなかった研究室。

すべてが、一瞬で戻ってくる。

けれど、蒼真は頭を下げた。

「ご来館ありがとうございます。守屋教授」

声は震えなかった。

そのことに、自分で少し驚いた。

隣には七瀬凛がいた。

少し離れた事務室には佐伯がいる。

漁協の黒潮ミナトも、今日は館内に顔を出していた。

一人ではない。

それだけで、研究室にいた頃とは違った。

「お祖父様のこと、お悔やみ申し上げます」

守屋は、館長室に置かれた祖父の遺影に線香を上げた。

丁寧な所作だった。

本当に弔っているようにも見える。

だが、蒼真はもう、守屋の丁寧さを信じていなかった。

「海一郎さんには、昔ずいぶんお世話になった」

線香の煙を見つめながら、守屋は言った。

「二十一年前の共同調査ですか」

守屋の指が、一瞬だけ止まった。

本当に一瞬だった。

けれど、蒼真は見逃さなかった。

「よく知っているね」

「祖父の資料に残っていました」

「彼は記録魔だったからね。潮凪の海を、本当に愛していた」

その言葉だけなら、否定する理由はない。

けれど、守屋の目は遺影ではなく、館長室の棚に並ぶ古いファイルを見ていた。

潮凪沿岸音響記録。

水質長期観測。

アオ行動記録。

深海低周波ログ。

祖父が残した、海の記憶。

守屋が欲しがっているもの。

「実は、そのことで少し相談があってね」

来た。

蒼真は、机の上に置いた記録ノートへ視線を落とした。

今日のページには、あらかじめ見出しを書いてある。

守屋春臣来館記録。

怒りではなく、記録で迎える。

そう決めていた。

「現在、国のプロジェクトで沿岸と深海域の環境音響データを統合する計画が進んでいる。潮凪の長期観測データは、非常に価値がある可能性がある」

「可能性、ですか」

「もちろん、精査してみなければ分からない。古い設備だろうし、学術的に使えるかどうかは確認が必要だ」

精査。

守屋の言葉は、いつも正しい形をしている。

正しく聞こえるから、奪う手つきが見えにくい。

「つまり、祖父のデータを提供してほしいと」

「提供というより、保全だよ」

守屋は微笑んだ。

「この水族館の経営状態は厳しいと聞いている。貴重なデータが散逸するのは、学術的損失だ。大学で管理し、解析するのが最も安全だろう」

凛の表情が硬くなった。

蒼真は、机の下で拳を握った。

「見返りは?」

「話が早いね」

守屋は名刺を置いた。

大学教授。

海洋環境音響解析センター長。

国家海洋基盤調査プロジェクト委員。

肩書きが、さらに増えている。

「プロジェクトに協力してもらえれば、水族館には研究協力費を出せる可能性がある。君自身も、研究員として復帰できる道があるかもしれない」

研究員として復帰。

その言葉は、思っていたより深く刺さらなかった。

少し前の自分なら、揺れただろう。

奪われた場所に戻れる。

研究者として名前を取り戻せる。

赤字水族館に金も入る。

きれいな餌だった。

けれど今、蒼真の頭に浮かんだのは、研究室ではなかった。

赤潮の夜に走り回った凛。

漁協でアジの水槽を覗き込むミナト。

怖がる女の子の前で、近づきすぎず待っていたルカ。

大水槽の前で、静かにこちらを見ていたアオ。

そして、祖父のノートの言葉。

聞こえたものを、証拠に変えろ。

「俺の研究を奪った人の下で、ですか」

守屋の笑みは崩れなかった。

「水瀬くん。まだその件を誤解しているのか」

誤解。

その言葉で、喉の奥が熱くなる。

「研究室全体の成果だ。君が重要な役割を果たしたことは認めている。ただ、社会実装には責任者が必要だった」

「補助員として名前を載せることが、責任ですか」

「感情的にならない方がいい」

懐かしい声だった。

相手の怒りを、冷静ではないと片づける声。

研究室で、何度も聞いた声。

凛が、机の下でそっと蒼真の袖を引いた。

止まれ。

そう言われた気がした。

蒼真は息を吐いた。

「そうですね。感情ではなく、記録の話をしましょう」

守屋の眉が、わずかに動いた。

蒼真は、机の上のファイルを開いた。

「これは、先日の赤潮対応記録です」

水温。

風向き。

潮位。

溶存酸素。

湾奥のいけすの餌食い。

活魚水槽のアジの行動。

水族館の取水制限。

漁協の酸素供給。

被害の差。

すべて、時系列でまとめてある。

「潮凪シーライフパークは、赤潮発生前に取水制限を行いました。漁協にも警戒を促し、一部のいけすで被害を抑えました」

守屋は資料を見た。

「悪くない記録だ」

「ありがとうございます」

「だが、学術データとしては弱い。生体行動の記述に主観が多い。観測機器の校正記録も不十分だ」

「その通りです」

守屋が目を細めた。

蒼真は続けた。

「だから、改善します。市役所、漁協、水族館で共同観測体制を作ります。観測機器の校正も進める。記録形式も統一する。潮凪のデータは、潮凪で守ります」

「君一人で?」

「一人ではありません」

蒼真は、凛を見た。

凛は黙って頷いた。

「水族館の職員がいます。漁協がいます。市役所がいます。来館者もいます」

守屋は、静かに笑った。

「市民科学のつもりかい?」

「はい」

「頼りないね」

「頼りないです」

蒼真は認めた。

「でも、海のそばにいます」

守屋の笑みが薄くなる。

「大学には設備がある」

「あります」

「資金もある」

「あります」

「専門家もいる」

「います」

「なら、なぜ意地を張る」

蒼真は、しばらく黙った。

それから、大水槽のある方へ目を向けた。

「祖父は、ここをただの観光施設として残したわけではありませんでした」

守屋は答えない。

「潮凪シーライフパークは、水族館であると同時に、海の変化を聞く場所です。生き物たちの変化を、漁師や子どもや市民が見られる場所です。数字になる前の海の違和感を、人に伝える場所です」

蒼真は、守屋を見た。

「その記録を、海から切り離したくありません」

館長室に沈黙が落ちた。

線香の煙が、細く揺れている。

やがて、守屋がため息をついた。

「海一郎さんに似てきたね」

「光栄です」

「褒めてはいないよ」

「分かっています」

守屋は立ち上がった。

「館内を少し見てもいいかな。懐かしい場所もある」

凛が身構える。

蒼真は一瞬迷った。

拒絶すれば、守屋はこちらをさらに警戒する。

だが、自由に歩かせるわけにはいかない。

「案内します。ただし、バックヤードと地下区画は立入禁止です」

「もちろん」

守屋は穏やかに頷いた。

館内に出ると、平日とは思えないほど人がいた。

多くはない。

けれど、以前の潮凪シーライフパークを知る者なら、驚く数だった。

赤潮解説コーナーの前には親子連れ。

クラゲ水槽の前には、スマートフォンを構えた若い客。

ペンギン舎では、子どもたちが餌の産地を示す手書きパネルを読んでいる。

そしてイルカプールの前には、小さな列ができていた。

『ルカは今日、何を見ている?』

観察会の案内板。

守屋が足を止めた。

「イルカもいるのか」

その瞬間、プールの奥で水音がした。

ばしゃん。

ルカが、いつもより強く尾びれで水面を叩いた。

――いやだ。

声が響いた。

――白い部屋のにおいがする。

蒼真の背筋が冷えた。

ルカの声は、昨日までの軽い調子ではなかった。

――痛い音。

――笑ってる人間。

――僕の声を聞いてた。

――でも、僕のことは見てなかった。

凛がすぐに前へ出た。

「本日の午後の観察会は、ルカの状態確認のため中止します。プール付近への立ち入りも制限します」

守屋は、ルカの方を見た。

「嫌われたかな」

笑っている。

ルカが震えているのに、笑っている。

佐伯がプールサイドに立ち、ルカの前に身体を入れた。

「ルカ、大丈夫だ。こっち見てろ」

ルカは佐伯を見た。

――佐伯は違う。

声が、少しだけ落ち着いた。

――佐伯は、僕を見る。

佐伯には聞こえていない。

それでも、何かを感じたのだろう。

「大丈夫だ。今日はもう仕事しなくていい」

佐伯の声は、いつもの軽さを失っていた。

蒼真は、守屋の前に立った。

「イルカプールには近づかないでください」

「水瀬くん。私は何もしていないよ」

「今は、ですか」

守屋の目が、わずかに細くなった。

「君は、ずいぶん危ういことを言う」

「だから、これ以上は言いません」

蒼真はスマートフォンを取り出した。

「記録します」

日時。

守屋教授来館。

ルカ、明確な拒否反応。

白い部屋。

痛い音。

笑っている人間。

守屋教授、反応あり。

守屋は、その様子を見ていた。

「それを証拠にするつもりかい?」

「今は証拠ではありません。記録です」

「記録だけでは、社会は動かない」

「知っています」

蒼真は顔を上げた。

「だから、積み重ねます」

守屋は、しばらく黙った。

その後、館内を一通り見たが、以前ほど余裕はなかった。

大水槽の前に来ると、アオがゆっくり近づいてきた。

黒い瞳が、守屋を見る。

――白い手の男。

アオの声は低かった。

――まだ笑っているのか。

蒼真は、喉の奥で息を止めた。

守屋は大水槽を見上げる。

「アオは、まだ生きていたんだね。妙に勘のいい個体だった」

――勘ではない。

アオが言った。

――お前が聞かなかっただけだ。

蒼真は、その言葉をそのまま記録したかった。

だが、今はただ、聞いた。

守屋は静かに言った。

「海一郎さんは、よくこの水槽の前にいた」

「はい」

「だが、感覚だけでは何も変えられない。最後には、資金と権限が必要になる」

「そうですね」

「この水族館を守りたいなら、味方は選びなさい。漁師や地方行政に頼っても限界がある。大学、企業、国。社会的信用を持つ相手につくべきだ」

「それは、忠告ですか」

「経験からの助言だよ」

守屋は名刺を差し出した。

「気が変わったら連絡しなさい。海一郎さんのデータも、君の才能も、こんな場所で埋もれさせるには惜しい」

こんな場所。

その一言で、凛の顔が強ばった。

佐伯が拳を握る。

ミナトが、少し離れた場所で眉を吊り上げた。

蒼真は、名刺を受け取らなかった。

「ここは、祖父が守った場所です」

守屋の手が空中で止まる。

「そして今は、俺たちが守る場所です」

守屋は、しばらく蒼真を見ていた。

やがて、名刺を大水槽前のパンフレット台に置いた。

「若さは時に、選択肢を狭める」

「奪う側の人は、よくそう言います」

初めて、守屋の表情が崩れた。

本当に一瞬だけ。

けれど、それで十分だった。

守屋はすぐに笑みを戻した。

「また来るよ」

「次回は事前にご連絡ください」

「もちろん」

守屋は去っていった。

正面入口の自動ドアが閉まる。

その音が、やけに大きく響いた。

誰も、しばらく喋らなかった。

最初に口を開いたのは、ミナトだった。

「……あれが、お前の研究を盗った教授か」

「はい」

「嫌な野郎だな」

凛が静かに言った。

「かなり控えめな表現ですね」

佐伯も頷いた。

「俺、もっと言いたいです」

蒼真は、思わず笑った。

笑えたことに、自分で驚いた。

研究室では、守屋の前で笑えなかった。

怒ることも、言い返すことも、記録することもできなかった。

でも今は違う。

「館長」

凛が言った。

「記録、まとめましょう」

「はい」

事務室に戻ると、全員で守屋来館記録を作った。

発言。

要求。

ルカの反応。

アオの反応。

データ提供の提案。

研究協力費の示唆。

「こんな場所」発言。

ひとつずつ書き出すと、守屋の目的ははっきりした。

潮凪のデータが欲しい。

祖父の記録が欲しい。

海底の異常音に関係している可能性がある。

だが、今日の蒼真たちに、それを完全に暴く力はない。

証拠は足りない。

法的に戦う準備もない。

なら、今日やるべきことは一つだった。

守ること。

潮凪のデータを、勝手に持ち出されない形にすること。

その日の夕方、蒼真は水族館の公式サイトに新しいページを作った。

『潮凪の海の記録について』

前館長・水瀬海一郎が長年残してきた水質、生体行動、音響記録を、水族館・漁協・潮凪市の共同で保全し、今後は一般向けにも分かりやすく公開していく。

赤潮対応のレポート。

ルカ観察会の行動記録。

アオの行動メモ。

小型魚の変化。

今後の観測方針。

もちろん、すべてを公開するわけではない。

未確認の情報もある。

生き物の安全や、調査中のデータは守らなければならない。

それでも、存在を明らかにする。

秘密のままにすれば、また誰かに奪われる。

見える場所に出せば、少なくとも一人では守らなくて済む。

白石は、市役所のページにもリンクを貼ってくれた。

ミナトは漁協の掲示板に赤潮対応レポートを貼った。

凛は、今日の生き物メモを書いた。

佐伯は、ルカ観察会を無理のない範囲で再開する予定表を作った。

閉館後。

蒼真は、大水槽の前に立った。

アオがゆっくり近づいてくる。

「守屋は帰った」

――見ていた。

「嫌な男だな」

――昔からだ。

「祖父は、あの人に何を渡したんだ」

アオは答えなかった。

水槽の中を、小さな魚の群れが横切る。

しばらくして、低い声が響いた。

――海が鳴く場所。

「海が鳴く場所?」

――苦しむ前に鳴く場所。逃げる前に震える場所。眠るものが起きる場所。あの男は、それを欲しがった。

蒼真は息を呑んだ。

自分の研究と同じだ。

生き物が異常を示す前兆を、音で捉える技術。

守るためにも使える。

だが、逆に言えば。

都合の悪い異変を、誰より早く知ることもできる。

隠すこともできる。

「守屋は、何に使った」

――知らぬ。

アオは目を閉じた。

――海一郎は、謝っていた。

「誰に」

――海に。わしらに。お前に。

蒼真は言葉を失った。

祖父は何を後悔していたのか。

守屋は何をしたのか。

沖合十七キロで鳴っている音は、何なのか。

本当なら、まだ物語は続くのだろう。

もっと調べるべきことがある。

暴くべき不正がある。

守るべき海がある。

けれど、今の蒼真には分かった。

すべてを一度に解決する必要はない。

今日、守れたものがある。

研究を奪われた自分が、もう一度立つ場所を見つけた。

それで十分だ。

その夜、市役所から連絡があった。

白石の声は、少し弾んでいた。

『水瀬さん。今日の臨時協議の結果が出ました』

「はい」

『潮凪シーライフパークの即時閉館案は、正式に撤回されました』

蒼真は、受話器を握ったまま動けなかった。

『ただし、条件付きです。一年間の経営改善期間。その間に来館者数、地域連携、観測事業の成果を報告すること。市としても、防災・教育・環境観測の拠点として支援を検討します』

一年。

半年ではない。

一年。

『おめでとうございます、とはまだ言えません。ここからが大変です』

「はい」

『でも、続けられます』

その言葉で、蒼真はようやく息を吐いた。

「ありがとうございます」

電話を切ると、事務室にいた凛と佐伯がこちらを見ていた。

「どうでした?」

凛が尋ねる。

蒼真は、少しだけ笑った。

「一年、猶予が出ました」

一瞬の沈黙。

次の瞬間、佐伯が椅子から立ち上がった。

「よっしゃ!」

凛は目を閉じて、深く息を吐いた。

「……よかった」

職員たちにも連絡が回る。

売店担当の年配職員が泣いた。

設備担当が、まずポンプを直さないとな、と笑った。

ミナトからは「魚の礼は魚で返す」とだけメッセージが来た。

白石からは、明日から書類が山ほどあります、と追伸が来た。

喜びは、派手ではなかった。

水族館はまだ赤字だ。

設備は古い。

守屋の問題も残っている。

海底の音も止まっていない。

それでも、今日で終わりではなくなった。

それだけで、十分だった。

蒼真は、最後にイルカプールへ向かった。

ルカは水面に浮かんでいた。

――白い部屋の人、もう来ない?

「しばらくは来ないと思う」

――来たら?

「近づけない」

――佐伯も?

「佐伯も守る」

――凛も?

「凛さんも守る」

――水瀬は?

蒼真は少し考えた。

「俺は、記録する」

ルカが尾びれで水面を叩いた。

――それ、守ってるって言うの?

「たぶん」

――ふうん。じゃあ、明日は観察会する?

「体調がよければ」

――魚一匹多め。

「交渉が早いな」

――僕、人気者だから。

蒼真は笑った。

大水槽へ戻ると、アオが待っていた。

その姿は、子どもの頃に見たときと変わらないようで、少しだけ違って見えた。

「アオ」

――何だ。

「俺は、ここに残る」

アオは答えなかった。

「研究室には戻らない。守屋の下にもつかない。潮凪のデータは、潮凪で守る」

水槽の青が揺れる。

「俺は、この水族館の館長になる」

言葉にした瞬間、胸の奥にあった何かが静かにほどけた。

大学を追われた研究者ではなく。

祖父に押しつけられた後継者でもなく。

奪われたものに縛られた敗者でもなく。

ここで、聞く。

ここで、記録する。

ここで、誰かが動ける理由に変える。

アオは、ゆっくりとまばたきをした。

――遅かったな。

最初に聞いた言葉と同じだった。

けれど、今は少し違って聞こえた。

蒼真は笑った。

「悪かった」

――だが、間に合った。

その言葉に、蒼真は何も返せなかった。

大水槽の中で、小さな魚たちが群れを作って泳いでいる。

もう、にがい、にげたい、という声は聞こえない。

代わりに、水の揺れる音がした。

静かで、深くて、どこか懐かしい音。

海は無音ではない。

人間が聞こうとしていないだけだ。

翌朝。

潮凪シーライフパークの入口には、新しい貼り紙が増えていた。

本日も通常営業しております。

そして、これからも続けます。

開館前から、数人の客が並んでいた。

赤い帽子の女の子。

昨日の動画を見たらしい親子連れ。

漁協の若い衆。

商店街のおばちゃん。

そして、昔からの常連客。

多くはない。

けれど、ゼロではない。

蒼真は入口に立ち、深く頭を下げた。

「おはようございます。潮凪シーライフパークへようこそ」

凛が隣で小さく言った。

「館長、顔が硬いです」

「慣れていないので」

「慣れてください」

「努力します」

開館のチャイムが鳴る。

客たちが館内へ入っていく。

大水槽の青が、通路の奥で揺れている。

今日も、海は鳴いている。

数字になる前に。

言葉になる前に。

誰かが気づく前に。

蒼真は記録ノートを開いた。

最初のページには、祖父の言葉。

聞こえたものを、証拠に変えろ。

蒼真は、その下に一行を書き加えた。

証拠を、誰かが動ける希望に変えろ。

それが、この水族館の新しい仕事だ。

そして、蒼真の新しい人生だった。

大水槽の奥で、アオがゆっくり泳ぐ。

イルカプールからは、ルカの明るい声が飛んでくる。

――今日も僕、かわいいだけじゃないからね!

蒼真は笑った。

「分かってる」

潮凪シーライフパークは、まだ倒産寸前だ。

海底の謎も、守屋の過去も、すべてが解決したわけではない。

けれど、ここには聞く人がいる。

記録する人がいる。

信じきれなくても、備える人がいる。

だから、今日も水族館は開く。

海の声を、聞くために。

ここで完結です。

応援してくださった皆さま、ありがとうございました。

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