旦那さまのお願い (後編) イラストつき
翌日、アンソニーは丸一日、休みをとれたと話してくれた。
「今日はずっと一緒にいられる」
そう言われたベアトリスは、嬉しくなって、彼の胸に猫耳がでた頭をこすりつけた。
ごろごろと喉を鳴らしながら、彼に甘えていると、アンソニーが耳の付け根をなでてくれた。
ご機嫌でいると、彼が話しかけてくる。
「ヴィー、写真という素晴らしい技術があるんだ」
彼が話してくれた写真というものに、ベアトリスは絶句した。
出ていた猫耳が思わずひっこむ。
「猫耳がでた姿を撮るのですか……?」
「あぁ。猫になったヴィーの姿を撮りたい。可愛すぎるからな」
夢見心地の目で言われて、ベアトリスは青ざめた。
「嫌です!」
猫になったところを写真に残されるなんて、羞恥しかない。
いくらアンソニーのお願いだとしても、許せるものと許せないものがある。
アンソニーはベアトリスが嫌がる気持ちが分からないのか、「どうしてだ?」と子供を諭すような声をだして、耳の付け根をまた撫でてきた。
絆してやろうという魂胆が丸見えである。
ベアトリスは涙目になって、アンソニーを睨んだ。
「絶対、嫌ですわ!」
ベアトリスは逃げ出した。
しなやかな足の筋力を使い、自室に向う。
(トニーのバカ……)
猫になるのは、彼に触れてほしいからであって、鑑賞のためではないのだ。
(バカバカっ……)
ベアトリスは鼻をすすって、自室に引きこもった。
彼女に逃げられたアンソニーは目を丸くした後、くつくつ喉を震わせて笑った。
逃げられたのなら、追いかけたくなるもの。
捕まえて、腕の中に閉じ込めて、なでくりまわしたくなる。
アンソニーはニヤリと笑った。
「さてと。どうやって、きみの機嫌をとるかな」
何をして遊ぼうか。
そうだ。
東洋の国で聞いた、あれを試してみよう。
アンソニーは口の端を不敵に持ち上げ、ゆっくりとした足取りで、彼女を追いかけた。
自室にこもったベアトリスは、本棚と本棚の隙間に身を隠していた。
ベアトリスの自室にはこうした隙間がわざと作ってある。
猫は隙間に入ると、落ち着くのだ。
彼女が心地よく過ごせるように、思わず入りたくなるような隙間がたくさんあった。
体を横にして嘆息していると、隙間の入口にアンソニーがやってきた。
「ヴィー?」
小首をかしげて、優しげな声をかけてくる。
余裕ありありの笑顔にムッとする。
ベアトリスは警戒してじっと彼を見つめた。
瞳孔は細長くなり、瞬きひとつしない。
威嚇の態度を見せても、アンソニーは嬉しそうに笑っていた。
「おいで、ヴィー。よく話し合おう」
そう言って、アンソニーが隙間に手を入れてくる。
手がベアトリスを捕まえようとする。
ベアトリスは毛を逆立てた。
「やっ……!」
ベアトリスは咄嗟に指から鋭い猫爪をだして、彼の手を引っ掻いてしまった。
彼の手に浅い傷ができる。
ベアトリスは爪をひっこめて、すぐに謝った。
「ごめんなさい……」
なんてことをしてしまったのだろう。
泣きそうだ。
ベアトリスはうろたえたが、アンソニーはひっかかれた箇所を見つめて呆然としている。
謝罪が聞こえなかったのだろうか。
もう一度、謝ろうとベアトリスが口をひらきかけたとき、アンソニーがぽつりと呟いた。
「ヴィーが俺に爪をたてた……これは、ご褒美か?」
彼の瞳が甘くとろけだす。
ベアトリスはぎょっとした。
彼は愛しげに傷口を見つめ、形のよい唇をよせた。
舌をだして爪痕をなめあげる。
その官能的とも言えるような言えないようなしぐさに、ベアトリスの頬にかっと熱が集まった。
「トニー、やめて……傷をなめるなんて、汚いわ……」
「汚くはないだろう。ヴィーが初めてくれた痛みだ。愛しくて口づけしたくなる」
ご満悦な彼に、恥ずかしさが込み上げる。
「ヴィーの初めてを、またひとつ奪ったんだな。最高だ」
直接的とも言えるような言えないような彼の言葉にうろたえてしまう。
ベアトリスは恥ずかしさのあまり、白いヒゲをピンとはった。
余計に隙間から出ていけない。
どうしよう、どうしようと、困り果てていると、アンソニーは肩を震わせて笑い、隙間から離れていった。
彼は隙間から少し離れた位置に椅子をおく。
ゆったりとしたしぐさで、背もたれに体重をのせる。
彼はこっちを見ようとしなかった。
じっと見つめると、猫はかえって警戒が強まってしまう。
目を合わせず距離をとるのは、猫をリラックスさせる方法のひとつだ。
ベアトリスも警戒がゆるみ、逆立っていた毛を元に戻した。
アンソニーをちらちら見て、様子を伺っていると、彼はおもむろにポケットから猫じゃらしを取り出す。
(それは、ずるいわ……!)
ベアトリス専用の猫じゃらしだ。
じゃれつくのが嫌だと訴えたのに、アンソニーは毛を変え、質感を変え、大きさを変え、飛びつきたくなるものを作ってしまった。
彼はこっちを見ずに、猫じゃらしをゆらす。
ふよん。ふよん。
揺れる毛を目で追う。
右、左。上。下。右、左、上、下。
また右にきたとき、つい手が出そうになった。
(ダメダメ……その手には、のらないわ……!)
目をつぶって猫じゃらしの誘惑に耐える。
写真は撮りたくないのだ。
すると、アンソニーは猫じゃらしをポケットにしまい、部屋から出ていってしまった。
諦めてくれたのだろうか。
隙間から顔をだして、部屋の様子を伺う。
しばらくすると、アンソニーがかえってきた。
すぐに顔をひっこめ、隙間の一番奥に逃げる。
「可愛いな……」
アンソニーが小さく笑いながら、隙間の前に立つ。
彼は薄い紙を持っていた。
次は何をする気なのだろう。
ベアトリスは警戒して、そっぽを向く。
アンソニーは隙間を埋めるように、紙を張り出した。
透けそうなほど薄く白い紙だ。
隙間はすっかり塞がれてしまった。
アンソニーのしたことは、障子からヒントを得たものだ。
東洋にいる猫の中には、障子を見ると、うずうずして、突抜けたくなるという。
それをアンソニーは試したのだ。
ベアトリスは薄い紙を見て、首をひねる。
(これ、何かしら……)
尻尾を立たせて、興味しんしんで紙に近づく。
肉球がでた指でつっついたら、ふよんと紙が震えた。
ベアトリスの目が嬉々と輝きだす。
(楽しいわ)
ふよん、ふよん。
紙の揺れを楽しんでいたら、猫爪がでてしまい、紙がやぶけてしまった。
ビリっと音がでて、ベアトリスは驚き指をひっこめる。
小さい穴ができてしまった。
じっと穴を見ていると、うずうずしてきた。
(穴を大きくしてみたいわ……)
おもいっきり破ってみたら、楽しそうだ。
(でも、そんなことをしたら、はしたないわよね……)
淑女がやるべきことではない。
でも、やりたくてウズウズする。
抗いがたい衝動を必死におさえていると、アンソニーの声がした。
「にゃーお」
猫らしい雄の声にベアトリスが反応する。
反射的に体が動いてしまい、彼女の上半身は紙を突き破った。
びりっ。――紙はあっさり破れ、両手を広げて待ち構えていたアンソニーに抱きとめられてしまう。
「捕まえた」
軽々と体を引き抜かれ、そのままお姫様抱っこをされてしまった。
アンソニーは、いたずらが成功した子供のような顔をしている。
ベアトリスは身動ぎ、尻尾でぺしぺしと彼を叩いた。
「猫の声で呼ぶのは、ずるいわ……」
「ごめん。ヴィーを抱きしめたくて、ついやってしまった」
アンソニーが顎の下の弱いところを撫でてくる。
「んっ……そこは今、嫌」
「そうか。喉がごろごろしているぞ?」
彼のゴッドハンドにかかると、嫌な気持ちが消えていく。
大人しくなったベアトリスに、アンソニーがささやいた。
「ヴィーが嫌がるなら、写真を撮るのは(今は)諦める」
「そう……?」
「あぁ。でも本当は、一枚でいいから撮りたい。持ち歩きたいんだ。そうすれば、仕事中でも、ヴィーの姿を思い出して寂しくない」
それならば、早く帰ってくればよいのに。
と、言いそうになったとき、アンソニーが肩甲骨から腕にかけて、ごく弱い力でマッサージしだした。
お姫様抱っこしながら、マッサージ。
アンソニーの筋力がなければできない技である。
もみほぐすような触りかたは、ベアトリスのお気に入りだ。
気持ちよくて目がとろんとしてくる。
「トニー……寝てしまうわ」
「眠っていい。ベッドに運ぶから」
「ダメ……写真を撮る気でしょう……っ」
震え声で言うと、アンソニーの手がとまった。わかりやすい。
「トニー」
ベアトリスが尻尾で、ぺしんぺしんとアンソニーを叩く。
アンソニーは拗ねた子供のように目をすわらせた。
「しかたない。ヴィーの寝ている姿は、可愛いすぎるんだ。ニャンモナイトと皆は言っているが、俺は違うと思う」
アンソニーは至極真面目な顔をした。
「ヴィーの寝ている姿は、ニャールケーキだ」
ベアトリスは目をぱちくりさせた。
「ニャールケーキ?」
「そうだ。ヴィーはどこもかしこも柔らかい。生クリームのように白い肌は甘そうだし、丸まって眠る姿はロールケーキみたいだ。食べたくなる」
これは褒められているのか、口説かれているのか。
とりあえず分かるのは、アンソニーは本気でそう思っているということだけだった。
熱心に語る彼を見ていたら、ベアトリスは照れて何も言えなくなってしまう。
「あの……ありがとう……」
そう言うのが、やっとだった。
アンソニーは満足げに微笑み、ねだり倒す。
「寝ている姿を撮らせてくれ。お願いだ」
「そんなの恥ずかしいわ。寝れなくなってしまう」
「俺の手はヴィーの為にある。ヴィー専用の神の手だ。心地よく寝かせられるよ」
「……でも、隠し撮りは嫌ですわ」
写真を撮ることを、彼は諦めないのだろう。
アンソニーはアンソニーなのだ。
決してブレない。
ベアトリスはとうとう観念した。
「起きているわたくしなら……撮っていいわ」
許しをだすと、アンソニーの目がうるみだす。
感極まって泣きそうになっている彼を初めて見たベアトリスは、動揺した。
「ヴィー、ありがとう。夢みたいだ」
恥ずかしげもなく言いきる彼に、ベアトリスは照れて抱きついた。
かくして撮影が始まった。
カメラマンはアンソニーだ。
この日の為に寝る暇を惜しんで、撮影技術を磨いてきた。
彼はもう、いつでも写真家になれるかもしれない。
ベアトリスはアンソニーが初めて買ってくれたピンク色のドレスを着ていた。
首には鈴付きのリボンをかけてある。
彼女が動くたびに、リーンと涼やかな音がなった。
緊張して立っていると、アンソニーが微笑みながら、話しかけてきた。
「ヴィー。にゃんにゃんポーズをしてくれないか」
「え……? こう、かしら?」
ベアトリスは恥じらいながら、手のひらを握りしめる。
左手は下に、右手は上にむけて、猫がじゃれつくポーズをとる。
リーンと、首につけた鈴が鳴った。
「これで……いい?」
アンソニーの瞳が嬉々と輝きだす。
「あぁ、最高だ。ヴィー、可愛いよ」
褒められて、ベアトリスの鼻がぽんっと変幻した。
ピンと白いヒゲがでてしまい、すかさずアンソニーはシャッターを押した。
この機会を逃してなるものか!と強い願いを込めてシャッターは押され、カメラが発光する。
「きゃっ」
フラッシュが眩しくて、ベアトリスは驚き目をつぶった。
身をすくませていると、アンソニーが近づいてきた。
「すまない。光が強かったな。目は大丈夫か?」
「えぇ……」
まだドキドキしているが、なんとか笑顔を作る。
アンソニーはまだ心配そうに顔を覗きこんでいる。
ベアトリスの背中をもみほぐすように撫でながら、思案顔になった。
「光を弱くできないだろうか。それに、連写もしたい」
「連写ですか?」
ベアトリスが尋ねると、アンソニーは真剣な顔でうなずいた。
「現像するまでに今だと三十分かかるんだ。一度、とったら修正はできないし、課題は山づみだな」
ぶつぶつ言い出したアンソニーに、ベアトリスはこてんと首をかたむけた。
「そんなに撮りたいものなの?」
アンソニーは困ったように笑った。
「今のヴィーには明日になったら会えない。それは寂しい。写真に残せば、昨日のヴィーにまた会える」
君のことが大好きすぎて、いつでも君のことを考えている。
病的とも言えるが、アンソニーの幸せはベアトリスがいなければ成り立たないのだ。
ベアトリスは嬉しいやら恥ずかしいやらで、困ってしまい、首につけた鈴をリーンと鳴らした。
*
写真を現像したアンソニーはご満悦だった。
銀板に描かれたベアトリスのにゃんこポーズをこっそり見てはデレデレしていた。
もちろん、第三王子の執務室でだけだ。
彼女の可愛い姿は自分だけがみれればよい。
そんなアンソニーの態度を第三王子が「気持ち悪い」と怒ってもよさそうなものであるが、彼もまた写真を眺めていた。
妻と娘の写真である。
うっとりと見つめる彼の横顔は、父性があふれすぎていた。
しかし、この二人。
写真を見ているだけで、仕事をいっこうにしなくなった。
親バカとニャンデレに写真を与えると、デレデレしすぎる。
ダメになれるクッションのようだ。
この事態に青ざめた宰相は、王太子妃に泣きついた。
第三王子は妻からこんこんと叱られ、写真を執務室に持ち込めなくなってしまった。
「僕がダメなら、お前もダメだ」
第三王子に写真を禁止され、アンソニーは絶句した。
「殿下は俺に死ねと言うのですか……」
「僕も死にかけなんだ。諦めろ」
アンソニーは頭を抱えた。
こうなれば、ベアトリスメモリアル記念館を開設するしかない。
「殿下、報償金をください。俺、暗殺者をしこたま倒しましたよね?」
「あぁ、倒したね」
「なら!」
「おまえが金をねだるなんて、珍しいね。次は何を企んでいるの?」
アンソニーは正直に話した。
「写真記念館か……」
「そうです。思い出は、飾る館が必要です」
第三王子がにやりと笑った。
「それ、いいね」
アンソニーは目を丸くする。
「リリーとイブの記念館を僕も建てる。贅をこらしたものにしようかな」
第三王子は不敵に笑った。
「そのためには金が要るな。次は経済を回そうか。写真技術は急成長しているから、狙い目はそこかな」
それならば、とアンソニーはフラッシュの光を弱めるアイデアを話す。
後に連写機能も備えたカメラができるのだが、カメラ事業を尽力した第三王子の功績は大きかった。
親バカとニャンデレが本気を出したら、技術力は高まり、国が豊かになる。……のかもしれない。
己の欲望のままに、二人はこれからも邁進するのだった。
*
その後、カメラの発展と共に、ベアトリス・メモリアル記念館は本格的に進むことになる。
設計図を広げて夢を見るアンソニーを見ていたベアトリスは、眉をつり上げた。
最近のアンソニーは写真に夢中で構ってくれない。
寂しさを爆発させたベアトリスは、猫の本能をあらわにした。
「トニー……」と、甘い声で鳴き、喉をごろごろさせる。
彼がこっちを見たら、もうベアトリスの勝ちだ。
しなやかに腰をくねらせ、彼にすり寄る。
「トニー……わたくしを見て」
ざらりとした舌で彼の首をなめ、甘く噛んだ。
自分の匂いをつけて、マーキング。
これで彼は自分のものだ。
猫は愛されるだけの存在ではない。
彼女たちは狩りをする。
狙った獲物は、絶対、逃さないのだ。
「わたくしと遊びましょう」
アンソニーは設計図を放り出した。
「なにして遊ぼうか……」
うっとりと見つめてくれる旦那さまの膝の上で、ベアトリスは仰向けに寝っ転がった。
求愛のへそ天ポーズをして、手をグーに握る。
「わたくしに触って、なでて、愛してくださいませ」
ベアトリスはニャアと鳴いて、彼に幸せであると伝えた。
ニャンがデレたら、落ちるしかない。
それが妻であるなら尚更だ。
写真も、将来の夢も頭からすっかり消して、アンソニーはベアトリスをモフりだした。
ニャンにデレて、ニャンにデレられる。
ニャンと両思いの日々は、最高に甘く。
幸せに包まれていたのだった。
happy end にゃん
イラストをくださった長月おとさまのマイページはこちらです。
https://mypage.syosetu.com/1025895/
イラストの尊さに、この絵を飾りたくて書きました。
ありがとうございます。
皆様もよきニャンデレライフを!
そして、この話が楽しい暇つぶしになれば嬉しいです。
りすこ