第1話 翼が欲しい
――七年前。
美雲 光は、
中学一年生の誕生日を翌日に控えていた。
「ねえ、光。
……何か欲しい物、ある?」
母の希が、
いつもの優しい声で問いかけてきた。
光は少しだけ考え込み、
茜色に染まる夕方の空を見上げた。
真っ白な翼を広げた一羽の鳥が、
夕焼けのグラデーションの中を、
自由そうに優雅に飛んでいた。
「……あの翼が欲しいな」
光は、希がいつも忙しく働き、
それでも自分のためなら
無理をしてしまう人だと知っていた。
でも、そんな希に負担をかけたくなくて、
光は、絶対に手に入らないものを
子供っぽい冗談を言うように、
ふふっと笑って言った。
「私、あの鳥みたいに、
お母さんと一緒に空を飛んでみたい……」
その言葉に、希はほんの一瞬だけ、
どこか遠くを見るような
寂しげな微笑みを浮かべた。
「翼ね……。
いつか、本当にあげられるといいね。
光が、どこへでも行けるような……
そんな翼。」
――それが、光が大好きだった
お母さんと交わした、最後の会話だった。
◇
――そして、現在。
朝の、息もできないほどの満員電車の中――
19歳になった美雲 光の心は、
今にも完全に叩き割られてしまいそうだった。
斜め掛けの小さなバックには
小さな人形のキーホルダーが揺れている。
その人形の胸元の小さな名札に、
『のぞみ』と、
不恰好な文字で書かれていた。
肩より少し長い、
柔らかなウェーブを描いた
ブラウンの髪が、
冷や汗と電車内の湿気を含んで
頬に張り付いている。
身長155センチの華奢な体。
討魔局の制服姿でも、
中学生と間違えられることがある。
今も、その幼い横顔は、
満員電車の中で
妙に目立ってしまっていた。
今はただ、
その大きな印象的な瞳を
恐怖と不安に深く曇らせていた。
何もしていないのに。
ただ小さくなっているだけなのに。
それでも、
自分の弱さだけが、
この満員電車の中で、
妙に浮いている気がした。
ガタン……ガタン……
不快な金属音を立てて揺れる鉄の箱。
誰も、周りなんて見ていなかった。
皆、自分の降りる駅だけを見ている。
窓を濡らす小雨のせいで、
車内の湿度は不快なほどに高く、
乗客たちの生ぬるい呼吸が
澱みとなって空間を満たしている。
その混沌の隙間から、
それは音もなく忍び寄ってきた。
甘ったるく、腐った果実のような。
胃の奥から酸がせり上がるような、
ひどく嫌悪感をそそる香水の匂い。
(……また、だ……)
確信した瞬間、
心臓が爆発したように跳ねた。
冷たく粘つく悪意だけが、
容赦なく光の尊厳を侵していく。
身をよじる自由さえ、
その空間には存在しない。
他者の悪意が、
ゆっくりと――
誰にも踏み込まれたくない、
小さな聖域を侵食していく。
声が出せない。
助けてと、叫ぶこともできない。
周囲の大人たちは一様に、
青白いスマートフォンの画面に
目を落としたままだ。
みんな、気づいていない。
気づいていても、
見ないふりをしているのかもしれない。
きっと今は、
画面の中の方が、
私なんかより大切なんだ。
今は、ただ一秒でも早く、
この悍ましい時間が
過ぎ去るのを待つしかない。
(やめて……触らないで……。
お願い……もう、限界なのに……っ)
『ドクン……ドクン……ドクン……!』
頭の中が真っ白に染まっていく。
身体は恐怖で完全に硬直して
石のようになり、指先一つ動かせない。
ただ、己の無力さを呪うような
情けない涙が止まらずに溢れ、
ボロボロと頬を伝い落ちていった。
(どうして……
私は、こんなにも
惨めなんだろう……)
ただ毎日を、
普通に、目立たないように
生きているだけなのに。
どうして私は、
毎日見知らぬ誰かに、
その尊厳ごと
汚されなきゃいけないんだろう。
――いっそ、
このまま、どこか遠くへ
消えてしまえたら。
絶望の底に沈みかけた、その時だった。
『次は――門前仲町。門前仲町です』
機械的な、平坦なアナウンスが
スピーカーから流れた瞬間、
光は力の限りに
背後の男の腕を振り払った。
開いたドアから、
這い出るようにして
ホームへと飛び出す。
冷たい駅の空気を
一気に肺へと吸い込んだ途端、
糸が切れたように両膝の力が抜けた。
コンクリートの壁に、
擦りつけるように手をつき、
浅く荒い呼吸を繰り返す。
溢れ出る嗚咽を、
光は小さな手のひらで必死に押し殺した。
「……もう、ほんとに……限界……」
その小さな呟きは、
駅の喧騒にかき消され、
誰の耳に届くこともなかった。
◇
――討魔局 東京深川支部・討伐課 執務室。
朝の執務室は、
まだ少し冷え切っていた。
窓の外では小雨が静かに
世界の輪郭を濡らし続けており、
天井の蛍光灯が放つ白い光が、
整然と並ぶ事務机を
無機質に照らし出している。
光は自分の席へ辿り着くなり、
鞄を置くのと同時に、
椅子に崩れ落ちるようにして身体を沈めた。
さっき満員電車の中で味わった、
あの冷たくて悍ましい掌の感触……
それは消えない呪詛のように、
今も身体の奥にこびりついている。
そんな気がして、光は無意識に
自分の肩をきゅっとすくめる。
小雨に濡れた茶色い髪の毛先が、
冷え切った頬に重く張り付いていた。
「おはよう、光。
……また、なの?」
不意に頭上から降ってきた声に、
光は小さく肩を震わせた。
一ノ瀬 美咲(22歳)が、
すらりとした長身を軽く傾け、
光の顔を覗き込んでいた。
長い黒髪をきっちりとまとめた、
凛とした先輩。
その落ち着いた瞳は、
光の小さな異変を、
誰よりも見逃さない。
「……はい。……美咲先輩」
光が消え入りそうな小声で答えると、
美咲の視線が部屋の隅にいる
黒崎 悠真(25歳)に
向けられた。
彼は無言でわずかに眉を寄せた。
美咲と目が合う。
二人は小さく頷き合うだけで、
言葉は交わさなかった。
ただのセクハラではない――
その視線には、殲滅班としての
特有の警戒が混ざっていた。
そのとき、
執務室の重い鋼鉄のドアが、
勢いよく弾け飛ぶようにして開いた。
「よーし、朝礼やるぞ!
今日も江東区を平和に守るぞお!」
神崎 剛志(40歳)班長の
野太い声が響き渡る。
光はビクリと肩を跳ね上げ、
慌てて背筋をピンと伸ばした。
班長は全員の顔を
ぐるりと見回してから、
豪快に笑った。
「はっはっは!
――と言っても、
今日の討伐任務はなしだ!
平和なのが一番だな!
みんな、今日はのんびり行こうぜ!」
その突き抜けるように明るい声に、
重苦しかった執務室の空気が、
少しだけ和らいだのが分かった。
だが、その豪快な笑顔の裏で、
神崎の鋭い眼光が一瞬だけ
光の怯えた指先に注がれていたことを、
光自身は気づいていない。
朝礼が終わり、美咲が光の肩に、
そっと温かい手を置いてくれた。
「光……今日の帰りは、
私が一緒に電車に乗るわ。
一人にはさせないから」
「……ありがとうございます」
その日の業務は、
比較的穏やかに過ぎていった。
夕方、支部を後にした光と美咲は、
再び満員の東西線に乗り込んだ。
美咲は光のすぐ後ろにぴったりと立ち、
その背中で、周囲の群衆という名の障壁から
光を隠し、守るようにして
背中を預けてくれていた。
(先輩がいてくれる。
大丈夫、怖くない――)
そう、自分に言い聞かせていた。
自分の心臓の音を、必死に誤魔化すように。
しかし――。
次の駅が過ぎたあたりだった。
車内のざわめきが一瞬、
耳の奥で遠のいた気がした。
それと同時に、
あの甘ったるく腐った果実のような――
ひどく嫌悪感をそそる香水の匂いが、
再び漂ってきた。
ガタン……ガタン……
光の身体が一瞬でカチリと強張る。
『ドクン――』
心臓が、喉の奥で冷たく跳ねた。
指先から
一気に血の気が引いて
じんわりと冷たくなり、
呼吸が急速に浅くなっていく。
耳鳴りが不快に脳を揺さぶる。
死角を埋め尽くす人混みの隙間。
そこから這い寄る冷たい悪意が、
再び光の小さな聖域を侵そうとしていた。
それは人の欲望というより、
もっと粘ついた、
生き物の本能のようだった。
――捕食。
なぜだろう、
そんな言葉が脳裏をよぎった。
その時だった。
「――ちょっと、あなた!!」
美咲の、弾丸のように
鋭く研ぎ澄まされた怒号が、
狭い車内を引き裂いた。
周囲の乗客が
一斉に美咲へと視線を向け、
緊迫した空気が走る。
不快な気配は、弾かれたように
一瞬で人混みの奥へと消え去っていった。
まるで最初から
そこには誰もいなかったかのように、
あまりにも不自然な速度で。
けれど、光は見てしまった。
ドアの窓ガラスに映る、
歪んだ人混みの中で。
一瞬だけ、こちらを振り返った
あの男の顔を。
縦に裂けた瞳孔が、
暗い車内の影の中で、
異様な光を帯びていた気がした。
ヒュッと息が止まり、
光の背筋が完全に凍りついた。
それは生物としての本能が告げる、
決定的な絶望。
(この人……
本当に、人間なの……?)




