第三五話「餌食」
結局寝ずに山を往くことにした。
こんな状況で寝るのはとんと慣れてなかったし、追われる身で寝つけるとも思えなかったからだ。
寝る理由の一つの、魔力の回復についても、石虹が手に入ったのでまぁ問題ではなくなった。
体の疲れに関しても、石虹を一つ砕いて、体を騙す魔法をかけておいた。残数は5つだ。
ぬかるんだ勾配に逆らい、体を前に押し曲げて足を進める。視界を遮る木々は斜面でなお屹立していて、対照的に思えた。
ポツポツとローブを濡らす雨は夜と比べると大分大人しくなった。
辺りの生物の気配はない。やはりというか死神だからそこらの雑魚は逃げ出してしまうのだろう。
耳に届くのは雨風が枝葉を揺する音、そして自分の足音ぐらい。
こうしていると、実は世界に自分しかいなくて、この孤独感も必然なものに思えてくる。
「お腹へった……」
自分は誰にでもなくそう呟く。
お仕事の前に早めの夕食をもらってから、時計は既に一周しているだろう。その間自分はなんにも口にしていない。空腹感に苛まれるのも当然だった。
『おめェは死神でもあるが人間でもあっからなァ。究極的に言やァ死んでも蘇生するが……魔力をもってかれっからなァ。やっぱ飯を食った方がいいだろう』
そんな自分の呟きをバロルは拾ってくれる。
やっぱりそうだよね。でも生物の気配一つないんだよね……。運の悪いことに果物も見つからない。
────なんて思っていたら。
グルルッ……
耳に届いたのは獣の唸り声。
それでハッとして振り返り、後ずさった。
そこにいたのは熊。ただし普通の熊ではない。死神の威圧をくぐり抜けてきたのだ。尋常の獣ではあろうはずもなかった。
スパイクベアー、魔物だ。その体毛一本一本が剣山のように鋭く尖っていて、抱きすくめられただけで鋼鉄の処女の犠牲者のような有様になってしまうだろう。身の丈は自分の倍を優に超えている。手練れの冒険者でも油断ならない魔物ではある。
しかし自分が後ずさったのは、そいつがただのスパイクベアーじゃなかったからだ。
真っ白でほっそりと長く、関節が見当たらない、そんな不気味な腕。先日ギガントコボルトに生えていたのと全く同じ。
それが3本。
背と胸、それに肩から歪に生えた白い腕。
おおよそ生物の構造としておかしい。寒気がする。動く屍を見るよりも、忌諱感が掻き立てられる。
多腕の針熊は見ようによっては、伝承に聞く多腕の巨人に見えなくもない。見るに堪えないところまでそっくりだ。
メキメキメキッ……!と奴の白腕が木々を押しのけ、木の繊維が引きちぎられ歪み、自重で倒れていく。
そうしてできた木々の隙間をのっそりと踏み越えて、スパイクベアーは自分の目の前に立った。
曇り日が巨体で遮られ影がかかる。
見上げる。デカイ。
そういえば自分は魔物とまともに相対した経験がない。以前ギガントコボルトと戦ったのはアルコンさんだし、自分の戦闘経験はほぼ全てが人との試合ばっかりだ。
自然と圧力のようなものに組み伏せられ、足が竦む。
体が動かない。どう動かせばいいのかも分からなかった。
『こりゃァ……まさかァ、××××の御手か……? どうやってんなモン生やしてんだァ……』
御手? またバロルの発言にノイズがかかった。悪魔神関係ってことか……?
そういえば以前ギガントコボルトとの戦闘時は、その前のオリヴィエさんとの勝負のためにバロルを叩き起こしておいて、だからあのときバロルは寝てたんだ。
だからバロルにあれが何だったのか聞く機会を逸してしまっていた。
でもどうやらバロルはこの白い手について何か知ってるみたい。
それを聞き出そうと意識を体内に向けていたのがいけなかった。
敵の目前でうだうだしていた自分たちは、あまりにも隙を晒しすぎていた。
「うぁッ!」
『エリュー!』
鷲掴みにされた。
不気味なほど真っ白で関節もない指が、自分に巻き付いている。
両腕を押し込められているせいで背負った大鎌を取り出すこともできない。
ぐぐぐッと恐ろしい圧力が全面から浸透してくる。
まさか自分を握りつぶそうとしているのか!?
「ぅ……! っ! ぁっ!」
抜けだそうと必死に体をよじれども、元々不利な構図な上、おそらく力でも負けてる。
死神の膂力は大したものだけど、どうしても一線級というわけにはいかない。死神にそんなパワフルなイメージはないし、あと自分が人間との混じりものなのも一因だろうか。
圧が増していく。軋むような音が体内から響く。臓物が口から飛び出てきそうだ。
やばいやばいやばい! このままじゃ絞られた雑巾のように惨い屍を晒してしまうことは必至だ……。
ここで殺されてしまったらどうなる……?
このスパイクベアーは十中八九、『大鷲』の差し金だろう。エリニテスは自分の本体が大鎌であると知っていると思われる。みすみす死んで大鎌があちらの手に落ちれば、蘇生しても敵の陣中。命運は尽きたも同然だ。
そうなれば……何をされるか分かったモンじゃない。ありとあらゆる最悪が脳裏をよぎる。
『おィエリューどうにかしろォ!』
わかってる! 何とかして抜け出さないと……!
体が動かせない? なら魔法でどうにかするしか!
オルゼの街を出てから半日ほどは経っている。寝てないから全然魔力は回復していないけど、逆に言えばほんの少しなら絞り出せる。第二階位一発ががせいぜいだけど。
自分は凶悪な圧迫の中で考える。
どんな魔法を使えばいい……?
生半可な攻撃魔法ではきっと怯んでくれはしないだろう。第二階位程度ではスパイクベアーの針毛の鎧を徹せるか非常に怪しい。
ならば得意の影潜りですり抜けられないか、と考えたところであれは第三階位からの魔法ということを思い出した。これも、ダメ。
アギラに倣って空間魔法でどうにかできないかと思案してみるが、《アポート》くらいしかまともに使えるものがない。《ショートリープ》《テレポート》やらの詠唱を知らないわけじゃないけど、あれは制御を誤れば命にかかわる。慣れてないそれをぶっつけで使うのは、ダメだ。
くそっどうすれば……ん?
いや待てよ? 相手は得体の知れない手を生やしているとはいえ獣だ。
ならば……。
自分は詠唱を開始する。
「“惑え”・“虚光の幻視”・“偽地の反触”────」
潰れそうな肺から何とか声を絞り出し、詠唱を紡ぐ。
失敗すれば一巻の終わり。だからできるだけ丁寧に長く、魔法を構築する。
「────“指の透き間より”・“砂粒が溢れるように”・“我姿は其処に無く”・“眼界の端へ”・“消える餌幻を”・“追い縋れ”────《イリュージョン》」
しかとスパイクベアーと目を合わせ、その魔法名を告げる。
すると、一拍の間をおいて、パッと自分にかかる圧迫がなくなる。
どさっと自分は地面に転がる。
上手くいった……!
自分がかけたのは幻覚の魔法。
第二階位、低位の幻惑でも知性のない獣相手なら十分な効果が見込めると思ってそれに賭けたけど、ほんとよかった。
幻覚魔法は使用者の魔法属性によって侵せる感覚が違う。
光属性なら視覚、火なら嗅覚、水なら味覚、風なら聴覚、土なら触覚、闇なら霊覚。
自分は全属性使えるから、専門家が見れば羨むような資質を持ってる。
今回使ったのは光と土。つまり視覚と触覚。
奴は今、己の手の中から視覚的にも触覚的に消えて、視界の端に自分っぽいものが映ったはずだ。
それを追いかけ、スパイクベアーの意識は完全に明後日の方向へ向いている。
いやほんと獣でよかった。
こういう幻覚魔法って詠唱を相手に聞かせる必要があって、だから相手に気づかれないように詠唱をほんと上手く組み上げないといけない。だから自分のスキルではとても対人戦で運用できなかったし、今まで使ってこなかったのだ。
『なにやったが知らんがァよくやったエリュー!』
「ぅ……っ! どうも……」
手をついて立ち上がろうろしたところで、ぐらりと視界が傾ぐ。
魔力欠乏の症状だ。完っ全にゼロになったから意識が遠のきそうになる。
完全に気力だけで意識を繋ぎ止めて、奴を倒す算段を立てる。
一撃でカタをつけないといけない。
石虹を一つ懐から取り出し、口に含み噛み砕く。シャリシャリとした、思いの外不快ではない舌触りと共に内包されていた魔力が口内に溢れる。
「“壮烈たる風”・“其は鋭き風”・“逆巻きて”・“鎌風を成せ────《エンチャントゲイル》」
大鎌を背から外し、風のエンチャントを纏わせる。錆びた大刃を風が締め上げ、ギシギシと鳴りを上げる。
そして石虹をまた一つ噛み砕く。
「“燃え上がれ”・“炎の如く”・“刹那でいい”・“大力をここに”────《パワーストレングス》」
発動させたのは火属性のバフ。エンチャと競合しないように体にかける魔法を選択した。時間を限定し、代わりに強化量を増してある。己の内にある活力が炎が燃え上がるように滾っていく。
また一つ石虹を噛み砕く。
「“暗黒の”・“眷属”・“それらの眼には”・“紅き曲線が”・“視えている”────《クリティカルサイト》」
更に魔法を重ねる。闇属性のそれは視覚補助、急所への攻撃における最も効率的なラインを表示する魔法だ。そのラインは絶えず撓み歪んでこそすれ、スパイクベアーの首を刈り取っている。
こうして3つの魔法を唱え終わったところで、スパイクベアーにかかっていた幻惑が解ける。
幻影を見失った奴は自分のことを思い出したように見つけ、振り返る。
背の白い手が伸びてくる。
それを身を翻し、僅かに飛び退き、引きつけたところで前方へ突っ込み、飛び越える。
肩の白い手が真上から叩きつけられる。
それを斜め前に飛び込んで回避、ローリングで体勢を整える。
胸の白い手が、底を浚うように自分に迫る。
それを背面跳びの要領で飛び越える。奴の指が空を掴んだ。
全部の白い手を捌いて、自分はスパイクベアーの懐へ潜り込んだ。
本来の針毛むくじゃらの大腕が左右から自分を抱きすくめんと迫る。
《クリティカルサイト》の曲線はそれを受けて、ぶわんと大きな円弧を描き、奴の首を撫でていた。
その半円の中心点に、ダンッと踏み込む。
「ハッッ!!」
大鎌を振るった。
寸分の狂いなく、喉笛を、引き裂く。
怒張した筋肉から途端に力が抜け、その巨体が前傾する。
その脇を抜け、自分はスパイクベアーの後ろへ、同時にあの巨体が地に落ちる。
トプトプと、切断位置から赤い泉が広がっていき、雨粒がそこに飛び込んで穢されていく。
スパイクベアーの体はピクリとも動かない。
けれど、奴から生えた白い腕は別みたいだった。
三本の腕は、自分目掛けて追いすがってくる、けれど悲しきかな、自分はもう届かない位置にいる。
自分の鼻先でこまぬかれる白い手。それを自分は冷えた目で見下ろす。
やがてその白い手も力を失ったのか、地に張り付いて動かなくなった。
「はぁ……はぁ……っ」
やった。出し惜しみせず魔法を使ってよかった。
片手を大鎌の柄から離すと、ゴトンと重心になってる大刃が地に落ちる。《エンチャントゲイル》もそれで解除された。
それで気づいて、《クリティカルサイト》も解除する。対象がいないから赤い線は表示されてなかったけど。《パワーストレングス》は勝手に無くなってた。
『やるじゃねェか。よかったぜ。これで終わりかと……』
「あはは、自分はそんなヤワじゃないよ」
ふぅ、と息を吐いた。追っ手が来るとは思ってたけど、まさか改造モンスターをぶつけてくるとは……。
────ガサッ
後ろから草分けの音。
「ッ! また追っ手!?」
片手で大鎌を脇に構え、もう一方の手で石虹を一つ掴み出す。
そして自分の視界に飛び込んできたのは、外套を纏った、随分と背の低い……。
「はぁ……はぁ、上手く、合流できましたね。エリューさん」
それはつい昨日聞いた声だった。けれども、もう聞けないかもしれない声だった。
ケイティス君。
自分達が『大鷲』の手に落ちたオルゼの街から逃げるときに、唯一味方でいてくれてその後囮になってくれた子。後で合流するという話ではあったけど正直かなり厳しい話だったと思う。けれどもこうして会えた。
状況は変わってないけど、道連れがいるだけで心持ちが違ってくる。
「ケイ君っ……!」
「はい、けっこうあっさり、合流できました」
彼は安心したように一つ息を吐いてから、微笑みかけてくれる。
あっさりなんて、きっと嘘だろう。渦中に舞い戻って、狡猾なエリニテスやアギラに気づかれず立ち回り、そして誰にも知られず後をつけられずに、山に入って目印を探し辿る。容易なことじゃないのは想像に難くない。
「……エリューさんの方は大変だったみたいですね。すみませんもう少し早く動けていれば」
ケイ君は自分の後ろのスパイクベアーに目をやって、申し訳なさそうにそう言う。
何を言うか、そっちだって大変だったくせに。
だったこっちだって去勢を張ってやろうじゃん。
「こんなのどうってことないよ。自分は強いんだからね」
「……エリューさんはすごいですね、やっぱり」
そんなことないよ。と心中で思いながら大鎌を振るい、付着していた血液をパッと散らす。銀色の大刃が鈍色の空の下でもギラリと光った。
そんで大鎌を背負って、慣れた調子で括りつける。
「じゃあこのまま予定通り山を超えてクームの街まで行きましょうか」
ケイ君の提案に自分は頷く。
クームはオルゼからムグスール山を隔てて南東の方角に位置する街だ。
ここヒューゲンヴァルト地方の中でクームは、王都方面への玄関口みたいなもので、オルゼやシュテルンと違ってかなり大きな街だ。人も多い。逃げこむには最適だろう。
そうして針熊の屍体を横目に、また山を往こうとしたところで思い出す。
そういえば自分はお腹が減っていたんだ。
針熊の肉は別に食べられないわけじゃないけど、なんかよく分かんない白い手が生えてるし、食べるのは憚られる。
「ケイ君なにか食べるものもってきてない?」
「え? 食べ物ですか? 保存食なら少し持ちだしてきましたよ」
「さっすがっケイ君! いやー実は昨日から何にも食べてなくて、お腹へって────…………?」
おかしい。お腹が減っていない。
確かにさっきまで空腹感に苛まれていたはずだ。なのに。
まるで食事を終えた後のような充実した感覚が自分を満たしている。
何でだ? 自分は何にも口にしていないぞ……?
いや石虹を噛み砕きはしたが……あれは魔力を放出すると同時に融けて消える性質がある。決して食物になるようなものじゃない。
どうして……?
自分がそうして困惑していると、声が脳裏に響いた。バロルの声だった。その声は自分と同じようにひどく動揺しているように聞こえた。
「おいエリュー俺様を見ろ。……背中に背負ってる、大鎌を……見てみろ……」
慄くバロルの声に促されるまま、自分は振り返る。
そこにあったのは大鎌の刃。ここのところずっと錆びて、エンチャントがなければ満足な性能も発揮できなかったそれ。
そのはずの刃はギラリとした銀色を湛えていて、鏡のようなそれの内には月のような自分の金眼が写っていた。
錆なんてまるで嘘だったように、大鎌はあるべき姿を取り戻していた。
この大鎌が力を取り戻したということは、どういうことだった?
死神としての責務を果たしたってことだろう?
「なんで……?」
自分の呟きは曇天の下、シトシトと振る雨の中へと消えていった。




