43話
アリーセがカバンから引っ張り出したのは、以前、ロルフから受け取った傷薬だ。スクォンクの涙で精製したそれは、市販の薬とは比べ物にならない程の効果を発揮する。
沼底のような臭いのそれをヘルマンの背中に塗り込み、清潔な布と包帯で手当てした。手持ちの包帯を使い切ってしまったが、アリーセに後悔はない。ただ一刻も早いヘルマンの回復を祈った。
願いが届いたのか、間もなくしてヘルマンが小さな唸り声と共に身じろぎを始めた。びっしりと額に汗をかきながら、ヘルマンはゆっくりと琥珀色の瞳を覗かせる。
「…………う、ぅ……」
「っヘルマン! 気が付いた!?」
「……あ、あいつは?」
体を起こすことなく、周囲に意識を向けるヘルマン。アリーセが石像を叩き起こし、地下遺跡に逃げ込んだことを伝えると、彼はホッと安堵の息を吐いた。
それから少しだけ顔を上げ、今度はアリーセをじっと見つめる。
「アンタは? 怪我、してないか?」
ボロボロの体で問いかけてくるヘルマンの声は、地下の薄暗さを忘れさせるほど優しく温かい。拭ったはずの涙が再びじわじわと滲み出し、唇が小さく震えた。言葉が喉に張り付き、なかなか声にならない。
アリーセは答える代わりに、大きく首を横に振る。そうか、と呟いたヘルマンの声は、どこか肩の力が抜けたように感じた。
勝手に遺跡へ入ったことで、石像の敵意がアリーセたちに向かうかもしれない。そう言ったヘルマンの言葉に従い、二人はさっさとこの場を脱することに決めた。
初め、アリーセはヘルマンの体を気遣ったが、彼は力瘤を作りながら薬が効いたと主張したのだ。
その様子に痛々しさを感じつつ、アリーセには彼の選択を責めることができなかった。
ヘルマンの言う石像の危険があることも確かだし、何より彼が商人に襲われたのはアリーセが原因だったからだ。
(私が師匠の話に騙されなければ……)
壁に手をつき、アリーセの肩に支えられながら歩くヘルマン。暗くて狭い横穴では、小柄な二人でも並んで歩くのはギリギリだった。
初めは一本道だった道も、気が付けば二つ、三つと道が分かれ、次第に迷宮のようになり始める。壁一面に描かれた奇妙な紋様。四角や三角を組み合わせた不思議な図形は、方向感覚を段々と麻痺させていく。
「……また、分かれ道」
「次はどっちに行く?」
ヘルマンの言葉に、アリーセは口を閉ざす。道を選ぶたび、アリーセは自分の選択に自信が無くなっていった。
石像が戦っている以上、あの時は奥に進む以外の選択肢はなかった。しかし、奥に進めば進むほど、アリーセは地上への出口が他にあるのかという不安に駆られる。
分かれ道に来るたび、アリーセは心臓が縮むようだった。
気難しい顔で黙り込む少女の姿に気付いたのだろう。ヘルマンはアリーセに支えられながらも、できるだけ明るい声を出す。
「迷ってるなら、右にしようぜ」
「え?」
アリーセが困惑しながらヘルマンを見上げる。すっかり参ってしまった顔のアリーセを笑わせようとしたのだろう。
俺の利き手側、と片手を上げたヘルマン。その瞬間、塞がったばかりの傷口が引き攣ったようだ。
「いっ……!」
痛みに顔を顰めるヘルマン。
その表情に、アリーセはついカッとなってしまった。
「っふざけないで! そんな理由で選べるわけないでしょ!」
叫んですぐ、アリーセは自分の失言に気付く。大きく見開いたヘルマンの目が、僅かに動揺の色を見せたからだ。
ヘルマンの言葉に悪意はない。そこにあったのは、アリーセへの優しさと気遣いだった。
(なのに、私……)
アリーセの中にあったのは、罪悪感と責任感。度重なる不安が、アリーセの心を窮屈にさせていた。
「……っごめんなさい、私、いま……」
慌てて謝罪の言葉を口にするアリーセに、ヘルマンもまた気まずそうに苦笑を浮かべた。
「いや、俺のほうこそごめん。余計な口出ししちゃったな」
「ち、違うの! 今のは、その……早くここを出て、ケガの手当てをしなくちゃって焦って……」
一度不安を口に出すと、今度はもう止まらなかった。先程は必死に飲み込んだ涙が、ぼろぼろと頬を伝う。
「ごめんなさい、私のせいで……私があんな嘘に騙されたから、ヘルマン……背中、痛かったでしょ?」
繰り返される謝罪に、ヘルマンは言葉を失う。
遺跡を彷徨っている間、目の前の小さな少女がそれほどまでに責任を感じていたことに、彼はずっと気付いていなかったからだ。
「そんな、気にすんなよ。俺が勝手にやったことだし、それに、どう考えても騙したあの男が悪いだろ」
「でも……もし、私について来なければ、こんなことにはっ……!」
ついにわんわんと泣き出したアリーセ。ヘルマンはますますどうしていいかわからず、おろおろと無意味に視線を巡らせる。
どんな言葉をかければ良いのだろうと、気まずさで立ち尽くしたその時だった。
「しっ……! 何か音がする」
小さな音を捉えたヘルマンが、アリーセの口を塞いだ。無理やり口を閉ざされたアリーセは、突然のことにびっくりして涙が止まる。
顔を顰めながらもナイフを構えたヘルマンに、アリーセも慌てて杖を握り直した。
耳を澄ますと、微かにコツ、コツ、と何かが地面を叩く音がする。
段々と近づいてくる音に、二人の鼓動が少しずつ早まっていき——……
「随分と賑やかな侵入者だね。あまり大きな声を出すと、遺跡が崩れてしまうよ」
目が眩むような灯りと共に現れたのは、大きな眼鏡を掛けた初老の女性であった。




