プロローグ
幼い頃、アリーセは湯が沸くのを見るのが好きだった。
温まり始めた水面を、白い湯気が走る。そして、鍋の内側を小さな気泡がふつふつと昇り、徐々に湯が沸き上がっていく。
その様子をじっと見ていると、背後から師であるエヌマエルがこう言うのだ。
「見ているヤカンは、なかなか沸きませんよ」
アリーセはその度に思う。だから良いのだ、と。湯が沸くのを待っている間、アリーセはエヌマエルの膝を独り占めできる。
背中に温もりを感じながら、アリーセはいつも同じ話を聞いた。
「アリーセ。貴女のお母様は私の師であり、非常に優秀な宮廷魔術師でした。彼女はとても勤勉で、誰よりも熱心に魔術書を読み、誰よりも自由な発想で魔術と向き合っていたのです」
幾度も聞いた母の姿だが、アリーセはそんな母を全くと言っていいほど知らない。三歳の頃に別れたきり、何の音沙汰もない。
しかし、ちっとも寂しくはなかった。背中の温もりが、いつだってアリーセを支えてくれていたからだ。
鍋はまだ沸かない。それでも良いのだ。なかなか沸かない鍋を見つめる時間は、家族の時間なのだから。
そんな昔のことを思い出し、アリーセはたっぷりの湯が入った鍋を竈門から下ろす。これを床に撒けば、工房の掃除は終わりだ。
昨日の晩もこうして掃除をしたのだが、長年染みついた習慣はちっとも抜けない。だから、アリーセはこうして朝から掃除をしている。
「さて、最後の仕上げに……《我らの隣人たる精霊よ、風の力を貸したまえ》」
傍に置いた長杖を手に、使い慣れた呪文を口にする。サーッと足元を滑るように風が走り、みるみるうちに土間が乾いていく。
良かった、とアリーセは安堵の息を漏らした。一発で成功するなんて、今日は調子が良いみたいだ。
普段通りなら、この後は開店準備に入る。しかし、今日は違う。
窓の戸締りに火元の確認。それから、大きなカバンに仕事道具と愛用の手帳が入ってることを確かめたら、最後にぐるりと薄暗い室内を見納めた。
白魔第三魔術工房。アリーセが十一年間過ごした、思い出の場所。
次に見られるのは、いつになるだろうか。
カバンを背負い、色褪せたマントを羽織る。母親譲りのくせっ毛をマントの襟首から引き抜くと、背中に金の川が二本流れた。仕上げはつばの広い三角帽。
そして、先ほど使ったばかりの杖を手に取った。チリン、とてっぺんについた飾りが音を鳴らす。
「よし、準備完了」
自分を奮い立たせるように、声を上げる。しかし、静けさがより強調されただけだった。
「それでは、行ってきます」
寂しさを誤魔化すよう、今度ははっきりと、住人の残らない工房へ言葉を向ける。色褪せた室内は、旅立つアリーセに別れを告げているように見えた。
一年前、エヌマエルは唐突に姿を消した。
「すぐに帰ってきますから」
いつもと変わらない穏やかな笑みが、その日は少し歪んでいた。
だからだろうか、エヌマエルは初めてアリーセとの約束を破った。気が付けば新年も、花祭りの日も過ぎていたのだ。
そして、とうとう人生初の一人誕生日を迎えたのはつい先日のこと。
おかげで十四の誕生日に、毎年食べているパイを一人で完食する羽目になった。いつもはエヌマエルと半分に分けていたのだ。
なのに、四分の一を食べ終え、まだある、と嫌気がさした。
半分を食べ終え、気分が悪くなった。
四分の三まで食べて、パイがいつもよりしょっぱいことに気がついた。
もう、それ以上はフォークが進まなかった。
「ししょー」
はち切れそうなお腹を抱え、小さく呼んでみる。もちろん返事はない。
飲み込んだはずのパイが、喉元まで迫り上がってくるようだった。しかし、口からこぼれ落ちたのは、ずっと我慢していたはずの、小さな嗚咽。
その日の晩、アリーセはエヌマエルがいなくなってから、初めて泣いた。
そして、決めたのだ。帰ってこないのなら、迎えに行けば良いと。
翌朝から、アリーセは旅支度を始めた。
エヌマエルの行き先は、誰も知らなかった。目的も告げずに、彼は行ってしまった。そんな師を探すのは、きっと数日じゃ済まない。
しかし、アリーセはもう待てなかった。
町の人からたくさんの言葉と餞別を受けた翌日の朝——誰もがまだ夢を見ているような時間に、アリーセは一人、探し人を求める旅に出た。




