第十二首 昼の陽の あまりに強き わび人を なぐさめ給ふ 夜半の月影
淡い緑の小袖に、前掛けとして褶を重ねた小綺麗なおばさん。
衵こそしていないが、その仕着せに見覚えしかないかぐやは嫌な予感がしていた。
「あなたは、宮中の女官?」
「いえ、そんな、めっそうもない。わたくしは、ただの女孺勤め。それも、過去の話でございます」
すると、何か事情があって、宮中を追い出されたのか。
かぐやは、弦一郎をチラリと横目で見る。
今は、縁側に座ったままの夜風と鞠遊びなどに興じている彼だったが、おそらくは、このおばさんを宮中で見かけたことがあるのだろう。
東男の野性的な勘かどうかはわからないが、ともかく、彼はこのままにはしておけないと判断して、彼女たちをここまで連れて来た。
それだけは間違いなさそうだった。
「お名前は?」
「生まれ故郷の名にございます。宮中におりました頃も、名のない身分のわたくしは、ただ『吉野』とだけ」
そっちに座っている『ウシカイオ』より、何倍もいい名前じゃないか。
「……『あまね』ですか?」
その一派しか、あそこにはいない。というより、いられないというべきか。
その名を聞いた吉野とウシカイオ、さらには、横にいる弦一郎までがピクリと体を硬直させる。
やはり、とかぐやは納得した。
自分も宮中にいた頃は、あの女の手先にさんざんなことをやられた。
部屋の前に汚物を撒かれたり、羽化直前のカマキリの卵を机の引き出しに入れられたり、おじいちゃんの誕生日にしたためた和歌の紙でお尻を拭かれたり、思い出すだけで反吐が出る毎日。
そのうちに心がやられてしまって、歌の力、法力を奪われた。
式部だとか、納言だとか。
事件を起こしたのは、そういった取り巻きの方であって、あまね本人に特に恨みはない。
宮中という、下の者たちが、何か勘違いして動かしている組織そのものが、ただただ悍ましい。
弦ちゃんみたいなイケメンなんて、どこにもいなかった。
貴族の男たちは見えない権力をその目で捉えようとして、皆、顔が明後日の方向に曲がっていた。
百歩譲って、好みの男がいたとして。
実際、いました。
貴族ではないですが、五歳くらいの頃、よく遊んでくれた、宮中で警備を担当されていた方が。
顔は面白い感じだけど、よく笑って、体が逞しくて、字も綺麗で、賢い。
そんないい感じの殿方が、初恋の相手でした。
結局その人は、権力闘争の巻き添えを食らって、職を失い、今は行方知れず。
この吉野という人も、直接というよりは、仕えている主人が被害を受けて、そういうことになってしまったのでしょう。
「……なんとなく、事情はわかりました。我が屋敷で奉公してもらえれば、このまま暮らしてもらって構いません。ですが、だらしのない男女関係を持ち込むことだけは、許せません」
シングルなのか、ダブルなのか。
一口に不倫といっても、様々な組み合わせがある。
なぜ弦一郎は、この二人の関係を、そういうものだと断定したのだろう。
基本的な疑問を残すかぐやではあったが、彼の出す結論はいつでも大体合っているという経験則が、その疑念を塗りつぶす。
そんな彼女の思いを先回りして読んでいる男は、ようやくのことでその真相を語り始めてくれた。
「とはいっても、妾だ。正式には元妾か。なまじ見てくれがいいから、元主人にいいように使われてたんだよ。な?」
とてもフランク。
身分関係なく接すること。
それは素晴らしいことだが、真っすぐ過ぎる彼の言葉は、ときに人の心へと深く入り込む刃にもなる。
ふいに、吉野の瞳から一滴の涙が零れ落ちた。
やがて彼女は唇を震わせながら、言の葉を紡ぎ出した。
「……みじめでございました。あそこにいた私は、人ではなかった。ですが、この人は……牛飼男は、違った。自らも、厳しい環境に身を置いているのに、私を、すべてを失い、路頭に迷うしかなかった、薄汚れた女に、雨露をしのぐ場所を分け与え、温かい食事まで……一人の人間として、私を、扱ってくれました」
すべてが、繋がってきた。
吉野の隣に坐する煤けた牛飼男も、宵闇の中で瞳を光らせている。
これに対し、かぐやは――。
「……スン」
鼻をすすって、渾身のもらい泣き。
「宮様……どうか、ご慈悲を」
ウシカイオが首を垂れれば、どこからか優しい風が吹いてきた。
「わかりました。そっちのポチも含めて、どうぞ、今まで通り、お過ごしください」
心を痛めてもなお生きようとする者へ、せめてもの贐として、彼女は心の中で歌をしたためる。
――なほ生きむ 憂き世はつらく あるなれど 君がひとこと 闇を照らせば。
◇ ◇ ◇
庭に筵を敷いて座らせていた、吉野も、牛飼男も、ポチも、もういない。
深くなった夜の縁側には、女と男、そして少女だけが並んで腰かけていた。
「あれで、よかったのかな?」
己の働きかけが、正しかったのかどうか。
いまいち自信が持てなかったかぐやは、弦一郎に語り掛けた。
「生かすも殺すも、あいつら次第。そんなものは、今すぐにはわからん」
前向きな言葉を期待していたかぐやは、シュンと下を向く。
すぐさま、チッと舌打ちの声が聞こえた。
もちろん、弦一郎が発したものだった。
「ったく、しゃあねぇなぁ。夜風、占ってみてくれるか?」
「はい」
足をぶらぶらとさせて座っていた夜風が、スッと立ち上がった。
深紅に染まった彼女の瞳が、上天を向く。
その眼差しが捉えていたのは、夜空に輝ける月だった。
『――月は、日に勝らず。だが、月明かりにしか集えない者たちにとっては、何よりも貴く。彼の者たちは、月の民。歌姫が作り出すのは、月の都』
夜風は庭先に向かって一礼すると、再び縁側へと腰かけた。
弦一郎は「フフン」と鼻で笑って、かぐやの方を見る。
「……だとよ?」
「どういう、意味?」
「わからんか? 俺の名前が出なかったから、料金は払えんということだ」
「そんな! また、わらび餅が食べたいです」
「はっはっは! ……あのおっさんたちに、米とか着物とか、やらんとな」
彼の提案に、かぐやは何度も何度も、深く頷いた。
ふいに起こった庶民との接触。
それによって受けた、カルチャーショック。
住む世界はだいぶ違っていたが、そこで育まれている愛の形は、自分たちと比べて違わぬどころか、それ以上に綺麗なものだった。
またひとつ、学びを得た彼女は、心の一首。自分ができることを、ただ繰り返した。
――捨つる身を 拾ふ心の ゆたけさを ともに持ちけり 愛しき君と。




