9 克也の過去
「え・・っと、弘樹どうしたの?」
しばらくの沈黙の後、その重みに耐えかねたように亜紀が言葉を紡ぐ。対する菅沼克也は何かを考えていたわけではないが、ぼーっとしてしまった自分に気づいた。
「間違って酒飲んだみたい」
「そっか・・・じゃぁ部屋で寝かせとくね」
1人で運べるのかと不安になったが、亜紀は簡単に弘樹をおんぶしてしまった。克也は昔、怪力女と呼んでいた頃を思い出した。今、もし昔に戻れるのなら、あの頃に戻りたい。もちろんそんなことは不可能だと知っていたが。
「じゃぁ・・」
「あ、かっちゃん」
そのあだ名で呼ばれるのも実に8年ぶりだ。条件反射で体が反応して克也は立ち止まった。
「弘樹を送ってきてくれてありがとう」
「・・ん・・・」
振り返らずに頷いた。
▽
玉木有子が菅沼家に到着したときにはすでに8時をまわっていた。たまたま今日が学校当直の日で、不器用な玉木はモタモタしていてなかなか仕事が終わらなかったのだ。
しかし、着いてみてすぐに克也がいないことに気がついた。
「あの、後田君。菅沼先生どこにいるかわかりますか?」
「先生なら酔いつぶれた弘樹を送ってたよ」
生徒の1人、後田賢が答える。
「酔いつぶれたって・・・成瀬君お酒飲んだんですか・・・」
「なんかヤケ酒みたく一気にがーって」
後田がそこまで言うと、車のエンジン音が聞こえてきた。振り返ると、車庫にバック駐車している克也の姿があった。
今しがた克也に起こった出来事を知らない玉木は心臓の高鳴りを抑えて車庫へと向かった。
「あれ、玉木先生!お疲れ様です」
普段どおりの明るい声、表情で車から降りてきた克也は笑顔で玉木を出迎えた。しかし、なぜかいつものその顔が少しだけ元気がないように見えたのは玉木の気のせいだろうか。
「いえ・・すいません、私も参加しちゃって・・・」
「大勢のほうが楽しいじゃないですか。あっ、玉木先生ってビール飲めます?」
「はい。少しなら・・・」
「じゃぁ一緒に飲みませんか?」
玉木の返事を聞かずに家の中に入っていく克也。やっぱり何かがおかしいと頭半分で思いながらも、もう半分でビールが飲めると言った自分を後悔していた。どうも自分は酒が入ると説教くさくなるらしいのだ。
生徒たちが手持ち花火をやり始めた頃、庭の隅にあるイスに座り、玉木は克也と一緒にビールを飲んでいた。なるべく酔わないように少しずつ少しずつ飲んでいたが、逆にハイペースで飲んでいく克也のほうが気になってしまった。
「菅沼先生、あんまり飲むと明日二日酔いがひどくなりますよ・・・?」
「明日は休みなんで大丈夫です」
すでに缶5つ目。玉木だったら酔っている頃だ。
目の前では、生徒たちが楽しそうに花火をしている。ちゃんとバケツに水を用意しているところがえらいと思う。
と、そのとき、隣の克也が6本目のビールを開けようとしていることに気づいた。
「もうやめてください!これ以上はだめです!」
「飲まないとやってられないんすよ」
それでも玉木は強引にビールを取り上げた。幸いもう缶ビールはないようで、克也はあきらめたように脱力した。
「・・・好きな人がいたんです」
何の前触れもなく克也は呟いた。玉木は少し驚いて見る。好きな人がいたということではなく、そのことを自分に話す克也に驚いたのだ。
「ガキなりに真剣な恋だった・・・もう、届かないけど・・・・・」
星空に伸ばした手は何かを掴むことなく虚空を彷徨う。その相手はもうこの世にはいないのだろうかと玉木は考えた。
そんな玉木の心中を察することなく、克也は勝手に語り出した。
▽
それは高校生の話、菅沼克也はそこにいるだけでクラスの人気者になっていた。何もしなくても女の子から告白され、かわいかったらつきあって、かわいくなかったらやんわりと断るといったことを繰り返していた。
気づけば隣には彼女がいる。それが当たり前だった。
だけど、どの恋も本気にはなれなかった。克也は何人もの女の子たちとつきあっていながら、ずっと昔から好きだった人が他にいたのだ。たぶん初恋だったと思う。
マジで大好きだった。すごくかわいいわけでもなかったのだが、その女の子と話していると克也自身も嬉しくて、楽しくて、このままずっと傍にいたいと何度も思った。克也にとって、一生分の恋だった。
でも、告白する勇気がなかった。なんていうか、断られたらどうしようという不安と自分から告白したくないというプライドが交錯してできなかったのだ。
「遅いよぉ・・・・・」
それが勇気を出して、全てを投げ捨てて告白した返事だった。
そのときには、彼女は別の男との結婚が決まっていた。
全てが遅かった。
▽
「ガキみたいで笑っちゃいますよね」
どこか自嘲気味に話す克也の話を、玉木有子は黙って聞いていた。
「俺が告白したのも、彼女を取られたくなかったからなんです。結婚のことは弟の弘樹から聞いて知ってましたから」
ただ、黙って聞いている。
「でも、俺・・・あのときから恋ができないんです・・・・なんかもう・・・笑えるなぁ・・・」
やっぱり沈黙。しかし、さすがに反応がない玉木を不審に思ったのか、克也は身を乗り出して顔を覗き込んできた。
それと同時に玉木の腕が伸びた。克也の胸倉を掴み上げ、立ち上がった。
「なんで笑うんや」
「・・!?玉木先生・・・?」
「先生がその人のことをホンマに好きなら・・・なんで笑うんや?大切な・・・大切な思い出まで否定するみたいに笑ったらアカン!今度そないしたらウチが許さへんから!それから・・・・!」
一呼吸置いて、玉木は克也を睨みつける。
「真剣な恋で失恋した人なんて世の中にはぎょーさんおる!ウチかてそや!自分1人が不幸背負ってるなんて思わんとき!」
そこまで言って乱暴に克也を突き放すと、ふらふらとその場に倒れこんでしまった。慌てて克也が体を支えてくれたのは覚えているが、それからの記憶は全くなかった。
▽
「玉木先生どうしたんですか・・・?」
今の様子を見ていた生徒は玉木の豹変振りに驚いて尋ねる。対する菅沼克也は特に取り乱すことなく玉木の体を抱えた。
「たぶん酔ったんだろうな。俺も飲んじゃったから今日は家に泊めるわ」
彼女の手から空になった缶ビールを取り上げる。量で言えば克也のほうが飲んだのだが、どうやら玉木は酒に弱い体質のようだ。
妙に頭がさっぱりしている自分に気づく。結構飲んだと思ったが、玉木に怒鳴られて目が覚めたような気がする。
「今日はこのへんでお開きにしようか。あんまり遅いと父ちゃん母ちゃんが心配するだろ」
「えー・・・」
「よっしゃー!片付け開始ー!」
克也の一声で花火などの片付けが始まる。克也も玉木を抱えて家の中へと入っていった。寝ている人間は意外と重い。そんなこと本人には言えないが、細身の玉木でも少し重たく感じるのだ。
玉木を自分の部屋のベッドに寝かせ、自分はその足元に座った。
そのとき、ずいぶん前に大阪出身だと彼女が言っていたことを思い出した。
「そうですね・・・」
さっきの玉木が放った言葉の返答だった。
「あれは俺にとって大切な思い出です。あんなふうに自嘲的じゃなくて、心から笑い飛ばせる日が来るといいんだけどなぁ・・・」
後田賢は遊び心です。
前に出てきたケンちゃんと同一人物だと思います。
っていうか、弘樹はどうしたんでしょうか?
気がついたらこの回登場してませんでした…