第十六話
シルヴィアがようやく僕の首にまわした白い手を放してくれたとき、帝都のホテルの最上階の窓からは、うっすらと白み始めた空が望めた。
月は西に傾き、あれほど満天に輝いていた星が淡く陰っている。
僕は呼吸を整えると、ベッドから降りて、ガウンをとって肩にはおりながら窓辺に立った。
街は完全に寝静まり、まばらに散る灯火が、暖炉に残った薪の燃え残りのようだった。
シルヴィアはどろどろになった化粧にもかまわず、ほつれたプラチナ・ブロンドを手櫛で雑に流しながら、ベッドを出て素足のままふらふらと歩いてくる。
よろけるのを抱きとめて、暖炉の傍の長椅子に座らせた。
「あなたのことを考えていたら、突然お店のドアが開いて、あなたが立っていた――」
と、酔っぱらったような声で言う。
「そういうことってあるのね」
「急のことで、すまなかったな」
「あなたのお誘いなら、いつでも大歓迎よ。
なんなら、管理局の中だって構わないわ、あたし」
口紅の乱れたくちびるをキスのかたちに尖らせる。
以前のシルヴィアならさぞ似合っただろうが、いまは小娘が悪ふざけしているようにしか見えないのが、またおかしかった。
「見つかって職場にいられなくなったらどうする」
いっそ、僕の妻にでもなるか。
思い切って言ってしまおうかと思った。
「うーん、どうしようかしら」
と、シルヴィアは鼻にかかった声で言う。
「でも、あなたの困る顔を見てみたい気もするわ。
それに、あたしとの噂が立ったら、ほかの女の子はあなたに手を出しづらくなるでしょう?」
そうして、小娘らしく楽しげに笑って、
「冗談だってば。
そんな顔をしないで」
「脅迫のつもりなら指摘しておくが、いまの君には、自分で思っているほどの迫力はないよ。
後ろ姿がどう見たって小娘だからな」
胸はひとまわり小さくなったし、エレガントそのものだったマーメイドスカートの腰回りは今はすこし余裕があるくらいだった。
「ねえ、準男爵さま?」
シルヴィアが悪戯っぽく微笑む。
「夜中に突然やってきて、その小娘みたいなカラダをさんざんもてあそんだのはどなたかしら?」
言い合いでは女にはかなわない。
「……なにか飲むか」
「この時間だものね」
と、小娘は気だるそうに窓のそとを眺める。
「お酒は我慢しなきゃ。
紅茶にしない?」
「座っていろ。
僕が淹れる」
「あら、優しい! でも、一緒に淹れましょう。
あなたも疲れてるでしょ。
ねえ、お湯を沸かして。
……紅茶のセットはどこかしら」
「居間のサイド・テーブルだ。
暗いから足許に気をつけろよ」
硝子の水差しからケトルに水を注いで、暖炉のうえに置く。
そのあいだ、居間のほうからずっと楽しげなハミングが聞こえていた。
ひとつのタオルケットを共有して長椅子に並んですわり、無言で紅茶をすすっていると、シルヴィアが泣いていることに気づいた。
「……あなた、とうとう領主になるのね」
と言って、睫毛をくずさないよう、小指で涙をぬぐう。
「そうよね、デキる男だもの。
出世しないほうがおかしいよね。
……ごめんなさい、あなたに重い女って思われたくないのに」
「……そんなことは思っていない」
シルヴィアの涙の理由はなんとなく推測できた。
騎士が平民を妻とすることはよくあったが、領主や貴族となると話は別だった。
皆、領地の安定のことを第一に考えなければならないため、結果として、領内の有力者や貴族の娘を娶ることが多かった。
それも、親によって許嫁が決められていることがほとんどだった。
この恋を、結ばれない恋と思っているのだろう。
「ヴォイド郡を拝領する件は、そう単純な話ではないんだ。
ウェイルロード州はそうとうな混乱状態にあるらしい。
言わば、小部隊を率いてダンジョンに乗り込んでいくような話で、そのうえ政治的に複雑な事情も絡んでくる。
ひとつ間違えば僕だってどうなるか分からない」
「大丈夫なの?」
「さあな……」
懸念は宰相の封印から逃れ去ったデュラハンの首と、宮廷の政治情勢だった。
ヴォイド郡のおかれた状況によっては、魔物の群れのみならず、門閥貴族どもとも事を構えざるを得ない。
いまは宰相の後ろ盾が期待できるが、それとて宰相の権勢が門閥貴族どもを圧倒しているとは到底言えない。
いつ中央の情勢が急変してもおかしくないと、僕は見ていた。
それでも、行かなければならない。
運命が、そう告げているように思えた。
「だから、君に会っておきたかった」
シルヴィアが僕の胸に頬をあてる。
涙の水気を肌に感じた。
「うれしい」
僕は彼女を腕に包み込んで、
「君が60過ぎのおばあちゃんであることを、うっかり忘れそうになるよ」
「いま、それ言う?」
と、シルヴィアはくすくす笑った。
「ムードのない男って最低!」
そうしてガバっと顔をあげて、
「決めた。
有休をとって、あたしも行く。
マキシムが断ったってついていくからね」
立ち上がり、タオルケットを放りなげて全裸になり、藍色の月あかりを背に僕をふりかえって、
「あたしの銃であなたの敵を片っ端からハチの巣にしてあげるわ!」
手を腰にあてて、不敵な笑みを浮かべ、形のいい顎をあげる。
「おいおい……」
「あっ……」
テーブルの紅茶のカップが倒れそうになり、手を伸ばすと、ちょうとシルヴィアと顔をあわせる格好になった。
僕たちは微笑みあい、抱きしめ合った。
あと三話ほどで前編に区切りがつく予定です。その後はいずれにしろ暫く更新しないと思います。別の新作に取り掛かるかもしれません。申し訳ございません。




