表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
金の杖 銀の杖  作者: jorotama
第二章
23/97

『銀の杖と北の方舟』14

 商館の事務所へ入って行ったグラントを待つ間、シェムスは人や馬、荷を乗せた馬車の通行の邪魔にならぬように事務所前から人通りの少ない路地へと貸し馬車を移動させ、大きな倉庫の落とす影の下に停めた。


 レンガ造りの倉庫と倉庫の間から見て事務所は辻向かい。

 ここからは見えないけど、シェムスの座る御者台からなら商館入り口が見える筈だ。

 宿からさほどの距離もなく、歩いて戻ろうと思えば戻れただろう。

 貸し馬車の駅もここから程近く、普段の私だったならグラントが仕事をしている間に歩いて宿に帰り、一足先に着替えをしていたに違いないのだけど、着崩れしただらしの無い格好で人前を歩きたくなかった私は馬車の中でグラントを待ち、彼と一緒に戻るつもりでいた。

 杖を突いて歩くというのは只でさえ人目を引く。

 そんな人間が身じまいの悪いみっともない格好をして歩いたら、一体世間からどんな目で見られることか。

 ……見栄っ張りなどと思われると心外だ。

 私にだって一応女性としての矜持くらいある。


 朝一番でルルディアス・レイを出発する馬車と、朝一番で近隣の街を出発しルルディアス・レイに荷を運び入れる馬車の出入りのピークの時間はとっくに終わっていた。

 この後、倉庫街周辺が混雑を見せるのはもう少し後の時間になるだろう。

 今の時間はそれほど人通りは多くは無い。


 本当は宿に戻ってからにするつもりだったのだが、この時期には暑くて風通しの悪い貸し馬車の扉を開けて私は御者席のシェムスを呼んだ。

 グラヴィヴィスから預かっていたノルディアークでの『お礼の品』を彼に渡すためだ。


「お嬢様……私はただ、当たり前のことをしただけですよ。こんな立派なもの……」

「貴方にはそれを受け取る権利があると思ったから私は受け取ったのよ、シェムス。グラヴィヴィス様が貴方に是非っておっしゃっていたわ」


 珍しく彼が頬など紅潮させてグラヴィヴィスから贈られた品を手にするのを見て、なんだか私まで嬉しくなった。

 剣術の稽古を始めて日が浅いシェムスがこれまで使っていた剣帯は、本当に『間に合わせの物』だったから……。


「ねえシェムス、グラントはまだ少しかかるでしょうから時間ならあってよ。折角だから新しい剣帯をつけて私に見せて頂戴?」


 表情こそあまり動いていないが、内心この贈り物を喜んでいるシェムスにすぐにでもこの剣帯を身につけて欲しくて私は言った。

 こんな往来で……と渋る彼に我侭を押し通した私は、とても出来の悪い主人だったと思う。

 子供時代ならまだしも、二十歳を越して夫を持つ分別ある大人だったはずなのに、被っている帽子を変えるのと同じような感覚で剣を吊る剣帯を取り替えてくれなんて、馬鹿なお願いをしてしまうなんて……。


 シェムスが新しい剣帯を締め、それまで使っていた剣帯から剣を取り外そうとした時だった。

 私の乗る後部席に突然見知らぬ男が乗り込んできた。

 その手には抜き身の剣。

 何が起きているのか認識するよりも早く、その男は私の首に鋭い刃を当てて


「静かにしろ。声を出したら殺すぞ」


 としゃがれた声で言った。

 開け放したままの扉の外からは、もう一人の男が御者台の上の剣を掴もうと手を伸ばしたままのシェムスを制止し、少しでも動けばシェムスも私も命は無いと恫喝する声が聞こえてきた。


「お嬢様っ……!」

「黙りやがれ、女ごとぶっ殺すぞ」


 私を案ずるシェムスの声に、ひそめながらも恐ろしい声色の恫喝が重なった。

 ……ブルジリア王国は……それも、ルルディアス・レイは特に治安の良い街との認識は幻想だったのか。

 

 私の喉笛に冷たい刃を押し付けた男は身なりこそ汚れの無いそれなりの格好をしているけれど、どこか荒んだ気配を持った人間だった。

 間違っても商人やまっとうな職人じゃないし、農民でも役人でもないと思う。

 茶色の髪に灰色の瞳。

 ブルジリア王国の大半の人間は暗い茶髪に暗い茶の瞳だ。もしかすると彼はこの国以外の出身かもしれない。

 武器の扱いに慣れた様子からすると、兵隊崩れかそれに類する前歴の持ち主だろうか。


 私は最初、彼等を強盗か何かだろうと思っていた。

 でも……だったら私の喉元に刃を当てて脅しつけたら直ぐに、馬車の中や私の身の回り品を物色したり奪ったりするのが普通なんじゃないかと思うのだが……。

 いや、もちろん私は強盗になど遭った事が無いから本当のところはわからない。

 だけど黒琥珀入りの箱はグラントが商館の金庫に預けるために持って行ったが、金貨が入ったバッグはそのまま手元にあるのにそちらにへ目を向ける様子が無いなんて、おかしくはないだろうか。


「確かに教会から出てきたのはコイツらの馬車なんだな!?」


 しゃがれ声の男が馬車の外に向けて言うと、車外から二人の声が……一人はたぶんシェムスを脅しつけている男と、馬車の先方の道路付近を見張っている男が異口同音に


「そうだ、間違い無い」


 そう答えるのが聞こえた。

 私の心はまだこの現実離れした出来事に対応しきれず、悪い夢でも見ているような状態にある。

 恐ろしいながらもなんだか妙に落ち着いて、冷静な部分が残っているのだ。


 その冷静な部分で外の気配を探って分かったのは、どうやら彼等は三人で動いているらしい事。

 二人が私とシェムスを脅迫、拘束し、一人は周囲の見張りと言うところだろうか。

 話しぶりや外の男らの対応からすると、私を脅している男が彼等の中ではリーダー的な存在のようだ。

 それにさっきの台詞から、彼等はグラヴィヴィスとの面談のため訪れたルルディアス・レイ外周西の教会の時点で私達の馬車を見張っていたらしい事も分かった。

 どうやらただ誰彼無しに隙のある人間に襲い掛かった強盗と言うわけではないようだが……。


「ノーダ、一応この女の面ァ見ておけ。前金貰っておいて人違いだったなんて洒落になんねぇからな」


 ……前金……!?

 じゃあこの男達は誰かに頼まれてこんな事を……?


 一体どういうことなのか考えを巡らせる余裕も無く、ノーダと呼ばれた男……シェムスの喉元に鋭い剣先を突きつけた男がシェムスを引きずるようにして開け放しの扉の前に現れた。

 ……とは言え、いかつい体つきのシェムスに比べると、ノーダと言う男は筋肉質ではあってもそう大きくはない。

 大柄な彼の喉元に背後から剣を突きつけつつ馬車の中を覗き込む体勢はちょっと苦しそうで、こんな状況でなかったならユーモラスな印象を抱いたかもしれない。


「間違いありませんよ。この女でさぁ」


 シェムスの肩からチラリと車内を覗き込んだノーダがそう言った。

 一瞬見た顔立ちや黒に近い髪や瞳の色から推して、ノーダはこの国の人間だろうと思う。


「お、お嬢様、お怪我は…………。…………お前………………っ」


 青ざめながらも私を心配する言葉を発したシェムスの表情が、突如として驚愕に歪む。


「……ナトガ……」


 呆然と呟く声に反応して、ほんの少しではあるけれど私に押し当てられていた剣先が緩んだ。


「……あぁン……?」


 しゃがれ声の男は少し身を乗り出すようにしてシェムスの顔を凝視している。

 彼の意識が私に向いていない今、席の奥にある杖で思い切り殴ればあるいはこの男をなんとか出来るかもしれないけれど、シェムスはまだつかまっている上、狭い車内にいては逃げ場も無い。


「なんだ……おまえ、シェムスじゃねぇか!?」

「知り合いか?」

「……まぁな」


 がさつく声を聞きながら私はつい数日前の事を思い出していた。

 そう言えばディダに会いに行った中央広場で、シェムスは昔の知り合いを見かけたといっていたけど……このナトガと言う男の事だったのか。

 確か彼が若いころ身を寄せていた傭兵団の下働き仲間だったと言う話だった筈……。

 ナトガと言う男は兵隊崩れではなく、もと傭兵団の一員と言う事のようだ。

 それも、シェムスのように下働きの段階で辞めたわけではなく、身のこなしや武器の扱いから考えてそれなりの戦闘能力を身につけた後にそこを辞め……どういう経緯があってか、こんな乱暴な仕事に手を染めた人間と言う事らしい。


 ちらちらと彼等から聞こえてきた話しから考えて物取りの類ではないようだし、やろうと思えば最初に馬車に押し入ってきた時に私達を殺す事だって出来たはずなのにそうしなかったという事は、狙いは私達の命でも手持ちの金銭でもないようだ。

 一体どんな目的あってこのような振る舞いに出たのか、それさえわかればこの状況から逃れるために交渉出来るかもしれないのだが……。


「おいシェムスお前、確か親父がおっ死んじまったって郷里に帰ったんじゃなかったのか? なんだってこんなところにいやがるんだ」

「……お、俺……いや、私はお嬢様のお供でたまたまこの国に……。なぁナトガ、頼むからお嬢様に手を上げるような真似はしないでくれ」


 背後から刃を突きつけられ、両腕を後ろ手に一からげに掴まれながらもシェムスは私のことを案じてその身の無事を哀願し、こちらに身を乗り出した。

 彼の喉に今にも食い込みそうにノーダの剣が当たっている。


「ちっ……ナトガ。こんなトコロで旧交を温めてる場合じゃねぇだろうが」

「うるせぇ分かってる。俺らが旦那に頼まれたのはなんとか言うアグナダ公国の侯爵の始末だろ。だけどよ、ここにコイツがいると話がおかしくなっちまうんだよ」


 しゃがれ声の男……ナトガのこの言葉を聞いた途端、妙に冷静だった頭から一息に血の気が引くのを感じた。

 それまでは多少早くとも普通に打っていた筈の鼓動が、急激に耳を聾さんばかりの音量で内耳に響く。


 ……この人達は、グラントの命を狙っていると言うことなの!?

 でも、どうして?


 脳裏にふ……と思い浮かんだのは、グラヴィヴィスに身辺に気をつけるようにと警告されるほど過熱しているらしい『最終選考会』の事。

 ……選考会に作品を出品した工房は、確かに彼がその設立に奔走した商館の所属だ。

 ノルディアークでも幾人もの貴族や官僚、この国の実力者と接触しているバルドリー侯爵の名は、商館や工房の名前とあわせて関係者へと漏れているのかもしれない。

 もしもこの時期にきて商館の代表者……実際は商館の代表者名簿に彼の名前は載っていないのだが、中心人物と思われているバルドリー侯爵が命を失う事になれば、それも暴漢に襲われ絶命したならどうなることか。

 『最終選考会』になど参加している場合じゃなくなるに違いない。少なくともそう考える人間がいてもおかしくはないのだ。

 だけど……それにしてもどうして私達の所在が彼等に知れてしまっているのか……。


 表向きバルドリー侯爵は未だにノルディアークの街に使用人らとそのまま滞在している事になっている。

 ルルディアス・レイで宿泊している宿だって、バルドリーの名前ではなくグラント・バーリーの名で取っているのに……。

 数瞬の間にここまでを一気に考えた私は、グラヴィヴィスが教会の情報が外部に漏れていると零していたのを思い出した。


「お前の郷里は確かリアトーマだった筈だろ。シェムス、お前、その女とどこから来たんだ!?」


 ナトガの脅すような声色での問いに、私ははっとして顔を上げる。

 シェムスの茶色の瞳がゆらゆらと小刻みに左右に揺れるのが見えた。


「ボ……ボルキナ国のダゴーナ……」


 青ざめた顔で搾り出すように言う彼の瞳は、虚空に向けて泳いでいた。


「フブ……ッ……ハッ! 相変わらず馬鹿正直に生きてんだなシェムスよ。……嘘ついてんじゃねぇよ!!」


 制止する間もあらばこそ、ナトガの足がシェムスの胸板を蹴った。

 彼を拘束するノーダの剣先がぶれてシェムスの頬に薄く切り傷をつけた。


「お前が嘘ついてもバレバレの丸分かりなんだ。お前やこの女の命までは取らないでやるつもりだったが、これ以上ふざけた真似ェしやがると、テメェらもここでバラしちまうぞ」

「やめて……っ! お願い、シェムスに酷い事をしないで! あ……貴方達は人違いをなさっているのよっ!!」


 傷つけられたシェムスの頬の傷から赤い血の珠がプツプツと盛り上がり滴る光景に貧血を起こしそうになりながら、私は必死にナトガの肩に手を掛けて引き止めた。

 彼等は何者かの依頼を受けて『バルドリー侯爵』の命を奪いに来た。

 どうやら私達の命までは取るつもりはないらしいけれど……。


「なんだと……どういうことだ!?」


 かすれた声で凄まれて、身が竦んだ。

 ……怖い。……だけど……。


「本当に、人違いなんです。私はただの商人の妻で、さっき商館に入って行ったのは私の主人ですが、彼も一介の商人に過ぎませんわ。侯爵様だなんて、何かの間違いだとしか……」


 勇気を振り絞り震える声で私が言う間、ナトガとノーダ以外の姿が見えなかった男が痺れを切らしたらしく、馬車の扉から顔を覗かせた。

 黒々と太い眉。右のこめかみから頬に掛けて引き連れたような傷跡を持つ男は、その腕にクロスボウを装着している。

 クロスボウは小型だが命中精度の高い武器だ。

 男の装着している物はかなりサイズの小さな物だが、もし矢尻に毒が塗布されていれば、当たった人間は簡単に絶命する事になるだろう。


 櫃に押し込まれていた時とは違う冷たい汗が私の背を流れ落ちる。

 この中にもしも『バルドリー侯爵』の顔を見知っている人間がいたら打つ手はないけれど、もしかしたら……話しの持って行き方次第では、グラントを彼等の標的とは別の人物だと思わせる事が出来るかもしれない。

 いいえ、どうあってもそうしなければ……グラントが殺されてしまう……。


「シェムス!この女が貴族ではなく商人だと言うのは本当か……!?」


 吼える様なナトガの問いにシェムスの大きな体がビクリと震えた。真偽を直ぐに現してしまうその目をとっさに閉じて顔を背けるが、それはシェムスが『嘘をつけない』のを知っているナトガにとっては『答え』も同然だった。


「このアマ……騙そうったってそうは……っ」

「確かにっ! 私はリアトーマの貴族の出自である事は間違いありませんわ。か……片田舎の、子爵家の出に過ぎませんけれどけれど。でも……商人に嫁いだので今は商人の妻なんです!」

「そんな馬鹿な話しがあるかぃ……っ!」


 ナトガの掴んだ剣が、私の喉に冷たく食い込む。

 ここで殺されてしまうのでは……と言う恐怖と戦い、なんとか乾いた口中からむりやり喉の奥に唾を飲み込むと、再び言葉を続ける勇気をかき集めた。


 ああ……いつだっただろう?

 昔、まだ私がグラントの正体を知らず二人がこうして結ばれるなんて思ってもいなかった頃に、彼は私に『嘘をつくなら100%すべて嘘で固めて本当を忘れるか、それとも真実の中に少しだけ嘘を混ぜるか、君はどちらを選ぶ?』と言う質問してきた事がある。

 その問いに私はこう答えた筈だ……。


『……本当の自分を忘れることは難しいわね。どこかで自分が零れ出る瞬間があるから』


 100%の嘘で完璧に自分を固められるほど私は器用ではない。

 完全な作り事にはどこかに嘘臭さが漂うし、嘘のような真実にはどこかに『本当らしさ』が存在する。

 貴族の娘が商人に嫁ぐなんて事そうある話じゃないのだから、彼らがそれを『嘘』だと思うのも当然だろう。

 だが、貴族とは言えそう位の高くない『子爵家』、それも辺境の家の出だと強調すれば抱く印象は全く違う筈。


「わ……私は見てのとおり足が悪いんです。リアトーマ国じゃ私のような……体に不具を持つ者は、家の名誉を傷つけると言われ邪魔者扱いになります」


 ここばかりは偽ること無い恐怖にどうにもならぬほど震える手で、私は座席の横に置いた象牙の握りの杖をナトガらに指し示した。


「夫は羽振りのいい商人で、い……一生家を出る事なく終わる筈だった私のことを貰ってくれた方なのですわ。お願いですからどうか彼の命を奪ったりなさらないで…………っ!」


 私の言葉や声は哀れっぽい響きを持って彼等の耳に届いてくれただろうか?

 片田舎の没落寸前の子爵家の足の不自由な娘が金回りの良い商人に貰われたと言う、下種ではあっても彼等に理解のしやすいお話を勝手に脳内に構築し、それを信じてくれると良いのだけれど……。


 ……自分を貶める言葉を吐いたり、自分の家族を悪く思われるのは惨めな気持ちだ。

 だけど、それ以上に私の目の前でグラントの命が奪われるなんて事は耐え難い。

 もしも彼の命が失われる事を回避出来るのなら、私はどんな惨めな目に遭ったってかまわない……。


「…………」


 ナトガとクロスボウの男が無言で目を見交わしている。

 私の言葉の真偽を推し測っているのだろうか。


「シェムス。貴方からも説明して。エドーニアで出会った時、私の夫は間違いなく商人だったわよね!?」


 祈るような気持ちで私は真っ直ぐにシェムスの目を見た。

 シェムスは愚直な程に正直ではあっても、けっして愚かな人間ではない。


「覚えていますとも、お嬢様。……本当の話だ信じてくれ。た、確かにお嬢様の旦那は一人で諸国を巡って珍しい品物を商う商人だったんだ。その頃は商人ってよりは隊商の護衛みたいな身なりでお嬢様の周りをウロウロする信用ならん奴だったが、そのうち立派な成りでお嬢様をお迎えに来なさった……。お嬢様にとっちゃこれ以上ないお相手を、ナトガ……後生だから……」


 普段は無口なシェムスが、言葉を尽くしナトガへと訴える。

 『嘘』ではない部分をより分けて、私の打ったお涙頂戴の三文芝居にとっさに乗れる彼の機転が心底ありがたい。

 伺い見るナトガの表情は疑惑に満ちたモノから純粋な苛立ちへと変化しているようだった。

 私は最後のダメ押しにと口を開いた。


「この街で投宿している宿の帳簿を調べてもらっても構いませんわ。……アグナダ公国の侯爵様が何と言うお名前なのかは存じませんけれど、確かに私達は『グラント・バーリー』と言う名で泊まっておりますもの」


 ちっ……と短く舌打ちをして、私の喉へと食い込んでいたナトガの剣が離れていった。


「ゴードンの奴ぁ只じゃおかねぇ。こんなガセ情報流しやがって! ……大体、おかしいとは思ってたんだ。どこの国の『侯爵様』が、こんな貧相な貸し馬車に乗って出歩くってかよ……!!」


 ガンガンと腹立ち紛れに彼が座席を蹴る振動で馬車がグラグラ揺れた。

 不快な振動が伝わったのか、前方に繋がれた馬がブルルと嘶く。


「こんなくたびれた身なりの侯爵夫人なんていやしねぇよ……。大方カーテルナーのアホ同様、教会のお偉方に自分らの商品の売り込みに出かけた使いっ走りの小者商人だ」


 ナトガの吐き散らした唾が、私の直ぐ横に落ちた。

 クロスボウの男がモジャモジャの眉を寄せて唇を歪ませる。


「……こいつらはじゃあ、全くの人違いってぇ事なんすか?」

「そうなるな。バルドリーとバーリー……あの野郎、綴りを読み間違えたに違いねぇ。畜っ生が……あのボケ頭かち割ってやらねぇと気がすまねぇぞ……」


 馬車の扉前にいたシェムスの大きな体を押しのけて、ナトガが馬車から飛び降りる。

 車内から敵が去った事でなんとか危機を回避出来たか……と内心ほっとしかかった私の耳に、不穏な言葉が飛び込んできた。


「ナトガの兄貴。こいつら……始末しちまいやすか?」


 さっき一度全身から引いたはずの血の気が再びさっと引き、心臓が恐怖に鷲づかみされたように縮み上がった。

 耳を聾さんばかりだった鼓動が全く感じられなくなる。

 ……ああ…………グラント……っ。


「……面倒な事になるからよけいな殺生はすんじゃねぇ。……それよりマズイぞ。半金は前金で貰ってんだ、それを『失敗でした』なんて事になったら俺達の方がヤバいじゃねぇか。いらねぇ騒ぎを起こすよりゃ一刻も早くこの国からズラかった方が賢いかもしんねぇぞ……」


 ガサガサとしゃがれたナトガの言葉に、ノーダやクロスボウの男が苦々しげな表情ながら同意する。

 頬から血を滴らせたシェムスを後ろから突き飛ばすように乱暴に解放し、ノーダとクロスボウの男が馬を繋いであると思しき方向へ向けて去っていった。

 馬車に寄りかかるように身を支えるシェムスの足元に向け、ナトガが唾を吐く。


「立派な剣帯なんぞつけてるが、昔とかわらず甘っちょろいまんまで呆れたぜシェムス。命ばかりゃ助けてやるが、二度と武器なんか持たねぇこったな……!」


 そんな憎らしい捨て台詞を投げつけ、ナトガもその場から立ち去った……。


 激しい驚愕、恐怖、それに極度の興奮と言う感情の乱高下に見舞われた私は、彼等が去っていった方向へ首を向けたまま暫くの間身じろぎさえ出来ない情けない状態で座り込んでいた。

 もしかしたら腰が抜けてしまっていたのかもしれない。


「……お嬢様……お怪我はございませんか……?」


 シェムスが声を掛けてくれるまで、私はすっかり虚脱……いいえ、半分失神したようになっていたのだろう。

 だけど、私には怪我など一つもない。


「シェムスこそ……ああ酷いわ。血が出ていてよ」


 震える指先で私は手に持ったままだったバッグの中からハンカチを探そうとしたのだが、指が思うように動かずなかなか目的の物を探す事が出来なかった。

 そんな私を制してシェムスは自分の上着の隠しから白木綿のハンカチを出して頬の傷に当てる。


「お見苦しい顔をお見せして申し訳ありません。それに……私の昔の知り合いが、あんな酷い事をお嬢様や旦那様に……。謝っても謝りきれるような話じゃございませんです……」


 血の気も無く首を垂れるシェムスの打ちひしがれた様に、私は力の入らない体を何とか扉の方へといざらせ彼の肩に手を掛け言った。


「貴方が責任を感じるトコロじゃなくてよ。……貴方とあの人が知り合いだったからこそ、グラントの命は助かったのですもの。そうでしょう? 『嘘をつかない』貴方の言葉がなければ、あの場を切り抜けられた自信が……私には無いわ」


 嘘は方便と言うけれど、それすらも言えないシェムスの語った言葉だったからこそ、すんなりとナトガは信じたのだもの。


「お願いだから『辞める』なんて事を言ったりしないでねシェムス。……もしも貴方が辞めてしまっては、私は自分の馬鹿さ加減を一生許す事が出来なくなってよ。……剣帯はお洒落なベルトじゃないのよね。私ったら折角貴方が護衛役を買って出てくれているのに、往来で武装解除させるなんて馬鹿なこと無理やりさせてしまったんですもの……」


 心の底から反省しつつしょんぼり言う私に、シェムスは一瞬何か言いたそうな表情をしたが、何も言わずに小さく頭を下げた。


 どうせ彼のことだもの、もし剣を持っていても自分は弱いからとかなんとか言いたかったに違いないけど、私がしょげているのはそういう問題ではない事も分かってくれたに違いない。

 御者席へと戻って行くシェムスの後姿を見ながら、私はぼんやりと考える。

 ……グラヴィヴィスに続きシェムスはグラントの命も救ってくれたんだもの。何かお礼を考えなくては……。

 剣帯があるのだから、シェムスの手に合う剣と言うのもいいかもしれない……。


 ぼんやりとしている内に、膝の上に載せっぱなしだったバッグが座席の下にパサっと音を立てて落ちた。

 拾うのが面倒だ……と、ものぐさな事を思いつつ見下ろす自分の姿が、本当に酷くくたびれて見えることに気づいて私は苦笑する。

 皺だらけのドレスに、歪んで凹んだペチコートのせいでだらしの無いシルエットのスカート。よれて歪んだリボン。

 これでは確かに『侯爵夫人』になど見えるはずが無い。


 ……グラヴィヴィスのせいでこんな危ない事態に巻き込まれたのは事実だけれど、グラヴィヴィスのおかげで草臥れたこの姿で暴漢の目をくらますことが出来たのも事実だ。

 彼には感謝するべきなのか、それとも恨み言を言うべきなのか……。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ