柚子と茗荷
柚子と茗荷
年金の振込先を自分の口座へ変更してから、最初の日曜日が来た。紡は深緑色の作業着に麦わら帽子をかぶり、庭の日当たりを確かめながら歩いた。朝食に食べた焼き鮭と豆腐の味噌汁の匂いが、開けたままの台所の窓から流れていた。物干し竿では白いタオルが三枚揺れ、ハルが使っていた水玉模様の手拭いも、その隣で風を受けていた。
庭の南側には、工房の開設祝いにもらった柚子の苗木を植えることにした。冬でもよく日が当たり、雨の後にも水がたまりにくい場所だった。紡が移植ごてで穴を掘っていると、蓮が土の入った袋を抱えてやって来た。
「その穴では、少し浅いと思います」
「根が全部入ればいいんじゃないの?」
「根を曲げて押し込むより、広げて置けるくらいにしましょう。僕が掘りますか」
「掘るのは私がします。深さは、この棒に印をつけて教えてください」
「分かりました。作業するのは紡さんですからね」
蓮は木の棒に赤い印をつけ、必要な深さを示した。紡は穴へ棒を入れ、赤い線が地面と重なるまで少しずつ掘った。以前なら「もう少し深く」と言われても、どのくらいか分からないまま作業を続けていただろう。いまは自分に分かる方法を頼み、相手にも曖昧な指示をさせなかった。
掘り上げた土には、燻炭、よく熟した雑草堆肥、腐葉土を混ぜ込んだ。燻炭は黒く軽く、指でつまむと乾いた音を立てた。雑草堆肥と腐葉土には森の地面に似た匂いがあり、混ぜるたびに土の色が濃くなった。
「おばあちゃんは、雑草も捨てなかったね」
「庭の隅に積んでいました。僕は最初、片づけていないだけだと思っていました」
「土に戻していたんだよ。いらない草じゃなくて、次の苗を育てる土だったの」
「ハルさんには、まだ教わることがありますね」
「私にもあります。分からなくなったら、庭を見ます」
紡は柚子の苗木を黒い鉢から抜き、固まった根を指で優しくほぐした。葉を擦ると、青く酸っぱい香りが指先へ残った。苗木を穴の中央へ置き、蓮に幹が傾いていないか見てもらいながら、混ぜ合わせた土を根の周りへ戻した。
「実がなるまで、何年かかる?」
「接ぎ木の苗なら、数年で実るかもしれません」
「数年なら待てます。すぐにできないことが、悪いことではないから」
「最初の実がなったら、何を作りますか」
「柚子湯と柚子味噌。たくさん実ったら、喫茶室のお茶にも入れます」
「一個目はどうします?」
「みんなで匂いを嗅いでから、食べ方を決めます。一人で黙って取らないようにします」
二人は土の上へ藁を薄く敷き、じょうろで水をかけた。水を吸った土は黒くなり、苗木の細い幹が朝日を受けていた。紡は栽培表へ黄色い丸と青い水滴を記し、植えた日付はアイザックに入力してもらった。
午後には、柿の木の近くへ茗荷を植えた。そこは朝に少しだけ光が入り、昼を過ぎると柿の葉が地面へ影を落とす半日陰だった。土は柔らかく湿り、鍬を入れるたび、落ち葉と土の濃い匂いが立ち上った。
「茗荷は、どうしてここなの?」
工房で働く松田が、洗った軍手を物干し竿へ掛けながら尋ねた。紡は自分の栽培表を開き、青と緑で塗った場所を指した。青は湿り気が残る土、緑は午後に日陰になる場所を表していた。
「茗荷は強い日差しより、少し暗くて湿ったところが好きなんです」
「柚子とは反対ですね」
「同じ庭でも、合う場所は違います。日なたで元気になれないからって、茗荷が悪いわけじゃありません」
「私も立ち仕事は苦手だけど、苗の袋詰めなら長くできます」
「できる場所で働けばいいんです。疲れたら、我慢しないで休憩の印を出してください」
「休んだら、ほかの人に迷惑をかけませんか」
「無理をして倒れたら、もっと長く休むことになります。私も、分からないときはアイザックやみんなに頼んでいます」
紡と松田は茗荷の地下茎を横向きに並べ、芽を傷つけないよう土をかぶせた。紡がじょうろで水をかけると、乾いていた場所から順番に土の色が変わった。松田は使った鍬と移植ごてを洗い、蓮は空になった土の袋を小さく畳んだ。
仕事を終えた三人は、縁側で麦茶と塩むすびを食べた。おにぎりは紡が握ったため、大きさが少しずつ違っていた。紡は笊ごと二人の前へ出し、食べたいものを選ぶよう勧めた。
「私は一番小さいので十分です」
「僕は大きいのをもらってもいいですか。朝から穴掘りを見守って、おなかがすきました」
「見守っただけでしょう」
「深さの印もつけました」
「それなら、大きいのをどうぞ。私は真ん中にします」
おにぎりを食べ終えると、松田と蓮は工房へ戻った。紡は食器を台所へ運び、冷めた味噌汁を鍋へ移して夕食に温め直すことにした。暮らしの仕事を一つ終えてから、もう一度じょうろへ水を入れ、夕方の庭へ出た。
ハルの椅子には、新しい水玉模様の座布団が置かれていた。その横には、昔から使っていた縁の欠けた湯飲みが一つ載っている。紡は湯飲みを捨てず、かといって毎日お茶を入れて待つこともしなかった。ハルがもう帰ってこないことと、教わったことが庭に残っていることは、どちらも紡の中に並んでいた。
柚子の苗木は、南側の日を浴びて細い影を落としていた。柿の木の下では、植えたばかりの茗荷が土の中に隠れ、地上からは何も見えない。それでも紡は、どこへ何を植えたかを自分の記録表で確かめられた。
「おばあちゃんなら、柚子は南でいいって言うかな」
紡は椅子の横へしゃがみ、土のついた指で水玉模様の座布団を撫でた。返事は聞こえなかったが、以前のように、分からないことをすべて誰かに決めてもらう必要はなかった。植物の様子を見て、間違えたら植え替え、助けが必要なら自分で相手を選べばよかった。
「茗荷が出たら、甘酢漬けを作ります。柚子が実ったら、みんなで分けます」
庭の外から、工房を閉める松田の声が聞こえた。蓮は明日の設計打ち合わせの時刻を確認し、紡の返事を待ってから帰っていった。台所の机には自分で管理する通帳があり、端末には相談できる人たちの連絡先が入っていた。
紡は柚子の葉へ触れ、指についた香りを嗅いだ。次に柿の木の下へ移り、茗荷を植えた土が乾いていないか確かめた。日なたを好む柚子にも、半日陰を好む茗荷にも、それぞれが育てる場所が用意されていた。
「おばあちゃん、ありがとう。わたしはしあわせです」
紡はハルの椅子に手を置き、しばらく自分の庭を見渡した。すぐに実をつけるものもあれば、土の中で季節を待つものもある。人も植物も同じ場所へ並べる必要はなく、それぞれに必要な光と助けがあれば育っていける。
紡は空になったじょうろへ水をくみ、明日使う道具を物置へ戻した。ハルから受け継いだ庭で、紡はもう誰かに値段をつけられるのではなく、自分で選んだ人たちと、自分の暮らしを育てていた。




