7 彼女の顔にうっすらと汗が浮かんでいる
手際の良さ。お仕事の大事な要素ですね。
アツアツが美味しいラーメンをモタモタ作れば、そりゃマズくもなります。
ただ、手際というのは、それだけではないのですよ。
俺はいつも通り、単行本を開く。
ここのラーメンは、出来るのに時間が掛かるのは充分承知の事だ。
だから、麺が伸びて不味くなるのである。
まあ、あの親父だから、仕方ないけど…
「失礼します」
彼女が、俺の脇からソッと手を伸ばしてきた。
「えっ、な、なに?」
ふわっと漂う女性の香りに、俺は内心ビビッた。
「す、すみませんっ! カウンター、まだお拭きしていなかったので…」
席についてから、カウンターを拭くもなにもないし。
来々軒で、こんなサービスを受けたなど今まで無かったのだ。
それに、拭いてない、といっても、十二分に磨き上げられている。
それでも彼女は。
目の前で、腕を伸ばしながら、一心不乱にカウンターを拭き始めた。
宮大工がカンナでもかけるみたいに、真剣な、丁寧な拭き方だった。
そのうちカウンターが削れるのではないかと思ううちに、彼女はソロッと手を引っ込める。
チラッと見ると、彼女の顔にうっすらと汗が浮かんでいる。
フウっ、とため息を突いた彼女の息が、また店内の温度を少しだけ上げていた。
そのまま目の前からいなくなった、と思ったら、再び俺の視界の陰から現れる。
「どうぞ」
水の入ったコップが、小さな音を立てて俺の前に置かれる。
「あ、ドウモ…」
考えて見れば、来々軒に来て水のコップを出されたのはこれが初めてだ。
あの親父が、そんな愛想を振りまくはずも無い。
水は、セルフで勝手に汲んで飲むしかないのだ。
コップに触ってみると、ヒヤッと冷たい。
もしかして、グラスを冷蔵庫で冷やしているらしい。
店内の温かい温度に、この冷たさは嬉しい。
澄んだ透明な氷が二つ、グラスに浮かんでいる。
飲んでみると、キリッと冷えた水が、またなんともウマイ。
何となく視線を感じて顔を上げると、彼女が小上がりのテーブルを一心不乱に拭き上げている所だった。
さっきまでこっちを見ていたような気がしたのだが。
いかにも、そんな事していないというように、仕事に励んでいる。
その彼女が、慣れた手つきで布巾を畳んだ。
そのまま調理場に近づく。
同時に、親父が調理場からドンブリを差し出した。
「れんげちゃん、味噌ラーメン一丁上ガリっ!」
「ハアァイ!」
親父の、無理やり絞り上げたような掛け声。
彼女の、聞いている者を元気にさせるような可愛い声。
でも、息が合っているかのように、れんげと呼ばれた彼女はドンブリを受け取る。
そのまま、湯気の立ったラーメンを、俺の所まで運んできた。
「お待ちどうさまでした。ごゆっくりどうぞ」
「あ、ああ…」
速い。
作るのが、速くなっている。
俺が「れんげちゃん」の仕事ぶりに気を取られていたのも事実だが。
それにしても、手際が良くなっている。
親父、いったい何があったんだ?
客が席に付いてから、カウンターを拭きあげ始める。
普通の飲食店は、こんな事しませんね。
もちろん、わざとですね。
れんげちゃんは、そうやって、お客の様子を伺っているんですね。




