第34話 全面戦争9
「ねぇ、尚仁さん。この子の名前はなんにしましょうか」
大きく膨らんだお腹を撫でながら、女性が穏やかに問いかける。
「ああ、それはもう決めてあるんだ。旅人、このこの名前は嵐山 度人だよ」
達観したような目を持った男が、穏やかに応えた。
◇
当時、尚仁はギルドのホープとしてその名を馳せていた。その泡沫は加重であり、彼の目の前では万物が地に伏せる。
対象を傷つけることがなく即座に捕縛できるその能力はギルドの実行部隊に重宝されていた。
「なあ、尚仁。この仕事が終わったら久々に飲みに行こうぜ」
そういって馴れ馴れしく肩に手を回すのは尚仁の同僚、アラキ ケンジ。
「そういうのは仕事が終わってからにしろ」
それは護家ネズミの要人警護中であり、煩わしそうに尚仁はあしらった。
とはいえその表情は決して悪いものではなく、彼らの関係が窺い知れる。
「にしても、天辺臨済教だっけか。まさかこんな怪しい宗教の教祖の護衛をすることになるとはな」
「お前、それ依頼主の前では絶対に言うなよ」
「へっ、そのくらいは弁えてらァ」
軽口を叩きながらの警備だが、その意識に弛緩はない。それを示すように彼らの目の前を通った一人の男が崩れ落ちる。
「なっ、なぜだっ!」
「おい、その懐の物はなんだ?」
這い蹲る男に尚仁が近寄った。
その男の懐から見えるのは鈍色に輝くペティナイフ。
「ひゅーっやるね。さすが常勝無敗のアラシヤマ」
「うるさい、黙れ」
彼らの平穏は永らく続くかと思われた。
その日の晩までは。
◇
――クチャ、クチャ。
『ヴぁ……ぅぁ』
夜更け過ぎ。別件で持ち場を外していた尚仁が戻ってくると――それは四つん這いで呻いていた。
――クチャ、クチャ。
『ダォォ、ギ、ド』
それは、肉塊の羽を背中に生やしていた。
――クチャ、クチャ。
『なぉ、び、どぉ』
それは、人の血肉を貪っていた。
――クチャ、クチャ。
『なお、び、どぉ』
それは、友人の顔を持っていた。
「くくっ、どうです?君の友人を使わせてもらいました。綺麗な栄光へと変貌してます。美しいでしょう?」
ふてぶてしい教祖が、愉しげに表情を歪ませる。
「なに、なになに、なな、なに」
言葉が出てこなかった。
悍ましく、痛ましい。
とっくの昔に壊れたはずの心が更に悲鳴をあげる。
「なに、君の友人は世界に繋がる鍵になるのですよ。この経典の通りにね」
その男は一冊の分厚い本を握っていた。
より一層声色を低くした教祖は、仰々しく言葉を続ける。
「黒衣の王の顕現、経典曰くそれに必要なのは九のセフィラ」
暗闇に慣れた目で辺りを見回すとそこには檻に入った八人の人々。
暴れることもせず、泣く事もせず、虚無を見つめて座っている。
そんな異常な光景を当たり前のように飲み込み、悠々と言葉をつむぎながら一歩一歩と尚仁に歩み寄る。
「そして、それを集めた時。そこには第十のセフィラが顕現する」
その時、知らないモノが耳元に触れる。
混ざり切ってない冷水と熱湯のような、気もちの悪いぬるさ。
「そのセフィラの名は王冠」
それが、耳の穴から入ってくるのを感じた。
ゾクゾクと耳の穴を侵し、喉を侵し、脳を侵し、肺を侵し、手を侵し、足を侵し――泡沫を侵す。
作り替えられる。
アラシヤマ ナオヒトの根源が。
泡沫とは心であった。
壊れて動かなくなって、その果てにある心であった。
それが、ツクリカエラレル。
心は歪み、記憶は残り、嵐山 尚仁と侵入者が混じる。
「その名が表すように、それは王冠だ。黒衣の王足るものを見極め、その命を持ってして王を祀る王冠」
泡沫が黒く濁る。
「そして、お前を私が殺した時。その王冠は私の頭に乗る事となる」
思考が定まらず。
身体が動かず、ただ理解できない現状のみが濁流のように脳に入ってくる。
「苦労したよ。この状況を作るためにわざわざギルドとツテを持って、お互いの信用を得た上で依頼をかけたのだから」
教祖はその手に持った剣をナオヒトの胸にそっと添えた。
「さらば、支配の適性を持つ泡沫持ちよ。王への贄としてその命を持って王冠となせ」
胸元に吸い込まれる金属は、その命を奪わんと冷たく心の臓に突き刺さる。
刃の抜かれた胸元からは噴水のように血しぶきが上がる。
――そして、それは世界の理をもってして拒まれる。
「ダメだ。お前には資格がない」
死んだはずだった。
その心臓を貫いたはずだった。
「な、なぜだぁっ!経典通りならばお前を殺せば王になれるはずだぁっ」
いつの間にか抜け落ちた剣と、傷のないナオヒト。
喚く教祖に、ナオヒトに対して頭を垂れるアラキだったもの。
その周囲の檻の中にいた人々も自然とナオヒトに頭を垂れる。
——そしてそれは、賛美歌のようであった。
鈴々と、祝福されるように。ナオヒト自身の泡沫とナニカノの泡沫擦れ合い、鈴のような音色が奏でられた。
「言ったはずだ、資格がないのだよ」
口調も変わり、据えた視線で教祖を射抜く。
「王になるには素質が必要だ。それがあれば私を殺せたし、王冠も貴様のその頭の上に乗ったことだろう」
怯え、震え、立つこともままらない教祖の頭にそっとその右手を置く。
そして反対の手を檻へ向けた。
「慈悲よ。こちらへ」
突如顕現した剣により、牢のひとつが切り破られる。
そして、そこから出てきた廃人のような男がナオヒトの左手に収まった。
「嗚呼、見窄らしい。嗚呼、嘆かわしい。慈悲を司る汝には。その貧しさは似合わない」
鈴々となる泡沫の音は徐々にその壮大さを増す。
異なる音域の楽器が重なり合えば帯域が広がるように、様々な音が重なっていく。
歯切れのいいその音は世界そのものを揺らすように大きくなっていく。
「だから、王冠の権能を持って汝を正そう。愚か者の精神を持ってして、その慈悲の贄となそう」
教祖の精神を、引き抜いた。
不定形の青紫のそれを、廃人となった男へと入れ直す。
教祖と男が混じる。
ナオヒトとナニカが混じったように、精神と精神が混ざり合う。
「気分はどうだ?新たなる慈悲よ」
翼のように顕現する剣。それと共にナオヒトへと頭を垂れる。
「好調のようです、ネ?」
「顔を上げよ。ふむ、精神が安定してないな。世界への定着がまだ弱いか」
——ならば、お前に名を与えよう。
——『ヴラド・ツェペシュ』と。




