母親
「お父、さん……」
絶句して立ち尽くす拓人を見て、父親は眉根を寄せる。 辺りをゆっくり見回し、口を開く。
「加奈子は、どこだ?」
ぶっきらぼうに言う父親に、拓人はしぶしぶと答えた。
「………回覧板持ってった」
「そうか」
軽くため息をつく父親を見て拓人は何を抜けぬけと、と思った。 加奈子と自分を捨てた男がどうして今更会いに来たのか、と。 普段は温厚な拓人も怒っていた。
「拓人ー?」
パタパタとスリッパの音を立てて来たおばあちゃんを見て、父親は軽く頭を下げた。 振り向いてみるとおばあちゃんは唇を引き締めている。
「上がったらどうですか」
いつもとは違う、とげの入った声。 本当は入れたくないのだろう。 そんな滅多にないおばあちゃんの姿に驚きつつ、大人とは嫌な相手も家に上げなくてはならないのか、と思った
「ああ、ありがとうございます」
そう頭を下げると父親は靴を脱いで家に上がる。 呆然とする拓人を置いて、おばあちゃんは客間に案内する。 襖を閉めるとおばあちゃんは拓人の前にやってきて囁いた。
「拓人、おばあちゃんとお母さんとで話すから、お前はいつも寝ている部屋に行きなさい」
そう話すおばあちゃんの顔はいつになく真剣だった。 何も言わずに頷くと、おばあちゃんは気休めのような笑みを浮かべて、拓人の頭に手をポンと置いた。
「いい子に待っているんだよ」
―――あの人が来た。
私はそのことを母さんから聞いて愕然とした。 どうして、今更来るの?
回覧板を渡し終え、うちに帰ってきた途端に母さんに台所まで連れて行かれ、そこで聞かされた。
「とにかく、あの人はお前と話したいそうだよ、拓人のことで」
母さんは真剣な口調で言った。 どうせあの人がいる客間には声は聞こえないだろうが、母さんはコソコソと言った。
「どうせ親権のことだわ。 あの人は拓人を奪いに来たのよ!」
私は少しヒステリック気味に答える。 対して母さんは冷静だ。
「そうだろうね、だからこそ渡さないんだよ。 いいかい、加奈子」
母さんは震える私の肩をつかみ、きっぱりとした口調で言った。
「加奈子、あの子はとてもいい子だ。 あんな、お前を捨てた男にやれる子じゃないんだ」
そうきっぱりという母さんの瞳を見据えて、私は力強く頷いた。
(そうよ、あの子をやるわけには行かない。 私はあの子の母親なんだから)
「何の、用で来たの」
そう切り出す私の声は思っていた以上にか細い。
彼は私と机をはさんだ正面にいて、母さんは私の横に寄り添うように座っている。 本当は母さんにすがりたい、だけど今の状況はそれを許してくれるほど生易しいものじゃない。
「拓人のことで来たんだ。 お前、こんな危険なところに拓人を連れてきて、どういうつもりだ?」
彼は咎めるように言った。 私は危険なところ、という彼の言葉に言葉が詰まったが、引くわけには行かない。
「別に。 あなたが私達を捨てたから。 私達がどこに行こうと勝手でしょう?」
露骨な嫌味で返す。 彼の表情には動揺が感じられない。 彼は軽くため息をついた。
「俺は、拓人をここから連れて行こうと思う。 こんなところにいさせておけない」
「どうして?」
「向こうもいいって言ってくれたんだ。 東京のほうがいろいろと便利だし、なにより拓人が今までの学校に通えるだろう」
拓人はまだ転校手続きを済ませていなかった。 母さんの強い薦めもあって、いろいろな手続きより一旦休むことを優先したのだ。 転校させるか否か、ここで考えればいい。 母さんはそう言ってくれた。
「拓人の意思は、どうするんです?」
母さんが口を挟む。
「あなたがここに来た時の様子をちゃんと見ていました? あの子、固まっていましたが」
「それは私が来たことに驚いているだけでしょう。 もちろんあの子の意思は尊重したいですが、あの子はまだ混乱しています。 今、我々が何を聞いても無駄でしょう」
母さんには丁寧な口調で答える。 私はそんな彼の態度に言い知れぬ怒りを抱いて言う。
「混乱を抱かせたのはあなたの行動です。 私はそんなあなたに拓人を渡したくはありません」
そういうと、彼は嫌味っぽく聞いてくる。 挑戦的な目で。
「その理由は?」
私はさっきの言い知れぬ怒りの意味をそのとき理解した。 そしてきっぱりと告げる。
「拓人を、あなたのような人間にしたくはないからです」
私がそう告げたあと、客間に沈黙が下りた。 母さんの視線を感じるが、私は彼から目線を外さない。
ここで目をそらしたら、負けてしまう気がした。
「そうか」
もう十数秒沈黙が続いたところで、彼は深い溜息と共に立ち上がった。
「君がそういう姿勢なのは分かった。 拓人にどちらがいいか聞いてみたいところだが、今のあの子では混乱してしまうだけだろう。 また後日お邪魔します」
最後の部分は母さんに、そこだけは丁寧に言った。
拓人はすでに混乱していた。
(どうして、今更…)
自分達のものが置いてある部屋に入って、ドアを閉めて。
(僕たちはいらないん、でしょ……?)
そう思ったところで、膝から力が抜けてへなへなと座り込んでしまった。 父親が出て行ってしまってからの、数ヶ月間を思い出す。
いつもいた、いるはずの父親がいない。 焦燥感。 悲しげに微笑む加奈子の姿。 父親の荷物が彼の部屋から消え始め、ようやくやってくる実感。
そんな日々を思い出して、思わず嗚咽が出てくる。
「う……、うう……」
気が付けば頬を伝っていた涙に気付いて、ゴシゴシと擦った。 ついでにこみ上げてくる嗚咽を隠そうとする。
「う……、ううう……」
それでも、隠せない。
いつそのこと、大泣きしてやろうかと思った。 そのとき、
「拓人ごめんね、一人にさせちゃって」
ようやく元気になり始めた、今朝まで見ていた表情を浮かべた加奈子が入ってきた。
(お母さんは―――泣いてない)
一番辛いのは、加奈子のはずなのに。 加奈子は泣いている拓人を見て、拓人の前にしゃがみこんで、視線を合わせた。
「今日は、花火でもしよっか」
柔らかく、楽しげに加奈子は笑って。 だから、拓人も涙をさっきより乱暴に拭いた。 それをみて、加奈子が笑った気がした。
(お母さんを、楽にさせてあげなきゃ)
それをみて、拓人は強く思った。
(お母さんを、無理させちゃいけない。 お母さんは、元の生活に戻らなくちゃいけないんだ)




