幕間②図書館と矢木咬先生
癒希がレベルアップする話の第2回です。
よろしくお願い致します。
鎌谷家は両親とその子供たちの4人家族だった。
至上の幸福のなかにいたというわけではなかったが、最悪の不幸に見舞われてもいない。つまりは普通の家庭だった。そんな彼らに大変な不幸が降りかかったのは、日織が12歳の時だった。
『両親が事業に失敗』
そのため、兄と日織は貧しい生活を余儀なくされた。
聞き分けが良すぎると心配されるほどのいい子だった日織は図書館でそれなりに過ごすことができたようだが、奔放気味な兄は貧しい生活に不満と怒りを感じており、次第に心を荒ませていった。
そして問題のあるグループと付き合うようになり、ついに高校3年生の夏――彼は取り返しのつかない過ちを犯し、その逃走中に交通事故を起こしてこの世を去った。罪のない歩行者を道連れという、最悪の不幸を遺して。
悪事千里を走るの諺どおり、そのニュースが報道された瞬間、鎌谷家が住む地域は彼らにとって、まさに針の筵と化した。日織が通う中学校も例外ではなく、報道から1週間もすると彼女は登校すらできなくなり、図書館に籠もる生活を送るようになった。
そして読書――物語の世界へとのめり込んでいった。罵声や石を投げつけてくることもなく、とても温かい。本は人間性に溢れていた。それから数年後、日織は高等学校を介さない方法で大学に進むと苗字を矢木咬へと変え、独り暮らしを始めた。
舞台は市営の図書館から大学の図書館へと移ったものの、独りで過ごすという、以前と変わらない日々を送り――卒業後は教師という道を選んだ。が、彼女はそれからも独りの道を歩み続けた。
『知識と知恵さえあれば独りで生きていける』
人に裏切られ、追い立てられて育った日織にとっての人生哲学だった。
そして本には人の知識と知恵、さらには経験や感情までが記されているのだから、本とは人である――なにより絶対に裏切らない。つまりは最高の隣人であり完璧な友人、理想の家族。そんな彼らが無数に集う図書館は日織にとって理想郷だった。
ではなぜ――
・
・
釈放された日の晩である。
図書館の屋根を大粒の雨が叩く。その音をBGMに、日織は貸出カウンターで物憂げな顔をしていた。高価とは言えない椅子に背中を預け、そして疲れ切った様子で嘆息する――彼女の手には缶コーヒー。頭の中にはあの日の出来事。
『ピアスくらいで怒んないでくださいよ。人を殺したわけじゃないんすから。ひおちゃん』
派手なピアスを指摘されたその生徒は、矢木咬先生の厳しい視線に気圧されつつもそう切り返した。
ひおちゃん。それは普通だった頃の兄が妹を呼ぶ際に使っていた愛称だった。
あの事件後、兄の卒業文集がインターネットに流出したのは知っていたが、10年以上も昔のことである――目の前の少年はチーズとスポンジの区別もつかない年齢だっただろう。
そんな彼ですら、あの事件を知っている。この話が誰かに漏れようものなら、長い苦難の末にようやく掴んだ平穏が瞬時に破壊されてしまう。
『過去からは逃げられない』
物語ではよく見かける文言であるが、現実もそうであるらしい――日織は絶句した。
最低の不幸のなかで這いずるように生き、苗字まで変えてなお、過去は飽きずに追いかけてくる。絶対に逃げ切れない――そう認識した瞬間、日織の導火線に火がつき、そして積もりに積もった怒りという火薬が大爆発を起こした。
『――――!!!!!!!!!!』
その時に自分がどういった言葉を以って怒鳴りつけたのかを日織自身は覚えていなかったが、件の生徒はしんと静まり返った廊下に尻もちを突いた状態でがたがたと震えていた。
彼にしてみれば舐めるなよなどと気取ってみたかっただけかもしれないが、それこそ人間を舐めている証拠に他ならない。他者の過去を悪戯に掘り返すことが、どれほど恐ろしいかということを思い知ったのだろう――彼が事件のことを周囲に漏らすことはなく、翌日にはピアス穴もきれいに塞がれていた。が、あのことを知っている生徒が他にもいるかも知れない。
別の世界にでも行かない限り、過去からは逃げられない――そういうわけで。
『この世界に来れてよかった』
それが矢木咬日織の本音だった。
生徒たちの不幸が起因となってはいるが、あのまま天に召されるよりは救いがあるだろう――そう納得しつつ、日織は缶コーヒーに再び口をつけ、それから辺りを見回した。
黒百合図書館。鎌谷日織だった頃に通い詰めた図書館であり、それを任意の建物に再現するのが彼女の能力である。災害時の避難先として設計されていたらしく、この図書館には生活に困らない程度の設備――宿泊部屋や自動販売機コーナー、トイレなど――が揃っていた。
建物自体は日織が中学生時代のものを再現しているため、蛍光灯が使われている。それが玉に瑕ではあるが、日織は郷愁を感じられるという長所と捉えているようだった。
そして電力や水などはどこからか供給されている――彼女はここで誰とも関わらずに過ごすことができるということである。が、彼女の表情は晴れない。飾り気のない唇からこぼれるのは嘆息だった。
その原因は再会した教え子――比良坂癒希である。服装からして神官なのだろうが、彼は信仰心とは無縁の生活を送ってきたはずであり、つまりは歪な状況にいる。本来であれば、教師である日織が保護しなくてはならない――のだが。
(彼もあの事件のことを知っているかもと思うと……)
こっちへ来なさいと、法衣の袖を引っ張る気にはなれないようだった。
異なる世界との予期せぬ邂逅。それは過去との関係を断つことができた幸運であり、そして仕事に追われず、ただ読書に耽ることができるという幸せでもある。この安寧を奪われかねない。
知識と知恵さえあれば独りで生きていける――その人生哲学を貫くべきだろう。が。
ではなぜ――
(人々にこの施設を解放しているのでしょうか?)
先ほどよりも深い嘆息の後、日織は細い眉を顰めた。
然るべき機関に化学関係の本でも売り渡せば、門――シャッターだが――を閉じ、死ぬまで独りで過ごせるはずであるが、日織はなぜかそうしない。
その理由を探ろうと目を閉じてみれば、脳裏にはディナの笑顔が思い浮かんだ。少し前に路地裏で出会った時は、地べたに座り込んで野犬のように睨みつけてきた少女が、今では無邪気に笑いかけてくる。それを見ると幸せを感じる。
飛びついて来るのは困りものだが――それはさておき、日織はこの“黒百合図書館”を貧しい人々に開放し、読書と生きる喜びを与えている。これは国語教師としての活動と呼べるだろう。そうであるのなら。
(比良坂さんも招いてみるべきなのでしょうね……)
自身の過去だけを理由に生徒である癒希を遠ざけていては、教師の名折れというものである。
そして彼も女神――を自称する女性から能力を与えられているのだろうが、一人前としては足りないものがたくさんある。教育が必要なのは間違いない。もちろん、それを――時に厳しく――執り行う者。教師も必要である。つまりは矢木咬先生が。だが。
(それでも……)
日織は顔をぶんぶんと左右に振った。
苦難によって形作られた人生哲学は、深々と彼女の心に突き刺さっているようだった。
と――
どんどんっ!
「――っ!」
唐突に鈍い音が響き渡り、日織はコーヒーを噴き出しかけた。
昼間の襲撃事件のことが頭によぎったのだろう。彼女はなんとか冷静さを取り戻して椅子に座り直すと、パソコンのディスプレイを点灯させた。マウスを操作しつつ――雲の上で出会った女性のことを思い出す。
『本物の女神だから! |閉館時絶対無敵完璧防御機構をサービスしちゃう! 本物の女神だ・か・ら!』
能力を授かる時、破廉恥な衣装を着たその女性は眉をこれでもかと釣り上げ、さらに顔まで赤くしてそう言い放ってきた。
服装と言動に関する何点かを根拠に、女神という自称に対して疑問を呈しただけなのだが――それはさておき、ディスプレイにはシャッター上部に設置された防犯カメラからの映像が映し出されている。その中央には、よく見覚えのある少女の姿――
「ディナさん?」
彼女は落ち着かない様子で周囲を見回しており、さらにずぶ濡れである。
この世界の傘は高価だが、それなら雨がやんでから訪ねてくればいい――それを許さない事情があるということだろう。
日織は椅子から飛び降りるとシャッターまで走り、自分の背丈ほど開けた。
そしてずぶ濡れのディナ。彼女の手を引いて図書館に招き入れた――瞬間。
「いひ♡ センセー!」
「きゃ――!?」
猛獣のような勢いで飛びつかれ、床に押し倒されてしまった。
さらにディナは両腕ごと日織を抱きしめ、人間離れした膂力で彼女のあばら骨を軋ませる――
ぎぎぎっ!
「ディ……ディナさ……」
「いひひひ♡」
肺が強烈に圧迫される感触。それにぞっとしつつも日織はなんとか呼びかけた。が、返って来たのは狂喜の笑顔。更に狂う。
「いーひひひひひひひひひひひひひひ!」
「――ら、理想の図書館員!」
振り絞るような召喚の声が館内に木霊し、それに理想の友人たち――つまりは何十冊という本が応えた。
ばらばらばらっ!
彼らは本棚から飛び出すや否や、日織のそばで人の背丈ほどの竜巻となり、次いで積み重なって人に似た姿をとった。
理想の図書館員。それは本で形成された図書館員であり、図書館の秩序を保つためだけのものである。が、逆に言うと、それを乱す者には容赦なくお声がけする――
『図書館内デハ、ドウカ! オ静カニ願イマス!』
「いひ!?」
ディナは容赦なく日織から引き剥がされ、さらに容赦なく羽交い締めに拘束された。ようやく解放された日織はリノリウムの床に倒れ込んだ状態で数回も咳き込み――それから視線をディナへと向ければ、彼女の笑みは凶悪の度合いを増していた。唇の端には泡すら見られる。
「正気を失ってるのですか……? まさか――!」
噂に聞く薬物――図書館の利用者たちから聞かされたことを思い出した時、理想の図書館員の両手を力任せに振り払い、ディナが再び日織へと襲いかかった。
「いーっひひひひひいいいいいい♡」
『司書ヘノ過剰ナ接触ハ! 御遠慮クダサイ!』
ライブラリアンも振り払われた手を痛そうに擦ってはおらず、そこそこの俊敏性を発揮してディナの後ろ髪を引っ掴んだ――そのおかげで狂気の指先は日織の眼鏡の1センチメートル手前で止まった。が、直後、ディナは自身の上着を破り捨てるように脱ぎ捨てた。
露わになったのは、まあそこそこの乙女の双丘――そしてそれらの真ん中に張り付いたガラス製の小瓶だった。中には小さな火球が赤々と輝いている。国語が専門とはいえ、日織にもそれがなにかは理解できた。
「それを――」
ディナさんから奪い取って遠くに投げ捨てなさい。その悲鳴じみた指示の声を大爆発がかき消す。
きゅぼっ!
赤い閃光が蛍光灯の何倍もの光量で館内を焦がし、それと同時にあちらこちらで火の手が上がった。炎は次々と本棚に燃え移り、あっという間に周囲を紅蓮の園に変えてしまった。
そして爆発の中心にいた日織が目を開くと――彼女の眼前には理想の図書館員の背中。盾になってくれたのだろう。が、礼を言う暇もなく、図書館員は床に崩れ落ちて大きめの焚き火と化した。さらに。
「いひひひひひひ!?」
「なんてこと――!」
全身に炎をまとったディナが床を転げ回っている。爆発の中心どころか、そのものさえと呼べる状況にいたのだから当然だが――それはさておき、日織は貸出カウンターまで走ると消火器を手に取り、安全ピンを抜き放った。
教師として赴任した際に行われた消火訓練での手順を完璧に踏みつつ踵を返し、ノズルの先をディナへと向ける。
ぶしゅうううっ!
ディナを焼いていた炎は消火剤によってあっさりと鎮火されたものの、彼女の火傷が氷嚢で済むとは思えない。
そして消火活動の間に火災は館内全域に広がっていた。お説教をしている暇はないだろう。
(スプリンクラーは作動しているようですが……)
先ほど爆発した小瓶は自然の炎ではなさそうである。そうなると通常火災用のスプリンクラーは役に立たないかもしれない――日織は逃げ道を探して周囲を忙しなく見回し、その視線を高書架の上方にある窓で固定した。
書架をよじ登れば窓から逃げられる――
(私だけなら……)
奥歯など軋ませつつ床を見やれば、白い粉末にまみれたディナが日織の方へと手を伸ばしていた。虚ろな瞳には涙。
「…………た……たすけ……」
「見捨てるとでも!?」
日織は全身から煙をあげるディナに肩を貸して立ち上がらせ、なんとか高書架に這い上がらせようとした――
「きゃあああっ!?」
その時、天井の一部が崩落して彼女たちに降り注いだ。
目眩と激痛、そして目眩――日織はそれでも起き上がり、ディナを引きずって歩き始めた。が。
びゅううう……!
崩落した箇所から強風が吹き込み、館内を焼く炎が勢いを増した。その高熱で窓という窓が弾け飛び、強風は旋風となって炎を巨大な竜巻へと変貌させる――逃げ場は既になく、日織は歩くのもやっとの状態だった。そして炎は容赦しない。
ごおおおおおおおおおおっ!
「ああ……」
日織は崩れ落ちるように膝を突き、ディナを強く抱きしめた。
少女に意識がないことを祈り、そして諦念と共に床を見つめる――数秒後、理想郷に炎の竜巻が吹き荒れた。
不定期更新です。
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