110話 最終話
「お父さん、お母さん、それからお兄ちゃん。24年間お世話になりました」
そう言って深々と頭を下げて見せたのは式場に向かう朝、家を出る直前だった。玄関先でお気に入りの靴を履いてから家族の方に向き直り、感謝の気持ちを伝えた。
前の日の夜に用意した感謝を綴った手紙をひとりひとりに手渡して、「後で読んでね」と言う。父親など、もう既に涙腺が緩んできているようだ。こんな時の母はたくましく、「もう、こんなところで泣かさないでよ。お父さんの支度が遅れちゃうでしょ」と少しふざけて見せた。
流石既に一度嫁いだ経験を持つ者は違う。
「いつでも帰ってきていいからな」
「気持ちは嬉しいけど、出戻っては来ないよ」
父が去ろうとする娘を少しでも長く引きとめたくてそう言うが、もうこの家には今までのような形で戻って来ることはないだろう。
「じゃぁ……式場で、ね」
踵を返したほのかは山崎家の敷居を一歩またいで外に出た。
そして一瞬動きが止まるが再度振り返ることはなく、また何事もなかったかのように歩き出し、今日のために遠方はるばる来てくれた莉子が運転する車に乗って会場に出かけた。
心がぎゅっと締め付けられる感覚を抑え込みながら、助手席から友人に話しかける。
「今日はわざわざありがとうね、莉子」
「ブライズメイドとして当然のことでーす。どう? 昨夜はよく寝られた?」
「うーん。微妙かも」
「でしょうね」
そんな他愛もない話をしながら1時間近く車を走らせた東京都内の式場に着いた。
もう何度も足を運んだ場所だが、今日は全く違う雰囲気だ。グルームとブライドの入り口が分かれていて、お互いは式の中でようやく会える形になる。悠介は今日ほのかがどんなドレスを着ているのかなど、全くの初見になるのだ。
莉子や式場のスタッフに手伝ってもらいながら着々と準備が進められていく。
真っ白なドレス。
ロングではなく、膝までの短い丈で誂えられたフィッシュテールのドレスは、身軽なほのかの性格とよく合っていた。
完成したその姿を見ると、まるで魔法にでもかかったのか、そこには別人のような自分の姿が映っていた。
「綺麗よ、ほのか」
「ありがとう」
莉子が「会場の方の様子を見てくるから」と一旦部屋から離れると、そこには暫しの静寂が訪れた。
控室でほんわかと光が差し込む中、ほのかは静かにその時を待っていた。
そんな静寂を破ったのはコンコンと扉を叩く音で、それに対して「どうぞ」と返事を返した。扉は音もなく開いて、そこから姿を現したのは母のさや子だった。
その姿は黒留袖を身に付けて、慣れない和装で少し歩きにくそうだった。
母のさや子が傍にやって来てその顔をじっと見つめてから、すっかり綺麗になった我が娘の頬にそっと触れた。
ほのかが産まれてから今日までの日々を思い出しているのか、優しく微笑んでじっとその顔を見つめた。
一方のほのかも母の暖かな手に頬を包まれながら、色々な出来事を思い出す。
ここ数日間、実家に帰ってたくさんの話をしたというのにまだ語りきれていない思い出が次から次へと溢れてくる。
「あら、口紅は?」
「さっきまでお茶を飲んでたから……。最後に付けようと思ってたんだけど、お母さんが付けてくれる?」
「しょうがないな」と言いながら、どこか嬉しそうな顔つきで口紅を手に取り、バニティーバッグに入っている口紅筆を取り出した。
口紅の蓋を開けて、きゅっとひねると赤い芯が回転しながら顔を出した。だが、母のさや子はその色に驚いた。
「こんな紅い色を付けるの?」
「うん。私にはまだ似合わない色かも知れないけど、今日はそれを付けようって思ってたの」
色の白いほのかにはそこだけ浮いてしまいそうなほど紅い色をしている。
それをさや子が筆できれいに伸ばし、ふっくらとした唇に色を塗っていく。昔、化粧品メーカーで美容部員をしていただけあって、その手さばきは相変わらずだった。
色を付けて、ティッシュオフをしてという作業を2回繰り返した後、「出来たわよ」と言われ、鏡台に映る自分の顔を見た。
「全然似合わないや」
「似合わないことはないわ。見慣れてないだけよ」
自分では可笑しいと思ってしまうような口紅の色を選んだのには、ほのかなりの理由があった。
「小学校のときね、授業参観に来てくれたじゃない? その時に忙しい仕事の合間を縫って来てくれたんだけど、仕事柄他のお母さんたちより化粧が濃いって言ってバカにしてきた男の子がいたの。だけどね、私にとってはお母さんが一番綺麗で、かっこよくて、自慢だったから、そう言われたことが悔しくてさ」
その参観の後ほのかはその男の子に掴みかかって大喧嘩をしたほどだ。
「その時に他の誰も付けてなかったのに、お母さんだけ真っ赤な口紅を付けてたんだよ。それが印象的でさ、私もお母さんみたいに強い女の人になりたいと思ったの。だから、どれだけ似合わなくても恥ずかしくないよ」
するとさや子も鏡台の前に立って、持っていたほのかの筆で唇に弧を描いた。
「私はこんなに派手な色を付けた覚えはないけれどもね」
微笑むふたりの口元には、同じ彩で強い女たらしめていた。
室内に再度扉を開く音が響いて「入るよ」と莉子の声が聞こえた。中に入ってきた彼女はほのかの母に頭を下げてから会場の準備が整ったことを知らせた。
それを受けてほのかはすっと立ち上がる。そして母に向かい合った。
「じゃぁ、最後に下ろしてもらえる?」
ほんの少しだけ身を縮めると、母のさや子はほのかのウエディングベールにすっと手を伸ばした。それをするりと引くと、流れるように娘の顔を滑り、やがてすっかりその眼前を覆ってしまった。
それでいても赤い口元は良く映えていた。
「これで、お母さんのお仕事は終わりね……。とっても嬉しいし、とっても寂しいわ」
言いながら母の目は次第に潤んでくる。ほのかは態勢を戻してから一歩前に出て、母の体をきゅっと抱きしめた。それは子どもの頃に思っていたよりもずっと細くて華奢な体だった。昔からこんなに細かったのだろうか、それとも年を重ねて細くなったのだろうか。
スンと一度鼻をすすってから、「お母さん、今日までありがとう」と何とか言葉を出した。だけれども、何故だか声がかすれて上手く出せなかった。
さや子も声が出ないのか、ポンポンと背中を2回叩いただけで何も言わなかった。鼻をすする音だけがほのかの耳に届いた。
なんとか気持ちを落ち着かせたさや子は「さ、急ぎましょう」と娘を急かす。ほのかも部屋を出ると、母は先に会場に行っているとその場を離れていった。
長い廊下を歩いて、ようやく式場前の扉の前で待つ父の姿が見えた。莉子は手に持っていたブーケをほのかに手渡すと、「じゃあ、後でね」とその場を後にする。
残されたのはほのかと、父、そして忙しなく動いてくれている式場スタッフの3人だけだった。
「それではお父様、エスコートをよろしくお願いいたします」とスタッフに促されて腕を娘に差し出す。その動きはとてもぎこちなく、油を差していない接合部分だらけだ。腕を組んだならばこちらにまでその緊張が伝わってきそうである。
「もう、お父さん、緊張しすぎ」
「そうか……」
注意されて少し緊張の空気が抜けたのか、さっきよりも動きがスムーズになった。その父の腕に自分のものを回した。小さい頃軽々と自分を抱き上げていた腕だ。家族の大黒柱としてみんなを支えてくれていた腕でもある。
「それでは扉が開きます」
ほのかの緊張は一気に高まったかと思うと、目の前には祭壇に続くアイルが伸びている。
みんなが一斉にこちらを見ているのが目に映った。白い光に包まれたような感覚。みんなの拍手は聴こえているのにどことなく遠くで響いているようだ。自分が動かす手足も、どこかから降ってくる花びらも、すべてがスローモーションのように感じる。
一歩、また一歩とゆっくりバージンロードを歩くたび、父の手を放す時が近づいてくるのだった。やがて遠くに見えていた悠介の姿が手を伸ばせば届くところまで近づくと、今まで支えてくれていたその腕をそっと放した。そして最後にぎゅっと抱きしめて「お父さん、ありがとう」と言ってひとつ段を駆け上がり、悠介の腕ではなく、手を取ってぎゅっと握りしめた。
「すごく綺麗でびっくりした」
グレーのタキシードに身を包んだ悠介もまたいつもと全く違う雰囲気を見せていて、そこにはヨレた服を着ている彼は想像することはできない程だ。
「悠介も、すごく素敵でびっくりした」
◆◆◆
扉が開くと父に手をエスコートされながら姿を現した真っ白なほのかの姿が目に焼き付いた。
白いベールに包まれているため、遠くからではその細かい表情は読み取れないが、紅く浮かび上がっている唇は微笑んでいるように見えた。
一歩ずつ迷いのない足取りでゆっくりとこちらに向かって歩いてくるふたり。やがて目の前で立ち止まり、ほのかが自分の手を取った。
その時エスコートをしていた父と目が合った。その視線から悠介に対する強い信頼と、するりと離れていく娘に対する寂しさが混ざった複雑な表情をしていた。
それに対して強く頷くと、彼も不安げな表情を取り払い同じように首を縦に振った。
「ほのか、ありがとう」
ベールに覆われていた素顔を暴くと、いつものようなあどけなさが残る中に強い決意の表情が浮かび出ている。
「これから、よろしくお願いしますね」
「こちらこそよろしくお願いします」
◆◆◆
変な出会いから始まったふたりは、こうして同じ道を歩むことになったのだった。
END
最後まで読んで頂きましてどうもありがとうございました。
コンテスト参加用に始めた作品でしたが、ここまで長くなるとは当初思ってもいなかったので自分でも驚いています。
評価していただいた方、メッセージをくださった方、本当に励みになりました。ありがとうございました。




