第三章 『王立学院にて——強き心を』
舞台公演の余韻がまだ街に残るある晴れた午後。
アイリス・フォン・ローゼンフェルトたち五人は、母校である王立学院からの正式な招聘を受け、特別講義のために訪れていた。
「二年ぶりの学院……なんだか、微妙な気分ね」
正門をくぐりながら、ノエルが苦笑交じりに呟く。
「私たちが在学中に起きた事件は、今や教材ですから。歴史の授業でも取り上げられているとか」
クラリーチェが淡々と補足する。
エルザは懐かしく中庭の噴水を眺めていた。
「でも、今の私たちはちゃんと『卒業生代表』として呼ばれたんですよね。お漏らし令嬢としてじゃなく」
ミレイユが小さく息を吐く。
「……表向きはね。裏ではまだ、あの舞台のイメージとセットで見られているでしょうけど」
アイリスは一歩前に出て、皆を振り返った。
上品に仕立てられたネイビーのデイドレスに、真新しい絹の下着。
もう誰の視線にも、かつての惨めさは映らない自信を纏っている。
「いいのよ。今日は、その『イメージ』を使ってでも、伝えるべきことを伝えてくる。私たちが二度と繰り返したくないことを」
——特別講堂は、学院の令嬢たちで埋め尽くされていた。
主に十四歳から十八歳の上級生・下級生が混じり、ざわめきが満ちている。
壇上に並んだ五人の美しさに、まずどよめきが起きる。誰もが知る「あの事件」の当事者たち。
しかも今は、誰もが認める成人した淑女として、澄んだ眼差しでこちらを見下ろしている。
アイリスが代表して一歩前に出た。
「皆さん、本日はお招きいただきありがとうございます。私はアイリス・フォン・ローゼンフェルト。こちらはノエル、クラリーチェ、エルザ、そしてミレイユ。かつて、この学院で学び、そして——この王国を揺るがす災厄の中心に立たされた者たちです」
講堂が静まり返る。
アイリスは穏やかに、しかしはっきりと語り始めた。
婚約破棄から始まった一連の出来事。
魔眼の恐怖。
尊厳を奪われ、公衆の面前で失禁し、嘲られ、それでも立ち上がったこと。
聖女の力で呪いを祓い、後遺症を乗り越え、今は聖堂院で後進を支える立場になったこと。
「私たちが一番伝えたかったのは、『弱さ』そのものではありません。弱さを認め、それでも強くあろうとする意志です。恐怖に晒されたとき、心が折れて身体まで漏らしてしまう——それは決して珍しいことではない。事実、私たちは何度もそうなりました。でも、そこで終わってはいけない」
ノエルが続けて口を開く。
「逃げてもいい。泣いてもいい。でも、次は同じ場所で立ち止まらないこと。私たちはそう決めて、ここまで来ました」
クラリーチェが淡々と補足する。
「感情の制御、精神的な耐性、相互の支え合い。それらは才能ではなく、訓練で身につくものです」
エルザが少し頰を赤らめながらも、真摯に言う。
「恥ずかしい思いをしたからこそ、同じ思いを誰にもさせたくない。だから私たちは、今ここに立っています」
最後にミレイユが、静かに前を見据えて言った。
「……私は加害者側でもありました。自分のコンプレックスを、他者を貶めることで埋めようとしていた。その結果が、あれです。皆さんは、どうか私のようにならないでください。そして——もし誰かが恐怖で声を上げられなくなっていたら、笑ったり煽ったりせず、手を貸してください」
拍手が起き、講義はいったんの区切りを迎えた。質問の時間も設けられ、令嬢たちは真剣な眼差しで耳を傾けていた。
——その後。
五人が中庭に面した休憩室で茶を淹れていると、突然、建物の外から甲高い声が聞こえてきた。
「いい加減にしなさいよ、アンリエッタ! いつもいつも空気も読まずに表に出てきて!あなたのせいで空気が悪くなるのよ!」
「か、勝手なこと言わないで……! 私はただ……」
アイリスたちが窓辺に近づくと、中庭の隅で二人の令嬢が言い争っていた。
一人は勝気そうな栗色の髪の上級生。
もう一人は少し小柄で、顔色を失っている金髪の下級生——アンリエッタと呼ばれた少女だ。
勝気な方が声を荒げる。
「黙りなさい! あなたみたいな気の弱いのがいるから、学院の品位が落ちるのよ! いい? もう二度と私の前に現れないで。消えなさい、この役立たず!」
怒鳴り声が、まるで鞭のように飛び出す。
瞬間、アンリエッタの身体が大きく震えた。瞳孔が開き、膝ががくがくと内側に折れ、両手が慌ててスカートの前を押さえる。
「や、やだ……出て……止まって……っ」
次の瞬間——びちゃり、という生々しい水音が中庭に響いた。
学院制服のスカート前部が、あっという間に濃い色に染まる。液体は太腿を伝って靴下まで達し、石畳に小さな水溜まりを作った。
アンリエッタはその場にへたり込み、顔を真っ赤にして涙をこぼしながら、自分の股間を押さえたまま動けなくなっていた。
「ひっ……あぁ……漏らした……みんなの前で……また……」
周囲にいた他の令嬢たちが悲鳴や囁きを上げ、一歩二歩と距離を取る。
勝気な令嬢も、まさか本当に失禁するとは思っていなかったらしく、一瞬顔を青ざめさせた後、
「ち、ちょっと……自業自得でしょ……」
と強がった。
そこへ、アイリスたちが踏み込む。
「そこまでです」
アイリスの静かで、しかし芯の通った声が中庭に落ちる。
五人の姿を認めた瞬間、周囲がどよめいた。
特に「お漏らし令嬢」本人たちが、まさに今、失禁した令嬢の現場に現れたのだ。
ミレイユが先に、怒鳴っていた令嬢の前に立つ。
視線は冷たく、かつての魔眼を想起させるほど真っ直ぐだった。
「あなた。今の言葉は、完全に行き過ぎです。相手を追い詰めて、恐怖で身体の自由を奪う——それがどれほど残酷か、分かっていますか?」
「み、ミレイユ様……! ち、違うんです、私はただ……」
「弁解は結構。恐怖を武器にする人間が、一番醜いのです。私自身が、それを身をもって知っていますから。反省しなさい。そして、二度と誰かを声で叩き潰そうとしないこと。いいですね」
勝気な令嬢は顔を真っ赤にし、小さく頷いて後ずさった。
ミレイユはそれ以上追及せず、ただ静かに彼女を見据えたまま道を開ける。
一方、アイリスはすでにアンリエッタのそばに膝をついていた。汚れたスカートなど気にも留めず、少女の肩にそっと手を添える。
「大丈夫。深呼吸して。もう、誰も怒鳴らないわ」
アンリエッタは顔を覆ったまま、震える声で繰り返す。
「ごめんなさい……ごめんなさい……怖くて……止まらなくて……みっともないところを……」
アイリスは優しく、しかしはっきりと首を横に振った。
「みっともない、なんて言わないの。怖かったのね。身体が先に反応してしまっただけよ。でも——」
彼女はアンリエッタの顔を、そっと両手で挟んで正面から見つめる。蒼い瞳に、二年前の自分自身の姿を重ねながら。
「令嬢だったら、怒鳴られたぐらいで失禁しちゃだめよ。強くならなくちゃ」
アンリエッタの瞳が大きく見開かれる。
アイリスは続ける。
声は厳しくもあり、慈しみにも満ちていた。
「怖いのは当たり前。心臓が跳ねて、お腹の奥が熱くなって、我慢できなくなりそうになるのも分かる。私たちも、何度もそうなった。でもね、そこで『もう駄目だ』って手放しちゃいけない。歯を食いしばって、膝を伸ばして、次の一秒を耐えるの。それができるようになれば、あなたはもう、誰かの声に潰されない」
ノエルが隣にしゃがみ込み、ハンカチを差し出す。
「そうそう。最初から完璧じゃなくていいの。少しずつでいいから、心に強さをつけましょう」
クラリーチェが淡々と、しかし実用的に告げる。
「後で更衣室に行きましょう。着替えと、応急の清潔用品を用意させましょう。恥ずかしさは後から処理すればいい。今は身体を冷やさないこと」
エルザが心配そうに、でも明るく微笑む。
「大丈夫ですよ、アンリエッタさん。私たち、もっと酷いところを全国に知られてますから。あなたは今日、ここで立て直せばいいんです」
アンリエッタは涙をこぼしながらも、小さく、何度も頷いた。
アイリスに支えられて立ち上がり、がくがくする膝をなんとか伸ばす。
濡れたスカートが肌に張り付く感触に顔を歪めながらも、彼女はもう、その場にへたり込んではいなかった。
——その騒ぎを聞きつけて、学院の教師が駆けつけてきた。事情を聞いた教師は、深くため息をついた。
「……実は、最近こういう子が稀にいるんです。些細な言い争いでも、急に恐怖が込み上げて、我慢が効かなくなる。二年前の『あの儀式』の余波が、まだ敏感な令嬢たちの深層に残っている、といろいろな方面の方からも注意喚起が来ていて」
教師の言葉に、アイリスは静かに目を細めた。
かつての自分たちと、重なる。
満月の儀が撒き散らした恐怖の残滓。
心の防波堤がまだ低い少女たちが、日常の些細な負荷にさえ耐えきれず、身体で反応してしまう。
……だからこそ。
アイリスは中庭に残っていた令嬢たち——騒ぎを見て固まっていた十数名の少女たち——を、ゆっくりと見渡した。
「聞いてください」
声が、澄んで広がる。
「貴族の令嬢は、強くならないといけません。美しいドレスも、正しい礼儀も、豊かな教養も、全部大切です。でも、一番大切なのは、恐怖に晒されたときに『自分を手放さない』心の強さです」
彼女は自分のお腹に、そっと手を当てる。
今はもう、誰に見られても乾いたままでいられる、完全に制御できる身体に。
「漏らすことが恥だとは言いません。人間です。限界はある。でも、漏らしたあとにどう立つか。次に同じ恐怖が来たときに、どう歯を食いしばるか。それを、今日から少しずつでいいから、練習してください。一人で無理なら、仲間を作ってください。私たちがそうしてきたように」
ノエルが笑って手を挙げる。
「相談なら聖堂院でも受け付けてます! 特に『怖くて失敗してしまった』系は、プロです」
クラリーチェが即座にフォローする。
「精神鍛錬の基礎メニューも用意してあります。強制ではありません。希望者のみ」
エルザが両手を胸の前で組む。
「皆さんなら、きっと大丈夫です。だって、ここにいる時点で、もう学び始めているんですから」
ミレイユが最後に、短く言い添える。
「……弱さを笑わないで。潰そうとしないで。それが、同じ轍を踏まないための、最低限のルールです」
中庭に、しばらくの沈黙があった。それから、誰からともなく、小さな拍手が起きる。アンリエッタも、濡れた顔のまま、力を込めて手を叩いていた。
——夕方。
学院を後にする馬車の中で、五人は窓の外に流れる並木を眺めていた。
アイリスがぽつりと呟く。
「……重なったわね。あの子の顔、昔の私に」
「ええ」
とノエル。
「だからこそ、ちゃんと『強くなれ』って言えてよかった」
クラリーチェが書類をまとめながら頷く。
「残滓はまだ消えていない。心の弱い彼女たちを励まし続ける必要があります」
エルザが柔らかく微笑む。
「でも、今日のアンリエッタさん、最後はちゃんと立ってました。きっと大丈夫です」
ミレイユが窓に頰杖をつき、静かに言った。
「……私たちが『お漏らし令嬢』のまま語り部でいられるうちは、まだ意味があるのかもしれないわね」
アイリスは膝の上で指を組み、ゆっくりと頷いた。
羞恥は消えない。
過去は消えない。
舞台では今も、自分たちの惨めな姿が水音とともに消費されている。
それでも——。
アイリスは窓の外を流れる夕暮れの並木道を見つめながら、静かに息を吐いた。
膝の上で組んだ指に、わずかな力が籠る。
もう、誰に見られても乾いたままでいられる身体。
上質な絹の下着が肌に沿う感触は、二年前とはまるで違う。恐怖に支配され、何度も尊厳を奪われたあの日々を経て、五人はようやく
「失敗することがない大人」
になった。
「……でも、ね」
アイリスがゆっくりと口を開く。
「消えないからこそ、伝えられることがある。あの子——アンリエッタさんの顔を見たとき、本当に昔の自分と重なったわ。膝が笑って、頭では『だめ』って思っているのに、身体が先に降参してしまう感覚。……あの感覚を、私たちは誰よりも知っている」
ノエルが腕を組んで頷く。
「怒鳴られただけで、ああなっちゃう子がまだいるなんてね。満月の儀の残り香、あなどれないわ」
「恐怖の残滓は、確実に心の防波堤を低くする。特に感受性の強い令嬢たちには、些細な圧迫が引き金になる」
クラリーチェが書類を鞄にしまいながら続ける。
「だからこそ、今日のような啓蒙は必要です。一度きりの特別講義で終わらせず、定期的に学院と連携を取るべきでしょう」
エルザが窓辺からこちらを振り返り、柔らかく微笑んだ。
「アンリエッタさん、最後はちゃんと自分の足で立ってました。濡れたスカートのまま、でも、逃げなかった。あれが第一歩だと思います」
「……ええ」
ミレイユが短く応じる。
頰杖をついたまま、夕陽に目を細める横顔は、かつての冷徹さとは違う、静かな成熟を帯びていた。
「私が叱ったあの勝気な子も、ああやって誰かを追い詰めることがどれほど醜いか、少しは理解したはずよ。恐怖を武器にする側にも、される側にも、ならないように——それが、私にできる償いのひとつだから」
馬車の中に、穏やかな沈黙が落ちる。
車輪の音と、遠くで鳴く鳥の声だけが寄り添う。
アイリスは再び、皆を見渡した。
ノエルの凛とした眼差し。
クラリーチェの冷静な知性が宿る瞳。
エルザの温かくて揺るがない笑顔。
そしてミレイユの、過去を受け止めきった静かな表情。
二年前、魔眼の事件で大きくその後や価値観が変化した五人。
今はこうして、同じ馬車の座席に並び、夕暮れの光を分け合っている。
「……私たちは、もうあの時のままの『お漏らし令嬢』じゃないんだから」
アイリスが、静かに言った。
「私たちの過去は消えない。あの時の私たちは羞恥の海におぼれてどん底にいた。でも、それを理由にくじけたままでいなかった。立って歩き直した。そして今日、あの子に『強くならなくちゃ』って、本気で言えたのよね」
ノエルが短く息を吐き、微笑む。
「ええ。昔の私たちに言ってあげたかった言葉、そのまま渡せたと思います」
「このようなことは一朝一夕では終わりません」
とクラリーチェが続ける。
「残滓はまだ学院に残っている。だからこそ、私たちが語り部でいられるうちは、繰り返し伝えていたなくてはならないでしょう」
エルザが膝の上で手を重ね、柔らかく頷いた。
「アンリエッタさん、最後はちゃんと立っていました。次に怖いことがあっても、今日のことを思い出してくれるといいな」
ミレイユが窓から視線を戻し、静かに言った。
「恐怖を与える側にも、飲み込まれる側にも、ならないこと。それが、私たちがこの学院、いいえこの国に残せる一番誠実な答えだと思います」
馬車が大きくカーブを切る。
遠くに、王都の建物が夕焼けに染まって見えてきた。
アイリスは組んでいた指をほどき、ゆっくりと背を伸ばした。上質な下着が肌に沿う感触も、今はもう確かな安心としてそこにある。
誰に見られても、簡単には崩れない。
崩れても、また立てる——その確信が、五人のあいだに静かに共有されていた。
「貴族令嬢は、強くならないとね」
アイリスがもう一度、独り言のように、しかし確かな声で繰り返す。
「美しいだけでも、賢いだけでも足りない。怖いときに、自分を手放さない心を持たなくちゃ。私たちがそうであったように。そして——これから先の子たちも、そうであれるように」
誰もが頷く。
自身たちをかたどる確かな言葉だった。
ノエルが軽く肩をすくめて笑う。
「でもやっぱり恥ずかしい舞台はちょっと慣れないかも」
「まあ仕方ないですね」
とクラリーチェ。
「そこは我慢ですね」
とエルザ。
「でもあの舞台があるからこれから先の未来の令嬢にも私たちの言葉は届くと思います」
とミレイユが応じ、小さく口元を緩める。
笑いが、馬車の中に薄く広がった。
かつての羞恥も、恐怖も、嘲りも、今はこの穏やかな温度の中に溶かし込まれて、ただ「伝えられるもの」として残っている。
アイリスは窓の外に目を向けた。
流れる並木の向こうで、学院がすでに霞み始めている。
あそこに、今日立たせた一人の令嬢がいる。
明日もまた、些細な言葉に膝を震わせる子がいるかもしれない。それでも——
「また来ましょう」
アイリスが言った。
「呼ばれなくても、必要なら。強き心の持ち方を、忘れそうな子がいるなら、何度でも」
五人は揃って、静かに頷いた。
車輪の音が規則正しく続き、夕闇がゆっくりと馬車を包んでいく。
過去は消えない。水音も、涙も、震えも、記憶の底に沈んだままそこにある。
だが、それらはもう足枷だけではなかった。誰かの前で膝をつくときの優しさになり、誰かを叱るときの誠実さになり、「強くならなくちゃ」と差し出せる言葉になっていた。
アイリス・フォン・ローゼンフェルトは、再び前を向く。
隣に確かにいる四人の気配を確かめるように、そっと目を細めた。
王立学院で得た教訓は、確かに今も生きている。
そしてそれはこれから先も、恐怖に濡れた誰かの夜を、少しだけ乾いた方向へ導いていくのだろう。
終幕
これにて本当に完結です。
アナザーストーリーとして一つの作品の後日談を別枠で作ったのは初めてなのでこのようにして良いのか迷いましたが楽しんでいただければ幸いです。
また次の作品では新たな方向性で読者を驚かしていきたいのでご期待に沿えるよう精進します。




