CROSSOVER【黒瀬レン】豆腐一丁ぶんの補給ログ
本編100話記念SSです。
腹が鳴った。
レンは配管の下で仰向けになったまま、しばらく動かなかった。天井ではない。正確には、旧文明基地の補助廊下、その床下区画の天井側にある配管群だった。金属板の隙間から冷えた空気が落ちてくる。左手には工具。右手には焦げた端子。口の中には、さっきから鉄の味みたいなものが残っていた。
『生体反応に低血糖傾向を確認。作業継続効率が低下しています』
『手元、遅いです』
「腹の音じゃなくて、そっちか」
『さっき、落としました』
「端子は落としてない」
『小さい破片です』
「見てたのか」
『嫌でした』
レンは黙って、端子の奥に残った黒い破片を見た。確かにひとつ、配管の下へ落ちている。ガタの小さな機体が床板の端で止まり、そこだけをじっと見ていた。
ここを直さないと、補助調理区画の再加熱ユニットが安定しない。安定しないと、保存食は冷たいままだ。
冷たい保存食でも食える。食えるが、毎回それだと気が滅入る。
「あと一本だけ確認する」
『その発言は八分前にも記録されています』
「今回は本当に一本」
『前回も同一文言でした』
『嘘です』
「短いな」
『雑です』
レンは短く息を吐いた。工具を差し込み、焦げた端子の奥に残っていた小さな破片を引き抜く。かち、と軽い音がした。手袋越しに嫌な手応えが消える。
[MAINTENANCE LOG]
――――――――――
補助調理区画:再加熱ユニット
電源線:復旧率 71%
熱制御:不安定
推奨:手動確認後、低出力試験
――――――――――
『低出力試験は可能です。成功すれば、保存食を加熱できます』
「それを先に言え」
『十七分前に言いました』
『聞いてないです』
「ガタ、お前はどっち側だ」
『止まらない側です』
レンは床下区画から這い出した。肘が金属板に当たり、鈍い音がした。膝をついて立ち上がると、視界の端が少し暗くなった。思っていたより腹が減っている。喉も乾いていた。
補助調理区画は、基地の奥にある小さな部屋だった。壁に埋め込まれた銀色の箱が三つ。中央の一つが再加熱ユニット。右側が保存食ラック。左側は水分再調整用の装置らしいが、まだまともに動かない。床は冷たく、ライトの光が薄い青で返ってくる。
ガタが先にラックへ近づいた。小さな機体を左右に揺らしながら、銀色の箱の前で止まる。
『ここ、先です』
「保存食ラックか」
『補給です』
『保存食パックは三十七個残存。うち、現時点で人間の摂取に適するものは二十一個です』
「味は?」
『分類外です』
『大事ですか』
「大事」
『では、未確認です』
レンはラックから薄いパックを一つ抜いた。表面に文字はない。代わりに、古い規格のコードと、栄養比率らしい細い線が刻まれている。軽い。中身が何なのか、触っただけでは分からない。
「これ、何味」
『推定では穀物タンパク質、藻類油脂、微量ミネラルを固形化したものです』
「味を聞いた」
『栄養味です』
「最悪の答えだな」
ガタが再加熱ユニットの前で止まった。
『温めてください』
「お前は食べないだろ」
『レンが止まります』
「まだ止まってない」
『手元が悪いです』
「厳しいな」
『ここ、壊れます』
レンは言い返しかけて、やめた。ガタは食事に興味があるわけではない。温かいものを食べたいわけでもない。ただ、腹を空かせたレンが雑に作業して、端子を落としたり、配線をこじったり、まだ生きている設備を壊すのが嫌なのだ。
たぶん、それだけだ。
「温めれば勝てるって?」
『少し、ましです』
「勝敗あったのか」
言ってから、レンの手が止まった。
勝敗あったのか。
同じ言葉を、どこかで言った気がした。基地の冷たい調理区画ではない。金属音もしない。焦げた臭いもない。もっと狭くて、もっと湿った湯気のある場所。窓が白く曇っていて、安い机があって、誰かが鍋を見ていた。
豆腐。
レンは保存食パックを持ったまま、目を細めた。
「……豆腐」
『該当食材は現在の在庫にありません』
『豆腐、ですか』
「食べ物」
『補給ですか』
「まあ、そうだな」
『では、必要です』
ミオの声がした気がした。
豆腐は二丁いる。
レンは少しだけ笑いそうになって、やめた。口元が動く前に、胸の奥のほうがきゅっと詰まった。笑うには、ここは静かすぎた。
『レン。心拍変動を確認』
「問題ない」
『呼吸も浅くなっています』
「問題ないって」
『了解。問題がないものとして、作業可能な範囲に落とし込みます』
『座ってください』
「ガタ?」
『倒れると、嫌です』
ノアの声は変わらなかった。冷静で、平坦で、必要なことだけを置く。ガタの声は短くて、どこか欠けている。そのどちらにも、レンは少し助けられた。
保存食パックをユニットに差し込む。蓋を閉じる。パネルには古い記号が浮かび、低く唸るような音が始まった。しゅう、と細い蒸気が漏れる。焦げた臭いに混じって、穀物のような匂いが立った。
[FOOD UNIT TEST]
――――――――――
再加熱ユニット:低出力起動
温度制御:許容範囲
食品パック:加熱中
警告:味覚満足度は保証外
――――――――――
「最後の警告いらないだろ」
『必要です。期待値調整です』
『塩は』
『ありません』
『残念です』
レンは壁に背中を預けて座った。足を投げ出すと、膝のあたりがじんと痛んだ。いつから座っていなかったのか、よく分からない。ライトの光が床に斜めに伸びて、ガタの影を小さく揺らしている。
加熱ユニットが小さく鳴った。
パックを取り出すと、表面が少し熱かった。レンは指先で持ち替えながら封を切る。中から出てきたのは、四角く固まった薄茶色の何かだった。湯気は出ている。匂いは悪くない。見た目は、まあ、旧文明が人間を生かすために最低限考えた物体だった。
「豆腐ではないな」
『豆腐ではありません』
『四角いです』
「四角ければいいわけじゃない」
レンは一口食べた。
味は薄かった。塩気も足りない。食感は妙に均一で、噛むと少し遅れて穀物の匂いが来る。うまいとは言えない。けれど、温かかった。
その温かさだけで、体が少し黙った。
「……食える」
『摂取継続を推奨』
『手元、戻りますか』
「たぶん」
『なら、いいです』
ガタが満足そうに一度だけ回った。食えもしないくせに、なぜか偉そうだった。
レンはもう一口食べた。四角い保存食の端が欠ける。豆腐なら、もっと白くて、もっとやわらかくて、箸で持つと崩れた。ミオはそれをだいたい豆腐のせいにしていた。
事故。
声が、今度ははっきり残った。
レンは手を止めた。
ミオは笑っていただろうか。たぶん笑っていた。少し得意げに、けれど豆腐を崩したことは認めない顔で。二丁いると言い張って、結局レンの器にも多めに入れてくる。
あの夜、何を話したかは全部は思い出せない。けれど、豆腐が二丁あったことだけは覚えている。湯気。安いポン酢。窓の白さ。ミオの雑な理屈。自分が結局いちばん食べたこと。
「一丁で足りたんだよな」
『現在の保存食単位は一パックです』
『誰に、ですか』
レンは返事をしなかった。
通信はない。リンクもない。ミオがどこにいるのかも分からない。生きていると信じる材料は少ない。けれど、完全に消えたわけではない。こうして、わけの分からない保存食を食べているだけで、何かが引っかかる。
豆腐二丁。
そんなものが、基地の空気より強く残っている。
[PERSONAL MEMORY FRAGMENT]
――――――――――
対象:未整理
内容:白色食品/鍋/二単位購入
関連人物:MIO
通信リンク:未成立
保護推奨:高
――――――――――
「勝手に分類するな」
『破損しやすい記憶片です。保護します』
「……そういう言い方するな」
『別表現に変更します。失いたくない記録です』
「もっと悪い」
ガタが少し静かになった。
『レン』
「なんだ」
『それも、補給ですか』
「たぶん」
『では、必要です』
「お前、さっきからそればっかりだな」
『必要です』
レンは保存食を最後まで食べた。味は最後まで薄かった。けれど、胃の中に温かさが落ちて、指先の震えが少しおさまった。
立ち上がる前に、レンは空になったパックをしばらく見ていた。
「ノア」
『はい』
「今後、食品生成系の設備が見つかったら、白い固形食材の項目を優先で確認してくれ」
『理由は』
「私用」
『了解。私用項目として記録します』
『白くて四角いですか』
「できれば崩れやすいやつ」
『壊れやすい食べ物を優先する理由が分かりません』
「崩れるからいいんだよ」
『理解不能です』
『でも、必要です』
レンは工具を拾った。
再加熱ユニットは動いた。保存食は温められる。これでしばらくは、冷たいパックを噛まなくて済む。小さいが、基地の中でひとつ、まともな生活に近いものが戻った。
廊下へ出ると、遠くで換気ファンが低く回っていた。冷たい空気に、さっきの穀物の匂いがまだ少し混じっている。
レンは歩き出した。
「ミオ」
声は小さかった。誰にも届かない大きさだった。
「一丁でも足りるって言ったの、たぶん撤回する」
ノアは何も言わなかった。
ガタも、めずらしく何も言わなかった。
レンは工具箱を持ち直し、次の区画へ向かった。いつか、白くて崩れやすいものを作る。二つ。できれば、鍋も。
その時は、たぶん一人では食べない。
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