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盲目の君は何をみゆ  作者: 巫篠 美都瑠


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 四月。学校の敷地を囲む桜の木々が、一斉に薄紅色の花を咲かせる季節。

 舞い散る花びらが、春の柔らかな風に乗って教室の窓から舞い込んでくる。

 三年生に進級した優生と愛理の日常は、これまでのどの季節よりも穏やかで、そして確かな熱を帯びていた。

 完全に視力を取り戻した愛理は、もう白杖を突くことも、赤いフレームのメガネをかけることもない。彼女の歩みは羽が生えたように軽く、校舎の窓から差し込む春の陽光を眩しそうに、けれど愛おしそうに目を細めて見上げるその横顔は、優生にとって何度見ても見飽きることのない奇跡そのものだった。

 二人は、三年生でも同じクラスになった。

 担任も持ち上がりで鈴木が受け持つことになり、新学期早々、重苦しい空気を纏った「進路面談」が行われることになった。

 放課後の進路指導室。

 パイプ椅子に並んで座る優生と愛理を前に、鈴木は二枚の『進路希望調査票』を見比べ、目を丸くして頭を掻いた。

「……お前ら、示し合わせたわけじゃないだろうな」

 第一志望の欄。優生の用紙にも、愛理の用紙にも、全く同じ「県立公立大学・文学部」の文字が書かれていたからだ。

「示し合わせてませんよ。たまたまです」

 優生が平然と答えると、隣で愛理が「うふふ」と小さく笑い声を漏らした。

「蒼井は昔から国語の成績だけは良かったから文学部も分かるが……星街もか?」

「はい。私、物語の世界をもっと深く学びたいんです」

 愛理は、膝の上で両手をきちんと重ね、真っ直ぐに鈴木の目を見て答えた。

「言葉がどれだけ人の心を救えるか……言葉にどれほどの力があるのか、私が一番よく知ってるから。それに」

 愛理はチラリと優生の方を向き、ほんのりと頬を桜色に染めた。

「優生くんが書く小説の、一番の理解者になりたいので」

「……お、おいっ、愛理!」

 まさか教師の前で惚気のようなことを言われると思っていなかった優生は、顔から火が出るほど赤くなり、慌てて愛理の袖を引いた。鈴木は大きくため息をつき、調査票を机にバシッと叩きつけた。

「はいはい、ごちそうさま。視力が治ってからのお前らのバカップルぶりは職員室でも話題になってるんだぞ。……まあいい。二人とも目標が定まってるなら、あとは死に物狂いで勉強するだけだ。ハードルは決して低くないからな、覚悟しとけよ」

「はい!」

 二人の声が、ピタリと重なって進路指導室に響いた。    

 進路面談を終えた二人は、いつものように図書室の奥のスペースへと向かった。

 かつて、優生が愛理のためにファンタジー小説を読み聞かせていた、二人だけの聖域。

 しかし、三年生になってからの放課後は、あの『音読の会』から『受験勉強の会』へと静かにその形を変えていた。

 向かい合って座り、机の上に分厚い参考書とノートを広げる。

 静寂の中、カリカリというシャープペンシルが紙を滑る音だけが響く。

 優生は英単語帳を睨みつけながらも、時折、目の前で日本史の教科書を真剣な眼差しで読んでいる愛理の顔を盗み見ていた。

 視界がクリアになった愛理の目は、活字の海を自由に泳ぎ回っている。自分が声を枯らして世界を伝えていた日々が少しだけ懐かしく、ほんのわずかな寂しさもある。だが、こうして彼女が自分の力で世界を広げている姿を見ることの喜びは、その何百倍も大きかった。

 ふと、愛理が顔を上げ、優生とばっちりと視線が合った。

「……っ!」

 見つめ合ってしまった瞬間、二人の間に急激な緊張感が走る。

 付き合い始めて数ヶ月。名前で呼び合うことにも少しずつ慣れてきたが、二人きりの空間になると、未だにどうしていいか分からなくなるような初々しい気恥ずかしさが勝ってしまうのだ。

「あ、あのさ」

「……ちょっと、休憩するか」

「そうだね」

 愛理が参考書を閉じると、優生はそっと右手を伸ばした。

 愛理の左手が、それに気づいて迎えに来る。

 二人の指先が触れ合い、そしてゆっくりと絡み合った。

 愛理の体温が、優生の指先から心臓へと伝わってくる。ほんの少し手を繋ぐだけで、頭の中が真っ白になるほどドキドキしてしまう。

 優生が愛理の顔を見ると、愛理もまた、耳の先まで真っ赤に染めて、机に突っ伏すようにして目を伏せていた。

「……優生くんの、手。あったかい」

「愛理の手も、すごくあたたかいよ」

 図書室の窓から差し込む春の夕日が、照れ合う二人の影を長く伸ばしていた。

 言葉がなくても、お互いの体温を感じられること。見つめ合えること。

 それは、暗闇の時代を乗り越えた二人にとって、何物にも代えがたい絶対的な幸福だった。

     *

 四月の終わりの、ある週末。

 優生は少し緊張した面持ちで、星街家の玄関の前に立っていた。

 今日は私服ではなく、制服のネクタイをしっかりと締め直している。

 玄関のドアが開き、エプロン姿の愛理の母親が出迎えてくれた。

「いらっしゃい、優生くん。今日はわざわざ制服で、どうしたの?」

「お母さん。今日は、お母さんと……お父さんに、ちゃんとご報告があってきたんです」

 優生の真剣な声のトーンに、母親はハッとして、すぐに優しい笑顔を浮かべた。

「……そう。上がってちょうだい。愛理も待ってるわ」

 リビングに入ると、少しよそ行きの手編みのカーディガンを着た愛理が、緊張した面持ちで待っていた。

 優生は愛理の隣に立ち、ソファに腰を下ろした母親に向かって、深く頭を下げた。

「お母さん。俺と愛理さんは、正式に付き合っています。……元日の日に、俺から告白しました。愛理のことを、これから先もずっと大切にします。どうか、俺たちを見守っていてください」

 まっすぐな、淀みのない言葉。

 母親は、目頭を押さえながら、何度も大きく頷いた。

「知ってたわよ。あの子の顔を見ていれば、どれだけあなたのことが好きか痛いほど伝わってくるもの。……優生くん、愛理を光の中に連れ戻してくれて、本当にありがとう。こちらこそ、あの子をよろしくお願いします」

「お母さん……っ」

 愛理が堪えきれずに涙ぐみ、母親の膝に顔を埋めた。母親は愛理の背中を優しく撫でながら、優生に向かって微笑んだ。

「優生くん。今日、愛理と一緒にお父さんのお墓参りに行ってくれるかしら。あの子、ずっとお父さんに報告したいって言ってたの」

「わかりました」

 その日の午後、二人は花屋で綺麗に咲いた淡いピンクのカーネーションとカスミソウの束を買い、墓所へと向かった。

 見晴らしの良い、春の風が吹き抜ける墓地。

 愛理は手桶に水を汲み、柄杓で丁寧に墓石に水をかけた。

「お父さん。久しぶりだね」

 愛理は、墓石の前にしゃがみ込み、静かに語りかけ始めた。

「ずっと、お父さんのこと、私のせいだって責めてた。ごめんなさい。でも……お母さんが教えてくれたよ。お父さんが、私とお母さんを庇ってくれたこと。お父さんの最後の優しさ、ずっと忘れないよ」

 愛理の瞳から、一筋の涙が零れ落ち、冷たい墓石を濡らした。

「私ね、目が見えるようになったの。お父さんがくれたこの命で、もう一度世界の色んなものを見たいって思えるようになったよ」

 愛理は立ち上がり、隣で直立している優生の右手を取った。

「お父さん。紹介するね。私の、一番大好きな人。蒼井優生くんです。優生くんが、私に声で世界を教えてくれて、私を暗闇から引っ張り出してくれたの」

 優生は、愛理の手をしっかりと握り返し、墓石に向かって深く一礼した。

「星街さん。初めまして、蒼井優生と申します」

 優生は、顔を上げ、墓石の向こうに広がる春の空を見据えて、はっきりと宣言した。

「俺は、愛理の痛みをこれからの人生で背負う覚悟です。絶対に彼女を一人にはしません。だから……どうか、俺たちのことを見ていてください」

 その言葉は、自分自身への逃げ場のない誓いでもあった。

 春の風が吹き抜け、墓前に供えられた線香の煙が、まるで返事をするかのように優しく二人の間をたなびいて消えていった。

「優生くん……ありがとう」

 愛理が、涙で濡れた瞳で優生を見上げた。

「俺の方こそ、ありがとう。愛理が俺の隣にいてくれるから、俺は強くなれるんだ」

 優生はポケットからハンカチを取り出し、愛理の頬を伝う涙を優しく拭った。

 丘を下る帰り道。

 二人を包み込む春の陽光は、どこまでも暖かかった。

 過去の悲しみは完全に癒えたとは言えないが、家族からの祝福を受けた二人の前には、希望に満ちた未来へと続く道が伸びていた。


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