表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
マニュアルキラー 第6部 父の手帳  作者: 早野 茂


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/14

第2話「毎日の記録」

深夜の静寂が支配する無機質な部屋で織部は冷たい光の下、古びた手帳のページを一定のリズムでめくり続けていた。

彼の脳は紙面の文字列を、画像としてではなく文字情報として瞬時に抽出していく。

一ページにつき数秒。

それが彼の標準的な認識の速度だった。

だがその速度は次第に不規則になり、時折完全に停止した。

暗号化された口座番号や、クロノスの違法な取引記録。

それらを探し出すという明確な目的を持って読み始めたはずだった。

しかし数冊の手帳にびっしりと書き込まれた三十年分のインクの跡は、彼の論理的な予測をことごとく裏切っていた。

手帳の紙片からは古いカビの匂いと微かな油の匂いが漂い、それが三十年という途方もない時間の重さを無言のうちに物語っている。


『十一月十二日。北の風が強い日は、体が弱い子供には堪えるだろう。風邪を引いていなければいいが』

『七月二十日。今日は祭りの日だったはずだ。あの子は祭りが好きだったか』

『四月八日。新しい環境には馴染めただろうか。無理をしていないといいが』


ページを埋め尽くしているのは、暗号の羅列ではない。

どこか遠くにいる『あの子』と呼ぶ存在へ向けた、ひどく散文的で独り言のような日常の記録だった。

文字の筆圧は均一ではなく、ある日は力強くある日は弱々しく震えており書き手のその日の体調や精神状態までが克明に記録されているかのようだ。

感情というバグを徹底的に排除し完璧な合理性のみで生きてきた織部にとって、これほどノイズに満ちたアナログな記録はない。

誰に向けたものかもわからない安否の気遣いが、ただ延々と連なっているだけなのだ。

直接的な名前は一度も登場しない。

パブリッシャーのマニュアルに従えば、これは任務に無関係な感傷的な老人の日記として即座に破棄すべき非対象の品だ。

織部は一度、手帳をパタンと閉じようとした。

こんな無意味な文章の羅列に時間を割くのは、彼に与えられた仕様から大きく逸脱する無駄な行動である。

だが彼の中に組み込まれた優秀な分析アルゴリズムが、破棄プロセスへの移行を微かに拒絶していた。


織部は再びページを開き、今度は文字列の意味ではなく記述の構造そのものに焦点を合わせた。

一万日の記録。

一日も欠けることなく続く、執拗なまでの連続性。

彼は脳内で別の推論モデルを並行して起動させ、手帳に記された些細な記述と過去の公開情報との照合を開始した。

『北の風が強い日』という約三十年前の記述。

織部は過去の気象情報にアクセスし、その日の風向と風速の記録を瞬時に引き出した。

手帳に書かれた日付と特定の地域における突風の観測結果が、狂いなく完全に符合する。

『今日は祭りの日だったはずだ』という記述。

これもただの老人の妄想ではない。

その日付と合致する地域限定の祭事が、実際に過去の記録として存在していた。

『列車の事故があったらしい。あの子が乗っていなければいいが』

それもある地方のローカル線で実際に起きた脱線事故の報道と、発生時刻が正確に一致する。

単なる偶然の一致として片付けるには、あまりにも事実が揃いすぎていた。


織部は手元の端末を使ってその脱線事故の記録を呼び出し、被害者のリストを無表情にスキャンした。

死傷者の中に子供は含まれておらず、老人の懸念が杞憂に終わっていたことを知る。

なぜ自分がそんな確認作業をしているのか、織部には理解できなかった。

任務に関係のない過去の事故の被害者を調べるなど、これまでの彼なら絶対にしないことだ。

だが彼は無意識のうちに、老人が三十年前に抱いた安堵感を自分の中にトレースしようとしていた。

任務の対象でしかない老人の感情に同調しようとするなど、システムのエラー以外の何物でもない。


織部の背筋を、冷たい電流のようなものが駆け抜けた。

これはただの日記ではない。

老人は見知らぬ『あの子』がどこにいるのかを、はっきりと知っていたのだ。

そしてテレビのニュースや新聞記事やラジオの気象情報といった公開されている断片的な情報をかき集め、遠くにいる対象の状況を正確にシミュレートし続けていた。

対象に直接接触することは一度もない。

ただ遠くから公開情報だけを頼りに、その存在を三十年間にわたって寸分違わずトラッキングし続けていたのだ。

恐るべき精度と、異常なまでの執念。

それは見守りなどという生易しいものではない。

——対象を、一日も外さず追い続けた執念の記録だった。

しかしその目的は対象の暗殺や拉致ではなく、ただひたすらに対象の無事を確認し続けることだった。


なぜクロノスの末端で使い捨てられるような老人が、これほどまでの労力をかけて一人の子供の所在を推定し続けていたのか。

この異常な記録行動の目的は何なのか。

織部の内部で本来の任務であるクロノスの証拠探しとは明らかに異なる、強烈な知的欲求が起動し始めていた。

それは彼がかつて切り捨てたはずの好奇心という名の人間的な感情に、極めて近いものだった。

彼はページをめくる速度を落とし、一行一行の背後にある老人の思考プロセスをなぞるように読み進めた。

記述の中にある『あの子』の成長の軌跡。

『今日で六歳になるはずだ。小学校には馴染めただろうか』

『中学に上がる年齢だ。制服は似合っているだろうか』

『就職する頃だろう。過酷な道を選んでいないといいが』

断片的な情報を繋ぎ合わせることで、『あの子』の輪郭が少しずつ織部の脳内に立ち上がっていく。

正確な年齢。

移動した地域。

そしてその子供がどのような環境で育ちどのような季節を経験してきたのかが、手帳の文字から浮き彫りになっていく。

そのプロファイルは、ある特定の人物のデータと、奇妙なほど符合し始めていた。

凍えるような北の風や、遠くで聞こえた祭りの太鼓の音。

それらの記述が、なぜか彼の内部の奥底にある古い記憶のノイズと共鳴しそうになる。

だが織部はその最終的な結論を導き出すことを、なぜか無意識のうちに先送りしていた。

それを確定させてしまえば自分の中の何かが決定的に壊れてしまうという予感が、彼のシステムに警告を発していたからだ。

感情というバグを排除することで完璧なエージェントとして君臨してきた彼にとって、過去の記憶に囚われることは致命的な弱点になる。

彼はあくまで冷徹な観察者として、この手帳の暗号を解き明かす立場に留まらなければならなかった。

パブリッシャーの精鋭として、私情を挟むことは絶対に許されないからだ。


織部の視線が、机の端に置かれた一枚の古びた紙片に引き寄せられた。

それは日中の潜入任務の際に手帳のページに挟まっていたのを発見した、三十年前の新聞記事の切り抜きだ。

古く変色したその紙片は、誰かが何度も繰り返し触れたことで縁がぼろぼろに擦り切れている。

見出しには『組織壊滅、幹部数名が逃走』とある。

そしてその余白に梶川のあの几帳面な筆跡で書き込まれた、黒いインクの一行。


『これでようやく、あの子は自由になれる』


織部はその紙片を指先でつまみ上げ、デスクライトの光の下で再びその一行を見つめた。

そしてその短い文章を頭の中で三度、無音のまま繰り返して読んだ。

一度目は、情報として。

三十年前の組織壊滅という事実と『あの子』の自由という結果の因果関係を、論理的に結びつけるためだ。

二度目は、確認として。

そこに特殊な暗号やクロノスへの通信手段としての隠しメッセージが含まれていないかを、厳密に検証するためだ。

だが三度目は全く違った。


三度目を読んだ時、織部の手は完全に止まっていた。

なぜ自分は意味の解析が終わったはずのこの文字列を、もう一度読み返したのか。

その行動を説明する論理的な理由が、彼自身の思考回路の中に見当たらなかった。

ただその文字の奥にある強烈な安堵と悲哀の混ざった老人の感情が、インクの染みを通して自分の皮膚の下に直接流れ込んでくるような錯覚があった。

『あの子』が自由になることを、これほどまでに切望していたのは誰なのか。

その祈りのような言葉は、誰に向けられたものだったのか。

これでようやくという言葉の重みが、彼の処理能力に過負荷をかけていく。

まるで凍りついていた過去の時間が、この古びた手帳を通して彼の中で溶け出していくかのようだった。

織部は目を閉じ、暗闇の中でその言葉の響きだけを反芻した。

これまでの彼なら即座にメモリから消去していたはずの、無意味なノイズだ。

だがそのノイズはすでに彼の奥深くに根を張り、静かにしかし確実に増殖を始めていた。


彼を突き動かしているのは、もはやパブリッシャーから与えられたマニュアルではなかった。

この三十年間の記録の正体と『あの子』の正体を、自分自身の目で突き止めなければならない。

だがそれが何なのか、彼自身にも名付けることができなかった。

夜が白み始めるまで、織部がその椅子から立ち上がることはなかった。


【マニュアルキラーシリーズ】

マニュアルキラー 第1部

 〜その「説明書」を信じてはいけない〜

https://ncode.syosetu.com/n4289lo/

マニュアルキラー 第2部

 ~校正なき改竄~

https://ncode.syosetu.com/n4641ls/

マニュアルキラー 第3部

 ~不適切な運用に関する修正履歴~

https://ncode.syosetu.com/n4150lw/

マニュアルキラー 第4部

 ~源流…~

https://ncode.syosetu.com/n7895mb/

マニュアルキラー 第5部

~戦争を止める仕様書~

https://ncode.syosetu.com/n5481mc/


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ