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マニュアルキラー 第6部 父の手帳  作者: 早野 茂


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第1話「古い手帳」

バルカシアでの苛烈な停戦任務を終えたばかりの織部に、新たな指令が即座に下された。

パブリッシャーの最精鋭として認証された彼に、休息という概念は初めから存在しない。

与えられた仕様書に従って任務を完遂するだけであり、彼自身もそれを疑ったことはなかった。

過酷な交渉と駆け引きが続く前回の現場でも、彼は精密な機械として障壁を排除してきた。

感情というバグを排除してきた彼にとって、任務こそが唯一の存在意義である。

だが今回のターゲットに関する情報は——

微かな処理の遅延を彼の内部にもたらした。

それはこれまで一度も記録されたことのない未知の挙動だった。

ターゲットは闇の金融組織クロノスの末端に位置する、梶川という老人だった。

年齢は七十八歳で、表向きは古びた骨董品店を営む無害な人物として街に溶け込んでいる。

近隣の住民からの評判も良く、誰も彼の裏の顔を疑う者はいないようだった。

だがパブリッシャーのデータベースは、彼の隠された過去を冷酷に暴き出していた。

彼は三十年前に解体された犯罪組織の生き残りであり、今もクロノスに情報を流し続けている。

長年にわたり沈黙を守っていたが、最近になって微小な通信の痕跡が確認されたのだ。

織部に与えられた任務は骨董品店に潜入し、その情報伝達の証拠と経路を特定することだった。

この老人がいかなる手段で組織と接触しているのか、すべてを洗い出す必要がある。


織部は設備点検業者を装うための身分証と作業服を用意し、指定された住所へと向かった。

街の喧騒から少し外れた薄暗い路地裏に、その骨董品店はひっそりと息を潜めるように建っていた。

看板の文字はかすれて読み取りづらく、ショーウィンドウには埃をかぶった古物が並んでいる。

ガラス越しに見えるのは、過去の遺物として忘れ去られたような品々ばかりだった。

誰がこんなものを買うのかと疑問に思うほど、無価値なものばかりが無造作に置かれている。

織部は仕様通りに表情の筋肉を弛緩させ、愛想の良い業者としての顔を構築して扉を開けた。

カランというくぐもったベルの音が鳴り響き、店内には古紙と油の混ざった匂いが立ち込めていた。

店内は時間が数十年前に凍りついてしまったかのような、特異な停滞感に満ちた空間だった。

床板は歩くたびに微かな軋み音を立て、壁紙は長年の湿気で黄ばんで剥がれかけている。

油の染み込んだ作業台の奥では、白髪の老人が虫眼鏡越しに古い時計の部品を覗き込んでいた。


「電力会社から委託されて周辺の古い配線を点検しておりますが、少し中を見させてもらってもよろしいですか。古い建物だと漏電の危険性が高いので、念のために奥の部屋も確認させていただきたいのです」


織部は用意されたセリフを的確な抑揚で発音し、老人の微細な反応を静かに観察し続けた。

梶川は作業の手を止めることなく視線を織部に向け、無言で肯定の意を示した。

犯罪組織の残党という事前情報とは裏腹に、その姿はどこにでもいる孤独な老人にしか見えなかった。

だが織部は外見の欺瞞的な情報に惑わされることなく、店内の構造をスキャンして危険箇所を割り出していく。

壁の裏側の配線や天井の隅まで視線を巡らせ、隠しカメラや盗聴器の有無を素早く確認した。

配線を確認するふりをしながら薄暗い奥の部屋へと歩を進め、情報源がないかを視覚で探索し続けた。

建物の見取り図は頭の中に叩き込まれており、彼の歩みには一切の無駄がなかった。

通信機器や記憶媒体が隠されていそうな場所を、正確な計算に基づいて一つずつ潰していく。


店の奥には光の届かない倉庫があり、そこには売り物にならないようなガラクタが高く積まれていた。

織部の視線がその閉鎖的な空間を移動し、やがて奥の壁一面を占める奇妙な光景で止まった。

そこには同じ規格の古い手帳の束が、年代順に狂いなく棚に並べられていたのだ。

周囲の無秩序なガラクタの山とは異質であり、そこだけが異様な秩序で管理されていた。

織部はその手帳の山を見た瞬間、これがクロノスへの重要な情報源に違いないと直感した。

最も古い手帳の表紙には三十年前の年号が記されており、最新のものは昨日の日付で終わっている。

一日も欠かすことなく三十年間にわたって記録し続けられた、巨大なデータ群の集積である。

紙の劣化具合や背表紙の擦り切れ方からも、それが長年にわたり人の手で触れられてきたことがわかる。

デジタルな暗号通信全盛のこの時代に、あえてアナログな紙媒体を残すことには大きな意味がある。

この膨大なアナログデータの中にこそ、クロノスを崩壊させる致命的な証拠が隠されているはずだ。


織部は作業を装って周囲の安全を確認すると、素早い動作で手帳の束から数冊を抜き取った。

最新の記録が残されている数冊に加え、最古の一冊と中間年代の手帳を数冊、作業服の隠しポケットへと素早く滑り込ませた。

梶川に気付かれることなく点検作業を完了させた織部は、礼を言ってその骨董品店を後にした。

任務の第一段階はこれで完了であり、あとは持ち帰ったデータを解析してクロノスの尻尾を掴むだけだ。

織部の足取りに迷いはなく、常に最適化されたルートを通って自分の一時的な拠点へと帰還した。

路地裏を抜けて大通りに出る頃には、彼は点検業者からエージェントの顔へと戻っていた。

行き交う人々の群れに紛れ込みながら、背後からの尾行がないことを複数の手段で確認し続けた。


一時的な拠点としてあてがわれた部屋は、無駄な装飾が排除された機能的な空間だった。

パブリッシャーから支給された暗号化通信端末が机の上に置かれており、常に監視と指令を受信し続けている。

織部はその端末に触れることなく、冷たいコンクリートの壁に囲まれた部屋の中央で硬い椅子に腰を下ろした。

彼は回収してきた数冊の手帳を机の上に並べ、その古びた表紙の質感を指先で確かめるように撫でた。

組織の末端で使い捨てられるような人間が、なぜこのような非効率的な記録媒体を隠し持っていたのだろうか。

情報化された現在の裏社会において、手書きのノートなどというものは異例で時代遅れな代物である。

だからこそパブリッシャーの監視網をすり抜け、長年にわたって機密を隠匿し続けることができたのかもしれない。

織部は自らの思考を常に論理的なベクトルへと誘導し、この手帳が持つ真の価値を測り直そうと試みた。

ここから有益なデータを抽出することができれば、組織の根幹を揺るがすことができるはずだ。


夜の静寂に包まれた無機質な部屋で、織部はデスクライトの冷たい光の下で回収した古い手帳を開いた。

クロノスに流すための暗号化された口座記録か、違法な取引のリストが並んでいるはずだ。

ページをめくるたびに微かなカビの匂いが漂い、それが三十年という年月の重さを物語っていた。

織部は暗号解読のアルゴリズムを頭の中で起動させ、ページに記されたインクの染みに目を落とした。

だがそこに書かれていた文字は、織部の論理的な予測を裏切る個人的な散文だったのだ。


『今日も晴れ。あの子は元気だろうか』


織部はその最初の一行を目にした瞬間、ページをめくる手を無意識のうちに止めてしまっていた。

パブリッシャーのエージェントとして事態に対応してきた彼にとって、全く理解できない現象だった。

これは暗号でも取引記録でもなく、誰かの個人的で感傷的な感情の吐露にすぎないのだろうか。

だが三十年という途方もない時間をかけて、一日も欠かさずに書き続けられたこの記録の意味は何なのだ。

感情という機能を封じて生きてきた彼にとって、この記述は内部に処理できない不可解なノイズを発生させた。

この手帳には単なる日記の枠を大きく超えた、執念とも呼べる強い意志が込められているように思えた。

彼の視線は紙の上に固定されたまま、次の行へと進むことがしばらくの間できなかった。


織部は再び手帳に視線を戻し、その文字列から隠された真意を抽出しようと視覚情報を脳に送り込み続けた。

次のページにもその次のページにも、同じようなトーンで子供に関する短い記述が延々と続いている。

数字の羅列や組織の秘密の暗号ではなく、ただ見知らぬ誰かの安否を気遣う言葉が並んでいた。

『北の風が強い日は、体が弱い子供には堪えるだろう』などという無害な言葉の集積である。

仕様で生きてきた織部にとって、このように目的が不明確なデータの集合体は理解しがたいものだった。

だがパブリッシャーの冷酷な任務において、無意味に見えるものにこそ致命的な情報が隠されていることがある。

織部はこの手帳を解読することを新たなタスクとして設定し、深夜の静寂の中でただ文字を追い続けた。


手帳の記述は単調でありながら、どこか読む者の意識を深く引き込んでいくような奇妙な引力があった。

織部は冷徹な情報処理のフィルターを通して読んでいるはずなのに、文字の裏にある体温のようなものを感じた。

それは彼がかつて自らの手で切り捨てたはずのバグであり、本来ならすぐにシステムから削除すべきノイズだ。

だが織部はそのノイズを排除することなく、手帳のページを一枚また一枚と慎重にめくり続けていった。

この老人が三十年間も書き綴った相手とは誰であり、なぜこれほどまでに強く執着しているのか。

その答えを見つけ出すことが、クロノスという巨大な闇を解き明かす鍵になるという直感が彼を動かしていた。

静寂に包まれた部屋の中で、古いインクの跡だけが彼の思考の奥に小さな異物として残り続けていた。


ページをめくる手が、ふと止まった。

手帳のページとページの間に、古く変色した紙片が挟まっていたのだ。

それは丁寧に切り取られた一枚の古い新聞記事だった。

織部はそれを指先でつまみ上げ、デスクライトの光に透かすようにしてその内容を確認した。

三十年前の事件報道であり、見出しには『組織壊滅、幹部数名が逃走』と大きな活字で記されている。

パブリッシャーのデータベースで検索をかければ、すぐにその事件の全貌と逃走した幹部の名が割れるはずだ。

だが織部の視線は、その記事の余白に書き込まれた黒いインクの文字に釘付けになっていた。

梶川のあの丁寧な筆跡で、そこにはただ一行だけが力強く書き込まれていたのだ。


『これでようやく、あの子は自由になれる』


織部はその一行を視覚情報として取り込み、意味を解析しようと自らのシステムにデータを流し込んだ。

組織の壊滅と見知らぬ子供の自由が、どのように論理的に結びつくのか全く計算が合わなかった。

ただの見知らぬ老人の手帳と古い新聞記事が、なぜ自分の内部にこれほどのノイズを生じさせるのだろうか。

明日の朝になればパブリッシャーへの定時報告があり、この手帳の中身についてデータを送信しなければならない。

だが織部はこの手帳を証拠品として提出することを、なぜか無意識のうちに躊躇してしまっている自分に気づいていた。


この古い手帳との予期せぬ出会いが、彼の機能としての人生にどのような事態を引き起こすのかはまだ分からない。

ただ一つ確かなことは、彼がすでにこの不可解な記録の迷宮に深く足を踏み入れてしまったという事実だけだった。

部屋の時計が無機質な電子音で深夜を知らせる中、織部の手帳をめくるかすかな音だけが冷たい部屋に響き続けていた。

窓の外には暗い夜の街が広がっていたが、彼の意識はもはやその薄暗い部屋と古い手帳の中にだけ存在していた。


【マニュアルキラーシリーズ】

マニュアルキラー 第1部

 〜その「説明書」を信じてはいけない〜

https://ncode.syosetu.com/n4289lo/

マニュアルキラー 第2部

 ~校正なき改竄~

https://ncode.syosetu.com/n4641ls/

マニュアルキラー 第3部

 ~不適切な運用に関する修正履歴~

https://ncode.syosetu.com/n4150lw/

マニュアルキラー 第4部

 ~源流…~

https://ncode.syosetu.com/n7895mb/

マニュアルキラー 第5部

~戦争を止める仕様書~

https://ncode.syosetu.com/n5481mc/


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