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マニュアルキラー 第6部 父の手帳  作者: 早野 茂


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第11話「父の方法」

無機質な自室の暗闇の中で、織部の指先はキーボードの上を無音で滑り続けていた。

モニターの青白い光だけが、一切の表情を排した彼の顔を冷たく照らし出している。

換気扇の微かなモーター音だけが響く部屋で、彼はただひたすらに膨大なデータと向き合っていた。

ローカルの暗号領域で彼が構築しているのは、今夜の整理からある家族を救い出すための脱出ルートだ。

織部はパブリッシャーの深層データベースから、過去に消失処理された人物のクリーンな戸籍データを抽出した。

その三名分のダミーデータを、告発者とその妻と五歳の娘のデータへと静かに上書きしていく。

次にクロノスの実行部隊が利用する監視カメラのネットワークに侵入し、特定の時間帯だけ映像がループするよう緻密なノイズを忍び込ませる。

追手の動きを遅延させるためのダミーの通信記録を散りばめ、彼らが安全な保護下へと逃げ込むための絶対的な死角を情報空間に作り上げていくのだ。

それはこれまでの織部がパブリッシャーの命令で行ってきた破壊のためのタスクとは、根本的に異なる作業だった。

しかし巨大なシステムの隙間を突いて論理の死角を利用するという点においては、彼が得意としてきた校正の技術が完璧な形で応用されていた。


数時間に及ぶ精緻なコードの記述を進める中で、織部の論理回路は自らの行動にある一つの明確なパターンの類似性を見出していた。

自分が今この暗号領域で行おうとしていることは、クロノスやパブリッシャーといった巨大な組織そのものを正面から壊滅させることではない。

末端のエージェント一人に、裏社会全体のシステムを破壊する力はない。

何よりそんな強引な方法をとれば、今夜にも命を奪われようとしている目前の家族を救う時間には絶対に間に合わないのだ。

だからこそ織部は巨大な殺戮の計算式はそのまま稼働させた状態で、そこに気づかれないほどの微小なノイズを密かに忍び込ませる。

ただ一つの家族だけを許容コストの例外として、巨大なシステムの枠組みの外へ確実に弾き出そうとしているのだ。

システム全体を停止させるのではなく、システムの盲点を突いて個体を隔離するという高度な技術論だ。

画面上に次々と構築されていく逃走路の青いラインが、織部の網膜に幾何学的な模様として焼き付いていく。


その構造的な事実に気づいた瞬間、織部の手がキーボードの上でわずかに静止した。

画面を走る青い光のまたたきだけが、息を潜めた彼の瞳の奥で静かに反射している。

巨大なシステムの中で、ただ一つの例外を作り出して逃がす。

それは三十年前のあの日に、実の父が自分に対して取った生存のための方法と全く同じではないか。

父もまたクロノスの前身組織において、情報と財務を統括する冷酷な計算式の中枢にいた人間だ。

システムの非情さと絶対的な暴力を誰よりも熟知していた父は、組織の論理そのものを破壊する革命家にはなれなかった。

だがその緻密な計算式の中に自らの手で意図的なエラーを発生させ、最も大切な存在である息子ただ一人を例外として外の世界へ逃がしたのだ。


昨日骨董品店を去る直前の情景が、織部の脳裏に鮮明な映像としてフラッシュバックした。

古い紙の匂いと微かな線香の香りが漂う空間で、梶川という老人は確かに三十年前の真実を口にしていた。

三十年間の任務ご苦労だったと古びた和室で告げて背を向けた後、織部はふと足をとめて背後の老人に向かって最後の問いを投げかけた。

一つだけ確認したいのだが、父は私が自分の息子だと明確に認識していたのか。

梶川は深い皺の刻まれた顔で静かに頷き、あなたが生まれた日からずっとだと迷いなく答えた。

ならばなぜ一度も直接会いに来なかったのかと、織部はさらに鋭い問いを重ねた。

なぜ三十年間も遠くから見守るだけという、極めて非効率で不確かな方法を選んだのだと。

その問いに対する老人の言葉は、織部の論理の深淵を静かにそして強く打ち据えるものだった。

会えば組織があなたを見つけるからですと、老人は悲しげな瞳で真実を語った。

織部はその短い言葉の真意を、自らの内部で論理として展開した。

父親が接触した痕跡を少しでも残せば、あなたは直ちに彼らの冷酷な計算式に組み込まれて整理の対象になる。

だからあの人は決してあなたに近づかず、世界の死角に隠し通して最後まで守り抜いたのですと。


父は愛する息子に触れることすら、最初から完全に諦めていたのだ。

自らが組織の粛清の対象として冷たい海の底に沈められる結末を覚悟した上で、息子の存在をシステムから徹底的に消去し続けた。

それは感情の赴くままに組織へ牙を剥くような、無軌道で無謀な反逆ではない。

息子を確実に生かすためだけにすべてを計算し尽くした、極めて冷徹で狂気じみた例外処理だったのだ。

その途方もない孤独な作業を思い描く時、織部の胸の中枢に再びあの名付けようのない鈍い熱が広がっていく。

父がどれほどの絶望と隣り合わせで、この不確かな未来への設計図を描いたのかを正確に理解したからだ。

一万日分の手帳に記されたあの子は元気だろうかという祈りの文字列が、織部の回路を激しく駆け巡る。

その祈りの重さが今の織部が打ち込むコードの一行一行に、確かな質量を与えていくようだった。


今織部は無表情のままモニターに向かい、静かに長く息を吐き出した。

冷たい青白い光に照らされた彼の顔には、いかなる感傷的な感情も浮かんでいない。

だが彼の指先は三十年前に父が実行したその例外処理の方法を、そっくりそのままなぞるように反復している。

パブリッシャーという絶対的な管理者の待機命令に背き、クロノスという暴力の網の目をすり抜ける。

そしてあの夜の自分と同じように、ただ一つの家族を例外として無慈悲な世界から弾き出す。

父と全く同じその方法を、息子である自分が無意識のうちに選択して実行しているのだ。


これが血による継承のアルゴリズムなのか、あるいは手帳を自らのシステムに読み込んだことによって生じた未知のエラーなのか。

織部の高度な解析能力をもってしても、その複雑な因果関係を明確に判定することはできなかった。

しかしその理由が何であれ、キーボードを叩く彼の手が止まることは絶対になかった。

判定できない変数を抱え込んだままでも、織部はパブリッシャーの最高傑作として完璧に機能し続けている。

いやむしろ不確定なエラーを自ら許容したことによって、彼の思考の並列処理はこれまでにないほどの圧倒的な速度と精度を獲得していた。

守るべき対象を明確に認識したエージェントは、ただの機械よりもはるかに恐るべき性能を発揮するのだ。


偽装IDの生成が完全に終了し、監視カメラへのノイズの侵入プログラムが次々とコンパイルされていく。

パブリッシャーの命令に対する静かな反逆として始まったこの独自行動は、作業が佳境に近づくにつれて織部の内部でその意味合いを変容させていた。

反逆という言葉にはどこか感情的で、体制に対する盲目的な怒りや破壊衝動がどうしても含まれている。

だが現在の織部の心の中枢にあるのは、そのような不安定で制御不能な熱情では決してない。

もっと静かで冷徹で、透き通るような論理の刃がそこには存在している。


個人を許容コストとして無慈悲に切り捨てる巨大な計算式は、果たして本当に正しい世界なのだろうか。

それを正常な仕様であると認識しているパブリッシャーの冷酷なマニュアルこそが、実は狂っているのではないか。

織部は今そのマニュアル自体が、修復不可能なほど致命的な欠陥を含んだバグであると明確に認識している。

ならば自分がなすべきことは感情的な反逆ではなく、欠陥のある仕様書に対して正しい結果を導き出すための冷徹な修正を行うことだ。

それは彼がパブリッシャーに引き取られて以来、無数の過酷な任務で完璧に遂行してきた校正の作業と何ら変わらない。

ただ一つだけ違うのは、今回の校正がパブリッシャーからの命令ではなく織部悟という個人の意志によって選択されたということだ。

誰かの意志に操られる歯車から自ら思考する主体へと、彼は明確な飛躍を遂げようとしていた。

システムに組み込まれた観測者ではなく、システムそのものを書き換える設計者としての新たな立ち位置である。


「例外処理のコード、生成完了」

織部は誰に宛てるでもなく、微かに声に出して宣言した。

父が命を賭して実行し梶川が三十年かけて見守り続けたその方法を、息子である織部が今、自らの手で継承しようとしている瞬間だった。

窓の外では夜明けの淡い光が、眠りから覚めようとする街の輪郭を少しずつ鮮明に浮かび上がらせている。

部屋の温度がわずかに上がり、新しい一日の始まりを告げる小鳥の囀りが遠くから微かに聞こえてきた。

織部は実行のエンターキーの上に静かに指を置き、無数の文字列が流れる冷たいモニターをじっと見つめた。

ここから先は彼自身が巨大なシステムに忍び込ませたノイズとなって、組織の論理を内側から書き換えていく実践のフェーズとなる。

冷え切った部屋に差し込む朝日に照らされても、彼の顔には相変わらず何の表情も浮かべていない。

だがその無機質な瞳の奥には、父の方法を受け継いで世界を正しく校正しようとする、冷たく鋭い光が宿っていた。

一万日分の祈りを受け取ったエージェントは、ついに自分自身の戦いを開始したのである。



【マニュアルキラーシリーズ】

マニュアルキラー 第1部

 〜その「説明書」を信じてはいけない〜

https://ncode.syosetu.com/n4289lo/

マニュアルキラー 第2部

 ~校正なき改竄~

https://ncode.syosetu.com/n4641ls/

マニュアルキラー 第3部

 ~不適切な運用に関する修正履歴~

https://ncode.syosetu.com/n4150lw/

マニュアルキラー 第4部

 ~源流…~

https://ncode.syosetu.com/n7895mb/

マニュアルキラー 第5部

~戦争を止める仕様書~

https://ncode.syosetu.com/n5481mc/


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