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マニュアルキラー 第6部 父の手帳  作者: 早野 茂


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第10話「設計図の読み方」

織部は暗号化されたローカル領域で、昨夜から着手した新たな計算式を走らせていた。

深夜から朝にかけてクロノスの中枢から抽出した膨大なデータ群を、これまでとは全く異なる目的で解析していく。

パブリッシャーの精鋭エージェントとしての通常のタスクであれば、標的の弱点を見つけ出し、最も効率的に組織全体を崩壊させるための爆破点を探すだけでよかった。

しかし現在の彼が構築しようとしているのは、破壊のためのプロセスではない。

クロノスの巨大な暴力の網の目から、今まさに「整理」されようとしている末端の人々を、誰にも気づかれずに救い出すための脱出ルートの設計である。

昨夜から続くその設計の最初の対象として、織部の視覚センサーは一つの切迫した事象を捉えていた。

クロノスの不正な資金洗浄システムに気づき、警察に内部告発を企てた下請け企業の経理担当者。

彼は三十年前のあの運び屋の男と同じように、妻と五歳になる幼い娘を抱えていた。

その動きはすでにクロノス側に察知されており、今夜にも実行部隊が彼の家族ごと「処理」に向かう手はずになっている。

三十年前に父が経費決裁の判を押したあの粛清の報告書と、全く同じ凄惨な構図がそこにあった。

織部は彼らをシステムの外側へと逃がすための偽装IDを生成し、監視カメラの死角をつなぎ、組織の追手が到着する前に安全な保護下へと移す経路を画面上で組み上げていく。

それは、これまでの彼が一度も行ったことのない、誰かを生かすための緻密な設計だった。


その精緻な設計作業が佳境に入ろうとした時、端末の画面に不意に赤い警告のポップアップが割り込んできた。

パブリッシャーの中枢指令サーバーからの、最高優先度の暗号通信だった。

織部は作業を一時凍結し、その短いテキストメッセージを復号化して読み込んだ。

そこには、織部の予測を覆す冷徹な命令が記されていた。

『対象組織・クロノスへの一切の介入を一時凍結せよ。直ちに待機モードへ移行し、次の指令を待て』

織部の内部で、論理のアルゴリズムが高速で回転し、その命令の背景を瞬時に計算していく。

クロノスの中枢を今潰せば、背後で繋がる別の大規模なシンジケートにも影響が及び、裏社会全体の「均衡」が崩壊する。

パブリッシャー自身の活動ラインへの損害を避けるため、影響を最小限に抑える「最適なタイミング」が訪れるまで、一切の手出しを禁ずるという判断だ。

巨大な組織を維持し、世界を管理するためには極めて妥当で、完璧に合理的な「仕様」だった。


これまでの織部であれば、その命令に対して一秒の遅滞もなく「了解」の二文字を返送していたはずだ。

彼が行ってきた数々の校正作業は、常にパブリッシャーという巨大なシステム全体の整合性を守るためのものだったからだ。

もし命令に矛盾や非効率なバグが含まれていれば、エージェントとして最適な修正案を提示し、論理的に「反論」することはあった。

しかし今、織部の内部に生じているのは「反論」ではない。

彼は初めて、パブリッシャーの絶対的な仕様そのものに対して、明確な「疑問」を抱いていた。

反論とは、既存の論理の枠組みの中で、より良い効率を求めて組み立てられるものだ。

だが疑問は違う。疑問は論理の前に現れ、枠組みそのものの根源的な意味を問い詰めるノイズだ。

その非合理的な熱は、昨日骨董品店で一万日分の手帳を受け取ってから、彼の心の中枢で静かに燃え続けているものだった。


織部はキーボードに指を置き、暗号回線の向こう側にいる上層部――あるいは冷徹に状況を管理するシステムそのもの――に向けて、短いテキストを打ち込んだ。

『待機命令は確認した。だが現在、対象組織は稼働中であり、今夜にも末端の告発者とその家族が処理される。均衡を守るための待機期間中にも、誰かの家族が確実に破壊される』

織部は一拍のラグを置いて、最後に一つの根源的な問いを付け加えた。

『その損失は、全体の計算式に入っているか』

数秒の重苦しい沈黙が、暗号化された回線を支配した。

パブリッシャーの上層部からすれば、単なる機能としてのエージェントがこのようなシステム全体の方針に関わる問いを投げてくること自体が、極めて異常な事態であるはずだ。

しかしやがて、画面の中央にたった一行の短い返答が表示された。

『入っている。許容コストとして』


許容コスト。

その五文字の無機質な文字列を見た瞬間、織部の中で何かが完全に冷え、そして同時に強く結像した。

巨大なシステムを維持し、世界の均衡を保つために、切り捨てられ、踏みにじられる無名の命。

全体から見れば微小なエラーにすぎない個人の感情や生活は、最初から彼らの計算式の中では保護の対象外なのだ。

三十年前に運び屋の家族を引き裂き、その父親を海の底に沈めたクロノスの前身組織。

そして現在のクロノス。

そして、それを監視し管理しようとするパブリッシャー。

目的や規模は違えど、個人の日常を「許容コスト」として無慈悲に切り捨てるという根本的なアルゴリズムにおいて、これらはすべて同種の怪物だったのだ。

父はその冷酷な計算式の中枢にいて、最後は自らの命を賭してでも、息子である織部だけを「許容コスト」の例外として枠組みの外へ弾き出した。

そして梶川に手帳を託し、三十年間という非合理的な時間をかけて、不確かな未来を見守り続けた。

織部はその「許容コスト」という文字列を見つめたまま、一切の感情を交えずにただ深く静かに呼吸をした。

彼はこれ以上、上層部に向かって何も言わなかった。

言葉で反論することに、もはやなんの意味もないことを明確に悟ったからだ。

織部は画面に『了解した』とだけ短く打ち込み、パブリッシャーとのメイン通信を完全に切断した。


表向き、織部の端末はパブリッシャーの指令通りに深い待機モードへと移行した。

端末のステータスランプは穏やかな緑色に変わり、システムは完全に沈黙したかのように偽装されている。

だが織部は、メインフレームから完全に切り離されたローカルの最深部で、先ほどの設計図を再び静かに展開させた。

かつて、果てしなく広がるバルカシアの砂塵の中で、彼は過酷な任務を通じて一つの重要な法則を学んでいた。

待機とは、ただ思考を停止して状況に身を委ねることではない。

次に来るべき最適な行動のために、水面下で最も鋭利な刃を研ぎ澄まし、あらゆる変数を予測して準備を整えるための、極めて能動的な時間のことだ。

パブリッシャーが世界の均衡を守るために、冷酷な計算式を回し続けるのならそれでいい。

自分はもはや、その仕様書に従うだけの完璧な機械ではないのだ。

織部の心の中枢には、宛先のない祈りを受け取った一人の人間としての処理できないエラーが、確かな熱を持って脈打っている。

パブリッシャーの待機命令の裏側で、彼は今夜まさに破壊されようとしている家族を逃がすためのルートを、さらに緻密に組み上げていく。

監視カメラのループを書き換え、組織の通信網にノイズを忍び込ませる。

それはもはや与えられた任務の遂行ではなく、織部悟という個人の意志による、巨大なシステムへの静かな反逆の始まりだった。

冷たいモニターの光に照らされた彼の顔に表情はない。

だがその瞳の奥には、新たな設計図を完璧に読み解こうとする、静かで強烈な決意の光が宿っていた。


【マニュアルキラーシリーズ】

マニュアルキラー 第1部

 〜その「説明書」を信じてはいけない〜

https://ncode.syosetu.com/n4289lo/

マニュアルキラー 第2部

 ~校正なき改竄~

https://ncode.syosetu.com/n4641ls/

マニュアルキラー 第3部

 ~不適切な運用に関する修正履歴~

https://ncode.syosetu.com/n4150lw/

マニュアルキラー 第4部

 ~源流…~

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マニュアルキラー 第5部

~戦争を止める仕様書~

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