21話 雨上がりの準備
次の日、ナオは宿の入口で、サチが広げた布を押さえていた。
朝から風が少し強い。
昨日までの雨気を飛ばすように、町の通りを乾いた風が抜けている。
宿の入口に置かれた香り草と花も、風に揺れていた。
サチはその横で、少し古くなった布を確認している。
客室で使っていたものを、荷物を包む用に回せるか見ているらしい。
「これ、まだ使える?」
サチが聞いた。
ナオは布の端を持ち上げる。
「破れてないし、いけるんじゃないか」
「でもちょっと薄いんだよね」
「荷物を包むだけなら大丈夫だろ」
「濡れたら弱いかも」
「雨の日は避けた方がいいな」
「そういう判断、冒険者っぽくなってきたね」
サチは少し笑った。
「布を見て冒険者っぽいって言われるとは思わなかった」
「だって、前ならただの古い布で終わってたでしょ」
「まあ、そうだな」
「今は濡れたらどうとか、荷物に使えるとか考えるじゃん」
ナオは布を見ながら、少しだけ納得した。
たしかに、最近は物を見る時の感覚が変わってきた。
ただの布。
ただの縄。
ただの水袋。
そういうものが、依頼や移動ではかなり大事になる。
剣や杖だけでは足りない。
護衛依頼で荷物を結び直した時も、そう思った。
「今度、ちゃんとした荷物用の布も買っておくか」
ナオが言うと、サチは少し目を細めた。
「旧道用?」
「いや、普通の依頼用」
「ほんと?」
「半分くらい」
「正直でよろしい」
サチは笑った。
ナオも笑ったが、内心では旧道のことを考えていた。
勝手には行かない。
サチとも約束した。
ミーとも、リュウが約束した。
ガルドからも止められた。
それでも、準備くらいはしておきたい。
いつか正式な調査依頼が出た時に、何もできないままでは困る。
そう思ってしまう。
「ナオ」
サチの声で、ナオは顔を上げた。
「また考えてたでしょ」
「分かるか?」
「分かる」
「やっぱり顔に出てるのか」
「出てる」
サチは布を畳みながら言った。
「準備するのはいいと思うよ」
「いいのか?」
「うん、勝手に行くんじゃなくて、ちゃんと準備するなら」
サチは畳んだ布を木箱の上に置いた。
「むしろ、準備しないで行かれる方が嫌」
「それはそうだな」
「だから、準備はしていい」
「ああ」
「でも、行く時は言う」
「分かってる」
「帰る予定も言う」
「分かってる」
「無理しない」
「分かってる」
「何割?」
「10割」
「よし」
サチは満足そうにうなずいた。
その時、階段からリュウが降りてきた。
今日は少し眠そうだが、荷物袋を肩にかけている。
珍しく、最初から出かける気があるようだった。
「おはよう」
ナオが言う。
「おはよう」
リュウは軽く手を上げた。
「今日は準備するんだろ?」
「まだ何も言ってないぞ」
「昨日、食堂で言ってただろ、ちゃんとした布とか縄とか見ておきたいって」
「聞いてたのか」
「聞いてた」
「じゃあ今日は買い物か」
サチが言う。
「買いすぎないでよ」
「エルが減るからな」
ナオが答える。
「カジノで増やすとか言わないでよ」
サチがリュウを見る。
「まだ言ってない」
「顔が言ってる」
「顔、便利に使われすぎだろ」
「リュウの顔が便利なんだよ」
サチは笑った。
リュウは少し不満そうにしながらも、反論はしなかった。
「今日はギルドで依頼見る前に道具屋か?」
リュウが聞く。
「軽く見てからギルドでいいんじゃないか」
「旧道の依頼、出てるかもな」
「出ててもすぐには受けない」
「分かってる」
「何割?」
「10割」
「今日は早いな」
「ミーと約束したからな」
リュウは少し照れたように目をそらした。
サチがにやっとする。
「効いてるね」
「効いてる」
リュウは素直に認めた。
3人で少し笑ったあと、ナオとリュウは宿を出た。
屋台でパンと串焼きを買い、歩きながら食べる。
今日はリュウが串焼きを3本買った。
ナオが横目で見る。
「止まらなかったな」
「今日は動く日だから」
「都合がいいな」
「昨日止まったし」
「食欲は止まらないんだな」
「これも準備だろ」
「何の?」
「体力」
「それは言い訳だ」
リュウは笑いながら串焼きをかじった。
道具屋は、ギルドへ行く途中の通りにあった。
店先には水袋や布、縄、小さなランプ、火打ち道具、簡単な薬などが並んでいる。
ナオたちは前にも来たことがあるが、今日は見る目が少し違った。
以前は何が必要なのか、店主に聞かないとほとんど分からなかった。
今は少しだけ分かる。
雨の日に濡れにくい布。
荷車の荷物を縛る縄。
滑りにくい靴底。
携帯しやすい食料。
どれも、必要になる場面が想像できる。
「これ、斜面で使えそうだな」
リュウが縄を手に取った。
「昨日滑ったからか?」
「昨日じゃなくて一昨日だろ」
「まだ最近だ」
「まあ、効いてる」
リュウは縄を引っ張って強さを確かめる。
「今度斜面行くなら、こういうの必要だな」
「ああ」
「俺が滑っても、これで止められる」
「滑らない前提にしてくれ」
「10割滑らない、でも備えはいる」
「それは正しい」
ナオは厚手の布を見た。
雨を弾く油が染み込ませてあるらしい。
少し高い。
でも、荷物を守るには使えそうだった。
「これ、買っておくか」
「高くないか?」
「高い」
「カジノなら増やせるかも」
「言うと思った」
「冗談だって」
「本当に?」
「8割冗談」
「2割本気じゃないか」
リュウは笑った。
結局、ナオたちは丈夫な縄を1本、油染みの布を1枚、小さな予備の水袋を買った。
エルは少し減った。
でも無駄遣いではない。
少なくとも、そう思いたかった。
「こういう買い物って、勝った気がしないな」
リュウが言った。
「買い物で勝った気がする必要あるか?」
「エルが減っただけじゃん」
「でも必要な物が増えた」
「装備に変わったってことか」
「そういうことだな」
「じゃあ勝ちか」
「単純だな」
「分かりやすい方がいい」
2人は道具を袋に入れ、ギルドへ向かった。
受付では、いつものようにミーが書類を整理していた。
木の鳥飾りは、今日も棚の上に置かれている。
リュウが近づくと、ミーがすぐ顔を上げた。
「あ、リュウさん、ナオさん、おはようございますです」
「おはよう、ミー」
「おはよう」
ナオも声をかける。
ミーはリュウの荷物を見る。
「今日は荷物多いですね」
「道具買った」
「旧道用ですか?」
「いや、準備用」
「同じじゃないですか?」
「まあ、近い」
リュウは少し苦笑した。
ミーは少し真面目な顔になる。
「勝手に旧道行かないですよね?」
「行かない」
「本当ですか?」
「約束しただろ」
「はい、約束しました」
ミーはうなずいた。
「なら信じます」
「何割?」
「今日は10割です」
「おお」
「でも、旧道を見たら9割になります」
「下がるのか」
「心配なので」
リュウは少しだけ照れたように笑った。
「分かった、行かない」
「よしです」
ミーは満足そうにうなずいた。
ナオは掲示板を見る。
旧道の正式調査依頼は、まだ出ていなかった。
代わりに、町の北側の倉庫で雨漏り確認の依頼が貼られている。
昨日までの雨で、倉庫の屋根の一部から水が入ったらしい。
荷物を移動し、濡れている場所を確認して、必要なら簡単な補修を手伝う。
危険度は低い。
報酬もそこそこ。
「これ、道具の練習にもなるかもな」
ナオが言うと、リュウが依頼書をのぞき込んだ。
「雨漏り確認か」
「布とか縄を使うかもしれない」
「買ったばかりの道具をいきなり使うのか」
「使うために買ったからな」
「それもそうだな」
ミーが依頼書を見て言った。
「これ、いいと思います、旧道じゃないですし」
「判断基準そこか」
「はい、今日は旧道じゃない依頼が安心です」
「ミーが安心するならこれにするか」
リュウが何気なく言うと、ミーの耳が少し動いた。
「私が安心すると、いいんですか?」
「まあ、心配されるよりはいいだろ」
「そうですね」
ミーは少し嬉しそうに笑った。
ナオは見ないふりをしながら手続きを進めた。
倉庫は町の北側にあった。
前にも小型の魔物を捕まえた辺りに近い。
今回は魔物ではなく雨漏りだ。
依頼主の男は、倉庫の前で困った顔をしていた。
「昨日から少し水が入ってな、薬草じゃないからまだいいが、布や木箱が濡れると困る」
「分かりました」
ナオは倉庫の中に入る。
天井の端から、水が少し落ちた跡がある。
床には湿った場所があり、木箱がいくつかそこに置かれていた。
「まず荷物どかすか」
リュウが言う。
「ああ」
2人は濡れそうな木箱を移動した。
重いものはナオが持ち、リュウが位置を確認する。
足元にはまだ湿った場所がある。
「滑るなよ」
ナオが言うと、リュウはすぐに答えた。
「今日は倉庫だから滑らない」
「倉庫でも滑る時は滑る」
「分かった、10割気をつける」
「それならいい」
木箱を移動し終えると、屋根の隙間を確認することになった。
倉庫の中には古いはしごがあった。
リュウがすぐに手をかける。
「俺が上る」
「待て」
「なんでだよ」
「はしごが古い」
ナオははしごを揺らして確認した。
少しきしむ。
折れるほどではないが、油断はできない。
「俺が支える」
「分かった」
「上で動きすぎるなよ」
「分かってる」
「何割?」
「10割」
リュウは慎重にはしごを上った。
ナオは下で支える。
リュウは天井近くの隙間を確認した。
「ここ、少し浮いてる」
「直せそうか?」
「布を当てれば応急処置できそう」
「買った布使うか」
「いきなりだな」
「使うために買った」
ナオは油染みの布を取り出し、小さく切らずに折って使うことにした。
倉庫の持ち主に確認し、木の板と布で隙間を一時的に押さえる。
リュウが上で位置を合わせ、ナオが下から道具を渡した。
「リュウ、右少し」
「この辺か?」
「もう少し」
「ここ?」
「ああ」
「ナオ、こういうの上手いな」
「見てるだけだからな」
「指示が細かい」
「サチにも言われる」
「宿でもやってるのか」
「たまにな」
リュウは笑いながら布を押さえた。
その時、はしごが少しきしんだ。
ナオはすぐに支え直す。
「動くな」
「動いてない」
「はしごが動いた」
「怖いこと言うな」
「早く終わらせろ」
「分かってる」
リュウは慎重に作業を終えた。
下りてくる時も、いつもよりかなりゆっくりだった。
地面に足が着くと、リュウは大きく息を吐いた。
「高いところはまた別の緊張感あるな」
「滑るより怖いか?」
「どっちも嫌だ」
「いい教訓だな」
「最近、教訓ばっかりだ」
ナオは笑った。
応急処置が終わり、濡れた床に布を敷いて水を吸わせる。
倉庫の持ち主はかなり助かったようだった。
「本格的な修理は職人を呼ぶが、とりあえず荷物は守れそうだ」
「よかったです」
ナオが答える。
「君たち、冒険者なのにこういう作業も丁寧だな」
「最近、こういうの多いんです」
リュウが言うと、男は笑った。
「冒険者は何でも屋だからな」
「やっぱりそうなんですね」
「魔物を倒すだけが仕事じゃない」
その言葉は、最近何度も感じていたことだった。
ナオはうなずく。
「本当にそうですね」
報告用の札を受け取り、2人はギルドに戻った。
途中、リュウは少しだけ上機嫌だった。
「買った道具、いきなり役に立ったな」
「ああ」
「エル減っただけじゃなかった」
「だから言っただろ」
「準備って大事だな」
「急に真面目だな」
「はしごがきしむと、人は真面目になる」
「それは分かる」
ギルドに戻ると、ミーが受付で待っていた。
「おかえりなさいです、倉庫どうでした?」
「雨漏りを応急処置した」
ナオが札を渡す。
「道具、役に立った」
リュウが言うと、ミーは嬉しそうに笑った。
「準備の成果ですね」
「ああ」
「リュウさん、走ったり滑ったり上から落ちたりしませんでした?」
「上から落ちるが増えたな」
「はしごがあったって聞いたので」
「情報早いな」
「依頼書に書いてありました」
「読んでたのか」
「受付なので」
ミーは少し胸を張った。
「でも落ちてない」
「よかったです」
「10割無事」
「今日は本当に10割ですね」
ミーがにこっと笑うと、リュウは少しだけ照れた顔をした。
ナオは報酬を受け取りながら、掲示板の奥を見た。
旧道の依頼はまだない。
それでいい。
今日は準備をして、その準備を別の依頼で使った。
それだけで十分だった。
「ミー、旧道の件で何か追加あったか?」
ナオが聞くと、ミーは少しだけ声を落とした。
「ガルドさんがギルド長さんと話してました、たぶん近日中に調査依頼が出ます」
「そうか」
「ただ、条件付きになるかもです」
「条件?」
「2人だけじゃなくて、補助ができる人を入れるとか、ガルドさんの確認を受けるとか」
「なるほど」
「ナオさんとリュウさんだけで受けられるかは、まだ分からないです」
「分かった」
リュウも黙って聞いていた。
前なら不満を言ったかもしれない。
でも今は言わなかった。
それが少しだけ成長に見えた。
ギルドを出ると、夕方の町にはカジノの看板が灯り始めていた。
リュウはちらっと見る。
ナオも見る。
「今日はどうする?」
リュウが聞いた。
「行かない」
「即答だな」
「準備でエルを使った」
「たしかに」
「今日カジノで減らしたら意味ない」
「それは痛いほど分かる」
「痛いのか?」
「想像すると痛い」
リュウは少し笑った。
「じゃあ今日は飯だな」
「ああ」
宿へ戻ると、サチが入口で客と話していた。
話が終わると、ナオたちに気づいて手を振る。
「おかえり」
「ただいま」
「今日はどうだった?」
「倉庫の雨漏りの応急処置をした」
「冒険者って本当に何でもするね」
「俺たちもそう思った」
ナオは買った油染みの布が役に立ったことを話した。
サチは少し嬉しそうにうなずく。
「ほら、準備してよかったじゃん」
「ああ」
「勝手に旧道行くための準備じゃなくても、役に立つでしょ」
「そうだな」
「だから、準備はしていい」
サチはそう言ってから、少しだけ念を押すように続けた。
「でも勝手には行かない」
「分かってる」
「何割?」
「10割」
「よし」
リュウが横から言う。
「今日はカジノも行かない」
「えらいじゃん」
サチがすぐに言った。
「準備でエル使ったからな」
「ちゃんと考えてる」
「俺も成長してる」
「今日のそれは認める」
「おお」
リュウは少し嬉しそうだった。
その夜、ナオとリュウは近くの食堂で飯を食べた。
カジノには行かなかった。
リュウは少しだけ見ていたが、今日は本当に足を向けなかった。
「準備って、地味だけど大事だな」
リュウが言った。
「そうだな」
「今日の布も、買ってなかったら困ったかもしれないし」
「ああ」
「旧道行くなら、もっと必要だな」
「そうだな」
「もう1人のことも」
ナオは水を飲み、少しだけ考えた。
「サチと少し話した」
「何を?」
「いつか外に行くことがあるなら、考えるくらいはしてもいいって」
リュウは肉を食べる手を止めた。
「サチが?」
「ああ」
「マジか」
「今すぐじゃないけどな」
「でも、そういう話になってきたんだな」
「ミーは?」
ナオが聞くと、今度はリュウが少し固まった。
「なんで俺に聞く」
「ギルドの受付だからな」
「その言い方ずるいな」
「お前が使ってた言い方だろ」
リュウは少しだけ笑った。
「ミーは……どうだろうな」
「外に出たいとは言ってたな」
「道に迷いそうだけどな」
「そこはお前が案内するんだろ?」
「ナオ」
「何だ?」
「その顔やめろ」
「顔に出てたか?」
「出てる」
2人は少し笑った。
まだ何も決まっていない。
旧道の正式調査も出ていない。
サチが一緒に行くわけでも、ミーが同行するわけでもない。
でも、少しずつ話はそこへ向かっている。
準備をする。
約束を守る。
必要なものを考える。
誰と行くのかを考える。
それは、大きな冒険の前の、静かな時間だった。
ナオは食堂の窓から外を見る。
カジノの光。
ギルドの明かり。
宿の方角。
そして、その先にあるまだ見ぬ旧道。
焦る必要はない。
けれど、止まっているわけでもない。
今日は準備をした。
その準備が、すぐに役に立った。
それだけで、少し前に進んだ気がした。
ナオは水を飲み、静かに息を吐いた。
次に進むためには、走るだけでは足りない。
止まること。
戻ること。
備えること。
そして、誰かと約束すること。
その全部が、今のナオたちには必要だった。




