第47話 王女と母の面影
差し込む光で目を覚まし、体を起こす。部屋は静かだった。いつもなら混じる誰かの気配も、今日はやけに遠い。
テーブルに視線を向けると、一通の封書がそこに置かれていた。見覚えのない紋章だが、どこかで見た気がした。
立ち上がり、手に取る。封を切る音が、やけに大きく響いた。
中の紙を開く。筆跡は整っていて、余白が多く、短い文章で必要なことだけが書かれている。
――セレナ・ヴァルドゥナ。
その名を見た瞬間、視線が止まり、最後まで読み切って紙を閉じる。そのまま、しばらく立ち尽くした。
(……王女様)
理由は書かれていない。ただ、呼ばれているだけで、指先がわずかに強く紙を持つ。
そのとき、フードの中で、もぞりと動く気配がした。ビビが顔を出し、小さく鼻を鳴らす。黒い瞳が、じっとこちらを見上げる。
次の瞬間、小さな体が肩へとよじ登り、頬の近くに擦り寄る。柔らかい毛が触れ、軽く何度も撫でるように動く。
私は息を吐く。
「……ありがと」
小さく言うと、ビビは満足そうに尻尾を揺らし、またフードの中へ潜り込んだ。
手紙を机に置き、一度だけ視線を落として、そのまま扉へ向かう。
「……みんなにも言わないと」
♦︎
朝食会場は、いつも通りの賑やかさだった。パンの焼ける香りと食器の触れ合う音が混ざっている。
ラーラがすでに席に座り、果物をつまみながらこちらに気づく。
「遅いじゃない。何かあった?」
「ちょっとね」
短く返し、席につく。
ルークも向かいに座り、スープを口に運びながら視線だけを上げる。レオンは少し離れて立っていた。
私は封書を取り出し、テーブルの上に置く。
「王女様から誘われたみたいなんだよね〜」
それだけでラーラの手が止まり、「……は?」と声を漏らす。ルークも眉を寄せる。
「お茶会に呼ばれたんだよね」
紙を軽く押し出すと、ラーラがそれを引き寄せ、ざっと目を通す。
「理由、書いてないのね」
「うん」
ルークが腕を組む。
「いつあるの?」
「明日の午後」
短く答えると、空気が少しだけ変わる。
ラーラが息を吐く。
「急ね」
「今日じゃなくてよかったな」
ルークが言い、視線をレオンへ向ける。
「……これって、断れねぇよな?」
レオンはそのまま視線を受け、「断る選択はありません」と即答する。迷いはない。
「ですよねぇ」
ラーラが苦笑する。
私はレオンへ向き直る。
「返事、出さないといけないよね?」
「はい」
「このあと、一緒に作ってくれる?」
ほんの一瞬だけ間があったが、すぐに頷く。
「承知しました」
それで話は決まる。
ラーラが肩をすくめる。
「王女様のお茶会ねぇ……優雅なもんだね」
「優雅かどうかは行ってみないと分からない。というか、緊張して会話できるのかそっちが心配だよ〜」
私はパンに手を伸ばしながら言う。その動きはいつも通りだが、指先だけが少しだけ硬い。
ルークがそれを見て、何も言わずにスープを飲む。音だけが続く。
♦︎
その日、やるべきことは済ませた。返書も出し、誰にも呼ばれない時間が久しぶりに続く。
部屋に戻り、椅子に座る。窓の外で風が動き、カーテンが揺れる。
机に手を置き、指先で木目をなぞる。考えようとしてやめる。
何度か息を整えた。
ビビがフードの中で丸くなり、静かな寝息を立てる。
時間が過ぎ、外の光はゆっくりと傾き、やがて夜に沈んでいった。
♦︎
翌日。
王宮へ向かう馬車の中で、布の擦れる音が静かに響く。
膝の上の白い正装に指先が触れる。選んだのは、視察官の服だった。ドレスではない。役割を外さない、それが今の自分だと分かっている。
馬車が止まり、扉が開いて外の空気が流れ込む。
一歩踏み出す。
案内に従い石造りの回廊を進む。音が反響し、人の気配は少ない。
奥へ、さらに奥へ進むと、やがて光が広がる。
扉が開き、視界が一気に抜ける。
――フロレリア庭園。
色とりどりの花が一面に咲き広がり、混ざり合う香りが風に乗って静かに流れてくる。中央には白いテーブルが整えられ、すでに紅茶の準備が整っていた。
私はゆっくりと歩を進め、勧められた椅子に手をかけて腰を下ろし、背筋を伸ばす。
風が花を揺らす音だけが通る。
しばらくすると、砂利を踏む足音が遠くから近づいてくる。一定の速さで、迷いのない足取りだった。
視線を上げる。
回廊の奥から一人の女性が姿を現し、淡い髪が光を受けて揺れる。静かな歩みで近づいてくる。柔らかな気配なのに、目は逸らさず、まっすぐこちらを見ている。距離が縮まり、テーブルの前で足を止める。
「お待たせしてしまいました」
やわらかな声が庭に溶ける。
セレナ・ヴァルドゥナが静かに一礼する。
「来てくださって、ありがとうございます。」
私は立ち上がり、同じ高さで礼を返す。
「こちらこそ、お招きいただきありがとうございます。アイリー・エイジスです。」
視線が交わり、そのまま逸らさない一瞬の中で、ほんのわずかに何かを確かめるような間が流れる。
セレナが椅子に手をかけて座り、指先がカップに触れかけて止まる。
「今日は――少し、お話ができたらと思って」
風が通り、花が揺れ、紅茶の表面が静かに揺れる。
そのまま彼女は視線を外さない。
「視察官としてではなく……一人のあなたと」
その言葉が置かれた瞬間、空気の質が変わり、庭の静けさが少しだけ深くなる。
私はカップに手を伸ばし、その香りの中でゆっくりと口を開く。
――ここから先は、もう役割では進めない。
向かいに座るセレナが、カップに触れる前に一度だけ視線を上げる。
「……失礼ですが、お年はいくつでいらっしゃるの?」
柔らかい声だったが、言葉の置き方が丁寧に選ばれている。
「十八です」
短く答えると、セレナの表情がわずかに緩む。
「私、十九なの。歳の近い方とこうして話せるの、少し嬉しくて」
指先でカップの縁をなぞりながら、視線を少しだけ落とす。
「私には兄が二人いるのだけれど、歳も離れているし、それぞれお忙しくて……こうしてゆっくりお話しする機会は、あまりなくて」
その言葉は軽く置かれているのに、どこかで間を埋めるような響きを持っていた。
セレナはゆっくりと顔を上げる。
「だから、今日は来てくださって本当に嬉しいの」
そのまま、視線がまっすぐに向けられる。
「私も、お会いできて、ちゃんとお話しできて、嬉しいです」
セレナはその言葉を受けて、わずかに視線を和らげる。
「……あなたのこと、以前から拝見していました」
風が花を揺らし、色が揺れる。
「子どもたちを守ろうとする姿、とても勇気があって……かっこいいと思いました」
言葉を選びながら、静かに続ける。
「いえ、目の前のことしか出来ていませんが……」
私はそう返しながら、カップに手をかける。
セレナはその仕草を一度だけ見てから、視線を戻す。
「“盾の少女”と呼ばれていると、聞いています」
その呼び名を口にしたあと、ほんのわずかに間を置く。
「その……盾の魔法は、どのようなきっかけで使われるようになったのか、よろしければ聞かせていただけますか」
風が止まる。
花の揺れが一瞬だけ静まる。
私の指先が、カップの取っ手を軽くなぞる。
視線は落とさない。
「……昔の話です」
そう言って、ゆっくりと息を整える。
「小さい頃、村で家族と暮らしていました」
「ある日、野盗に襲われて……目の前で、両親と兄がやられました」
カップには口をつけない。
指先だけがわずかに動く。
「母が、とっさに私の髪を切って、煤を塗って……兄の服を着せて、隠してくれました」
視線はそのまま前に向いている。
「そのとき、初めて魔法が出ました。盾みたいなものが……勝手に」
言葉は途切れない。
「でも、守れませんでした」
一瞬だけ、指先が止まる。
それ以上は止まらない。
「それからです」
カップを静かに置き、指先を組む。
「守れるようになりたいと思ったのは」
風が戻る。
花がまた揺れる。
セレナはその話を最後まで聞き、ゆっくりと目を伏せる。
指先がカップに触れたまま、少しだけ力が抜ける。
「……ごめんなさい」
静かな声だった。
「辛い記憶を思い出させてしまったわね」
顔を上げるが、先ほどよりもわずかに深く相手を見る。
私は小さく首を振る。
「いえ」
カップを静かに置く。
「その過去があったから、今の私がいます」
視線はまっすぐ。
「だから……母たちが心配しないように、ちゃんと前を向いて生きていきたいと思っています」
その言葉が置かれたあと、風が少し強く吹き、庭の花が一斉に揺れる。
色が重なり合う中で、セレナの指先がわずかに震えたまま、カップを持ち上げることなく止まっていた。
セレナは、すぐには言葉を返さなかった。
揺れる花々を見つめたまま、呼吸を整える。
その沈黙は、不自然ではなかった。
やがて、ゆっくりと視線を戻す。
「……素敵なお母様ですね」
その声は、やわらかく、けれど芯を持っていた。
「その瞬間に、髪を切り、煤を塗る判断ができる方は……」
一度、まぶたを伏せる。
「ただ優しいだけでは、できません」
再び、アイリーを見る。
「状況を見極め、最善を選び取る強さがある」
「……そして、それを迷わず実行できる人です」
ほんのわずか、口元に微笑みが浮かぶ。
「……聡明で、とても強い方だったのでしょうね」
一拍。
「あなたのその行動力も、きっと――その血を、しっかり受け継いでいるのでしょう」
風が、またひとつ花を揺らした。
その色の揺らぎを、私は一瞬だけ目で追う。
そして、静かに口を開いた。
「……王妃様は」
わずかに、言葉を探す間があって。
「どんな母親、ですか?」
セレナは、すぐには答えなかった。
カップに触れかけていた指先が、わずかに止まる。
そのまま、視線を落とす。
庭の花ではなく――もっと遠くを見るような、目だった。
「……そうですね」
ゆっくりと、言葉を紡ぐ。
「とても、静かな人です」
風の音に溶けるような声。
「多くを語る方ではありません」
「けれど――」
そこで一度、言葉を区切る。
「誰よりも、よく見ている人です」
その一言に、確かな重みがあった。
「悲しみも、痛みも、言葉にならない想いも……」
「何も言わずに、受け止めてしまう」
指先が、わずかにカップの縁をなぞる。
「そして、気づかないところで……そっと、手を伸ばしている」
ほんの少しだけ、目元がやわらぐ。
「触れることもなく、支えることもあるのだと……」
「そう教えてくれた人です」
静かに息を吐く。
「……とても強くて」
「とても、優しい母です」
揺れていた花の色が落ち着きを取り戻し、風が一度だけ強く庭を抜けたあと、私はゆっくりと視線を上げてセレナを見た。
「……とても、素敵なお母様ですね」
その言葉はためらいなく出ていたが、声は自然と静かに落ちていた。
「多くを語らず、それでも見ていて、気づかれないように守っているなんて……」
「……簡単にできることじゃないです」
セレナはわずかに目を細め、そのまま視線を外さずに受け止める。
私は言葉を探すように一瞬だけ視線を揺らしたあと、まっすぐに続けた。
「すごく、強くて……優しい方なんだろうなって、思いました」
「……そんなお母様がいること、少し羨ましいです」
その言葉に、風の音だけが重なる。
セレナはすぐには何も言わず、ただ静かに頷いた。
庭の花がゆるやかに揺れ、会話はそのまま自然と別の話題へ移っていく。
視察の話になり、ルクス養育院で見た光景を思い出しながら、私は言葉を選ぶように口を開く。
「施設自体は……とても整っていました」
「食事も十分で、環境も安定していて……子どもたちが困っている様子はありませんでした」
そこで一度、言葉を切る。
セレナの視線は変わらず穏やかで、先を促すように静かに待っている。
私はほんのわずかに視線を落とし、指先を組み直す。
「ただ……」
声は小さくはなかったが、慎重さがにじんでいた。
「ほんの一部なんですが……気になることがあって」
セレナの指先が、カップの縁に触れたまま止まる。
「子どもたちの中に、妙に……整いすぎている子がいて」
言葉を選びながら続ける。
「年齢にしては落ち着きすぎていたり、言葉遣いが大人びていたり……」
視線が、花ではなくテーブルの上に落ちる。
「……うまく言えないんですけど、“子どもらしさ”が薄いように感じました」
断定はしない。
ただ、感じた違和をそのまま置くように。
「もちろん、全体としてはとても良い施設だと思います」
すぐにそう付け加える。
「政策としても、しっかり機能していると感じました」
セレナはわずかに頷き、何も否定せず、その言葉をそのまま受け取った。
風がまた庭を撫で、花の色が揺れる。
そのあとは、王都の外で起きている出来事や、最近の動きについての話が続き、気づけば日差しの角度が変わっていた。
庭に落ちる影が長くなり、空気がわずかに冷えている。
私はその変化に気づき、姿勢を整える。
どのタイミングで話を終えるべきか分からず、視線が一瞬だけ迷う。
それを見て、セレナが静かに立ち上がった。
「楽しい時間は、あっという間ですね」
やわらかな声でそう言い、アイリーへ向き直る。
「もしよろしければ……また、お茶会にお誘いしてもよろしいかしら?」
その問いは形式ではなく、個人としての言葉だった。
私は一瞬だけ息を整え、すぐに顔を上げる。
「はい、ぜひ」
言葉は迷いなく出ていた。
セレナは満足そうに微笑み、小さく頷くと、先に庭を後にする。
その背を見送りながら、私はようやく息を吐いた。
すぐに侍女が近づき、静かに案内を促す。
「こちらへ」
言われるままに歩き出し、庭を抜けると馬車が待っている。
扉が開かれ、私は一度だけ振り返ったが、セレナの姿はもう見えなかった。
そのまま馬車に乗り込み、扉が閉じる。
車輪が動き出し、石畳を離れていく振動が伝わる。
窓の外に流れる景色が変わる中で、ふと、別の光景が重なった。
低い天井と、古い木の床と、少しだけ煙の匂いが残る空気。
幼い頃に過ごした家の中。
その奥で、母の声が蘇る。
『あなたはすぐ一人で無理をするから、ちゃんと人に頼るんだよ』
私は視線を落とし、指先をそっと握る。
『その代わり、困ってる人がいたら手を差し伸べてあげるんだよ?』
あのときと同じ声が、はっきりと胸の奥に残る。
「……うん」
「ちゃんと頼る」
息を吸い、ゆっくりと吐く。
「でも――守る」
その言葉だけは、揺れなかった。
「守るって決めたものは、絶対に守る」
馬車は揺れながら進み続ける。
私は窓の外ではなく、自分の内側を見つめていた。
ここまで来てくれてありがとう!
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