第17話 甘い部屋の契約
歯車の冷たさが、まだ指に残っている気がした。
0824。
ただの数字のはずなのに、
家に入った瞬間、
“いなくなった”と知らされたときの、
ルークの声が、まだ耳に残っている。
あの場に、私がいなかったこと。
王都へ行っていたこと。
理由を並べても、
胸の奥に残るこの感じは、消えなかった。
ただの偶然かもしれない。
私のせいじゃないかもしれない。
――それでも。
ほんの一瞬でも、
“あの時、ここにいたら”と思ってしまう。
♦︎
ルークの家を出てから、少し時間が経った。
歩きながら、何度も横を見る。
ルークは、俯いたままだった。
いつもなら、何か一言は返してくる。
気まずい空気になれば、無理にでも軽口を叩く。
それが、彼のやり方だった。
けれど今は――
声をかけても、反応が遅れる。
視線は地面に落ちたまま。
背中が、目に見えて沈んでいる。
こんなふうに落ち込んでいるルークを、私は見たことがなかった。
胸の奥が、ひやりとする。
「……大丈夫?」
問いかけても、
彼は一瞬だけ顔を上げて、すぐに逸らした。
「……悪ぃ」
それだけだった。
“悪い”の意味が、分からない。
誰に対してなのか。
何に対してなのか。
きっと、本人にも整理できていない。
ラーラも、珍しく口数が少なかった。
冗談を挟む気配もない。
ただ、歩幅を合わせてくれている。
三人で並んで歩いているのに、
それぞれが、違う方向を向いている気がした。
私は、歯車をポケットの奥へ押し込む。
これ以上、触れていたら――
考えすぎて、前に進めなくなる。
もうすぐ、ギルドだ。
契約の話をしに来たはずなのに、
頭の中は、それどころじゃなかった。
――でも、立ち止まるわけにはいかない。
あの子を探すためにも。
ルークの背中を、これ以上沈ませないためにも。
私は、ひとつだけ深く息を吸った。
「……行こう」
そう言って、ギルドの扉を見上げた。
♦︎
ギルドの扉の前で、三人は足を止めた。
石造りの重たい扉。
何度も出入りしてきた場所なのに、
今日はやけに遠く感じる。
ルークの顔は強張ったまま。
ラーラも、いつもの軽口を叩く元気がない。
私も同じだった。
扉に手をかけた、その瞬間。
「ちょっとちょっと」
横から、ラーラがわざとらしく声を張る。
「そんな、しけた顔の人は入らないでちょうだい」
「ギルマスの部屋、暗くなるでしょ」
ルークが、わずかに眉をひそめる。
「……お前が言うな」
「言うわよ。今日は特に」
「重たい空気は、私が背負う役なんだから」
そう言って、ラーラは扉を押し開けた。
⸻
部屋の奥から、甘い匂いが漂ってくる。
「……」
入った瞬間、視界に飛び込んできたのは――
テーブルの上に並ぶ、色とりどりの六個のカップケーキが並んでいた。
甘い匂いが、場違いなくらい鮮やかに広がる。
ギルドマスターは、
そのうちの一つを、何の遠慮もなく頬張っていた。
「……お」
こちらに気づいて、口の端についたクリームを拭う。
「来たね。三人そろって」
「……顔、見ればだいたい分かるわ」
一瞬、場の空気が沈む。
ギルマスはそれを察したように、
指先でテーブルを軽く叩いた。
「立ち話は向かないわね」
「座りなさい。話は、甘いもの食べてからにしましょ」
「え、話って……」
ルークが言いかけるのを遮るように、ギルマスは言った。
「決まってるでしょ」
「その顔で来て、“何もありません”は通らない」
ギルマスは椅子を引きながら、受付の方へ声を飛ばす。
「ミレイユ、特別な紅茶を三人分」
「今日は、砂糖多めでお願い」
「はーい!」
明るい返事が、廊下の向こうから返ってくる。
「……」
私は、促されるまま椅子に座った。
ギルマスは、テーブルの中央に皿を寄せる。
「私のとっておきよ」
「本当は独り占めするつもりだったんだけど」
そう言って、三つのカップケーキをこちらへ押し出した。
「一人一個。特別ね」
「食べながらでいいわ。話は、逃げないから」
ルークは一瞬、戸惑った顔をしたが、
ラーラに肘で突かれて、無言で一つ取る。
私は、飾りの少ない淡い黄色のものを手に取った。
甘い香りが、ふっと鼻をくすぐる。
ひと口かじると、
思った以上に、やさしい甘さだった。
張り詰めていた胸の奥が、
ほんの少しだけ、ほどける。
ミレイユが紅茶を運んでくる。
「どうぞ。今日は特別ブレンドです」
湯気の立つカップを置いて、
にこっと笑って去っていった。
ギルマスは、私たち三人を順に見た。
「……で?」
少しだけ、声の調子が変わる。
「なにがあったの?」
ルークが、低く息を吐く。
「……家にいた、少年が居なくなりました」
「朝、目を離した隙に……」
そこから先は、
言葉にするほど、胸が詰まるらしい。
ラーラが続ける。
「そのあと、めっちゃ探しました」
「森も、街道も……どこにも居なかったの」
私は、0824と書かれた歯車のことを話した。
森に落ちていたこと。
少年が、絶対に手放さなかったこと。
少年が、この歯車を手放すなんてあり得ないこと。
ギルマスは、黙って聞いていた。
途中で口を挟まない。
茶化さない。
慰めもしない。
ただ、最後まで、目を逸らさずに聞いた。
話が終わると、
ギルマスは、ゆっくりと紅茶に口をつける。
それから、ぽつりと。
「……あんたたち、ちゃんとやってたわよ」
ルークが、思わず顔を上げる。
「でもね」
ギルマスは、指でカップの縁をなぞりながら続けた。
「“守ろうとした”ことと、“守れた”ことは、違う」
「その違いに、気づける大人でいなさい」
きつい言い方でもない。
優しすぎる言い方でもない。
ただ、逃げ場のない“現実”だった。
「結果は変えられない」
「でも、背を向けなかったことまで、否定する必要はないわ」
一拍、置いて。
「自分を責め続けても、あの子は戻らない」
「……なら、今は“悔しい”って思いなさい」
ルークは、唇を噛んだまま、何も言わなかった。
私も、何も返せなかった。
ギルマスは、私たちを見回す。
「受け止めなさい」
「それができないうちは、前に進む資格もない」
重たい言葉なのに、
不思議と、胸の奥にすっと落ちてきた。
――逃げるな。
――でも、潰れるな。
そんなふうに、聞こえた。
ギルマスは、最後に一度だけ視線を向ける。
「……その顔のまま、本題の話をしても意味がないわ」
「まずは、息を整えなさい」
カップケーキの甘さが、まだ口の奥に残っていた。
紅茶を一口飲み込むと、喉に絡んでいた重たい空気が、少しだけほどける。
「……ほら。少しは顔が戻ったでしょう」
ギルマスは、空になった皿を指先でくるりと回す。
「悲しいときに契約の話なんて、やりづらいわよね。
でもね――」
ふっと、表情が引き締まる。
「現実は、待ってくれないの」
その一言で、
場の空気が、ぴしりと張りつめた。
ギルマスは紅茶を置き、
三人の顔を順に見渡す。
「……じゃあ、話を続けましょうか」
そう言って、机の上の書類に手を伸ばした。
♦︎
ギルマスは、机の上に二通の書類を並べた。
一通は、王城の紋章が刻まれた任命書。
もう一通は、報酬と活動条件が細かく記された契約書。
「まずは、アイリー」
ギルマスは、王城の印が入った書類を指先で軽く叩く。
「王子直属・養育施設視察官の任命書よ」
私は、短く息を吸ってから頷いた。
「……はい。受け取ります」
ルークとラーラが、同時に顔を上げる。
「……は?」
「ちょっと待って」
ラーラが声を上げる。
「“王子直属”って、今さらサラッと言うけど、それ普通じゃないよね?」
「普通じゃないわね」
ギルマスはあっさり頷いた。
「しかも対象は――」
ギルマスは書類に視線を落とす。
「ルクス養育院、全施設」
「……全体?」
ルークの声が低くなる。
「一か所じゃなくて、あの系列全部かよ」
「そうよ」
ギルマスは淡々と頷いた。
「辺境も王都も関係ない。
現場を直接見て、声を拾って、王子に報告する役目」
ラーラが顔をしかめる。
「……それ、施設側からしたら、完全に“監査”じゃん」
アイリーは、静かに息を吸う。
「“監査”というより、
“現場の声をそのまま届ける役”です」
ルークは、アイリーを見る。
「……揉めるって分かってて、引き受けたのか」
「うん」
視線は逸らさない。
「だから、私が行く意味がある」
アイリーは、静かに続ける。
「大変なことなのは、十分に分かってるつもり。
でも、誰かがやらなきゃいけない役目だから」
その言葉に、ラーラが思わず息を吐いた。
「……ほんと、あんたってそういうとこだよね」
ギルマスは、もう一通の書類を手に取った。
「で――ここからが、あんたたちの話」
赤い封蝋が押された書類が、机の中央に置かれる。
「ルークとラーラには、国経由の護衛任務の依頼が来ているわ」
「……は?」
ラーラの口がぽかんと開く。
「ちょっと待って待って。
国経由って、それ、ギルドの通常依頼じゃないよね?」
「ええ。
“国指定”よ」
ルークの表情が、一気に強張る。
「対象は?」
「アイリーの護衛」
一瞬、空気が凍る。
「……マジで言ってんのか」
「王子様は本気みたいよ」
ギルマスは、椅子の背にもたれながら言った。
「視察官は、原則単独行動よ。
現場の声をそのまま拾う立場だから」
そして、視線をゆっくり三人に向ける。
「でも今回は――国が護衛をつけると決めた」
ラーラが真っ先に反応した。
「国が?
わざわざ?」
「ええ」
ギルマスは、赤い封蝋の書類を指で示す。
「王都経由の正式依頼。
対象は、アイリーの護衛任務」
一瞬、沈黙が落ちる。
ルークは、驚くというより――
確認するように静かに口を開いた。
「……俺とラーラが?」
「そうよ」
ギルマスははっきりと言う。
「等級じゃない。
“あんたたち”が指定されたの」
ラーラが目を丸くする。
「ちょっと待って……
それ、かなり本気のやつじゃん」
「本気よ」
ギルマスは、迷いなく言った。
「視察は、国の公式任務。
だから国として守る体制を整える。
それだけの話」
ルークは、私をまっすぐ見た。
「分かってて受けたんだな」
「うん」
一拍。
「なら――前は俺が立つ」
それだけで、十分だった。
静かな声だったが、
迷いは一切なかった。
「護衛任務なんだろ?
だったら、やることは一つだ」
アイリーが、少しだけ目を見開く。
ルークは私を見た。
そこには、迷いがない。
「分かってて受けたんだな」
「うん」
一拍。
ルークが息を吐く。
「なら、前は俺が立つ」
それだけで十分だった。
ラーラが小さく笑って、肩をすくめる。
「……ほんと、こういう時だけ格好つける」
「うるせぇ」
でもその声は、揺れていなかった。
「何があっても、連れて帰る。
それが俺の役目だ」
その一言で、
場の空気が、静かに固まる。
ギルマスが小さく笑う。
「……いいわね。その顔」
三人の立ち位置が、はっきりと定まった。
そして、書類を整える。
「正式な契約書よ。
報酬は国基準。
期間は視察任務終了まで」
ラーラがちらっと書類を覗き込む。
「……あ、これ桁やばい」
「だから言ったでしょう」
ギルマスは肩をすくめた。
「命預ける仕事だもの。
安くはないわ」
ルークは書類を受け取り、
迷いなく署名した。
ラーラも続く。
最後に、アイリーが署名する。
インクが紙に染み込む音が、
やけに静かに響いた。
ギルマスは、書類を回収しながら言う。
「――これで正式に、国の任務よ」
軽く言ったはずのその言葉が、
ほんの少しだけ重く落ちる。
だが、さっきまでの沈んだ空気とは違った。
今は、三人で立っている。
日常の延長線のまま、
けれど確実に一段上の舞台へ――
足を踏み入れたのだった。
これで、後戻りはできない。




