第15話 教会本部
王都で、私は第一王子エリオットから
ルクス養育施設を巡回する役目を任じられた。
形式上は“依頼”だったが、
その場で日程は組まれ、
施設総監フリードの管轄下で動くことも決まっていた。
正規の立場で視察できる。
そう思ったはずなのに、
準備を待つ前に、道だけが先に敷かれていく感覚が残っている。
――これは、本当に「善い仕事」なのだろうか。
♦︎
王都を進む馬車は、朝の霧の中をゆっくりと進んだ。
石畳の大通りを抜けるにつれ、
人の気配が少しずつ薄れ、
代わりに、白い石造りの建物が目立ち始める。
城壁の内側――
それでも、王城の喧騒からは距離のある一角。
向かう先は、
王都の中にある教会本部だった。
施設総監のフリードが同乗している。
向かいの席で、資料を整えながら言った。
「ここは、各地の養育院を支援している教会の本部です」
「巡回に入る前の顔合わせ、と考えてください」
私は、小さく息を整える。
“顔合わせ”。
そう分かっていても、胸の奥がひりつくように落ち着かない。
向かいの席の横。
馬車の壁際に、もう一人、無言で座っている影があった。
王城で紹介された護衛の男――レオンだ。
背を預けるでもなく、膝の上で手を組み、
揺れる馬車の中でも微動だにしない。
こちらを見ているのかどうかも分からない視線。
ただ“そこにいる”という圧だけが、空間に残っている。
「まずは、あなたの顔と立場を知ってもらう場です」
フリードは、資料から目を離さずに続けた。
「緊張しなくても大丈夫ですよ。形式的なものですから」
……形式的。
そう言われても、
“国の役目として顔を出す”という事実が、
私の中で、思っていた以上に重くのしかかっていた。
馬車が、ゆっくりと減速する。
軋む音とともに止まり、扉が開いた。
白い石で組まれた大聖堂が、視界いっぱいに広がる。
高い天井へと伸びる尖塔。
荘厳だが、どこか柔らかな佇まい。
中庭では、修道女が子どもに水を飲ませていた。
別の場所では、修道士が怪我人の包帯を替えている。
――普通だ。
良くも悪くも、
“よくある支援の場”という印象だった。
胸の奥にあった警戒心が、ほんのわずか緩む。
……気のせい、だよね。
私は、そう自分に言い聞かせながら、
馬車の踏み台へと足を下ろした。
♦︎
大聖堂の奥、応接用に整えられた控えの間。
白い石の床に、柔らかな光が差し込んでいる。
香の匂いが、かすかに残っていた。
形式的な挨拶を終えると、
フリードが一歩下がり、私を前に出した。
「王子直属・養育視察官に任命された、アイリーさんです」
「今後、各地の養育施設を巡回されます」
紹介を受けた神官は、
思っていたよりもずっと柔らかな表情で、私に向き直った。
「お会いできて光栄です」
「教会本部の現場責任者を務めております、マルセルと申します」
そのまま、深く頭を下げる。
肩書きの割に、動きが丁寧すぎるほど丁寧だった。
「こちらこそ……本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
そう返すと、
マルセルは、少し困ったように笑った。
「いえ。こちらこそです」
「現場の声が、ようやく“直接”上に届くのだと思うと……正直、ほっとしています」
その言葉に、私は瞬きをする。
「……ほっと、ですか?」
「ええ」
マルセルは、わずかに視線を落とし、続けた。
「私たちは、日々の運営に追われています」
「問題がないように見える場所ほど、細かい歪みが溜まっていくものですから」
責任逃れでも、自己弁護でもない。
“現場にいる人間の実感”の言い方だった。
「あなたのように、実際に子どもたちと向き合ってきた方が来てくださるなら……」
「救われるのは、私たちのほうかもしれません」
思いがけず、そんな言葉を向けられる。
「……私は、ただ見て回るだけの役目です」
そう言うと、
マルセルは、首を横に振った。
「“見る”ことが、一番難しいのです」
「慣れてしまうと、見えなくなりますから」
その声には、
自分自身への戒めの色が混じっていた。
「どうか……」
マルセルは、ほんの一瞬だけ言葉を探すようにしてから、
はっきりと続けた。
「もし、私たちのやり方に、至らない点があれば」
「遠慮なく、教えてください」
上からの言葉じゃない。
責任者の立場を盾にした口調でもない。
“本気で、良くしたい人間”の頼み方だった。
私は、自然と背筋を正す。
「……はい」
「そのつもりで参りました」
マルセルは、安堵したように微笑む。
「それなら、心強いです」
「子どもたちにとっても、きっと」
その言葉が、
建前でも、計算でもないと分かってしまって――
私は、胸の奥に、ほんの少しだけ
“安心”が落ちるのを感じていた。
♦︎
無事に教会本部との顔合わせが終わり、
私たちは王都へ戻る馬車に乗り込んだ。
扉が閉まると、
大聖堂の白い壁が、ゆっくりと視界の外へ流れていく。
荘厳で、穏やかで――
どこを切り取っても“善意の場”だった。
それが、かえって胸の奥に
薄い靄のような違和感を残す。
向かいの席にはフリード。
隣の席に、無言で腰を下ろしているのがレオンだった。
背を深く預けることもなく、
馬車の揺れに合わせて、わずかに体の軸を保つ姿勢。
視線は窓の外か、
必要なときだけ、短くこちらへ向けられる。
“同乗している”という事実だけが、
静かに圧を持って伝わってくる。
「契約の件ですが」
フリードが、書類の束を整えながら口を開いた。
「国から正式にギルドへ依頼は通しています」
「この後、ギルドに顔を出して、形式だけ整えてください」
“形式だけ”。
その言い方は柔らかいが、
もう決まっていることなのだと分かる。
「基本的に、今後は国の予定が優先されます」
「視察の際は、原則として護衛が付きます」
私は小さく頷いた。
「護衛については――」
フリードは、一度だけレオンの方へ視線を向ける。
「あなたの希望がなければ、彼が担当します」
「場所や危険度によって調整はしますが、基本は彼です」
「視察に出る朝は、レオンが迎えに行く形になります」
レオンは、視線を向けられても表情を変えない。
ただ、わずかに顎を引いた。
それだけで、
“任務として確定している”ことが伝わる。
「不安に思う必要はありませんよ」
フリードは、穏やかな声で続けた。
「彼は腕も立ちますし、無用に干渉することもありません」
「あなたが現場に集中できるよう、距離の取り方も心得ています」
――心得ている。
その言葉の選び方が、
なぜか胸の奥に小さく引っかかる。
「あなたの仲間についても」
フリードは、こちらを気遣うように視線を向けた。
「ラーラさんとルークさんですね」
「公式視察の間は、護衛としてギルド経由で依頼を出します」
私は、思わず指先に力を入れた。
「勝手に引き離すつもりはありません」
「現場に慣れている人のほうが、あなたも安心でしょう」
「大切な人を、危険な場に無防備で置きたくないだけです」
どこまでも“配慮”の形をした言葉。
「宿も、原則は国が用意します」
「用意できない場所では、教会の一室を借りる形になります」
逃げ道が閉じていく感覚。
けれど、それは“守るため”という顔をして迫ってくる。
「……承知しました」
私がそう答えると、
フリードは、ほっとしたようにほんのわずかに目を細めた。
「無理はさせません」
「あなたが潰れてしまっては、本末転倒ですから」
その言葉は優しかった。
けれど――
“潰れる”という表現だけが、妙に具体的だった。
王都の城壁が見えてきたところで、
馬車は減速し、門前で止まった。
「では、本日はここまでにしましょう」
フリードが先に降りながら言う。
「今日はもう昼前です」
「帰り支度もありますし、各自いったん解散です」
私は馬車を降りて頭を下げる。
「本日は、ありがとうございました」
「こちらこそ」
フリードは穏やかに笑った。
「明日の朝、彼が迎えに行きます」
そう言って、
視線をレオンへ向ける。
レオンは短く頷いただけだった。
フリードはそのまま王城の方へと戻っていく。
残されたのは、
王都の雑踏と、静かに佇む護衛の姿。
「……では、明日」
私がそう声をかけると、
レオンは短く返した。
「朝、迎えに行きます」
それだけ。
それ以上の言葉はなく、
彼は人の流れの中へ溶けるように消えていった。
♦︎
翌朝。
約束どおり、
宿の前には王城の紋章を刻んだ馬車が止まっていた。
御者が手綱を整える横で、
一人の男が、馬車の扉の脇に立っている。
レオンだ。
壁に寄りかかることもなく、
扉の前に静かに立ち、周囲の様子を淡々と見渡している。
……待っていたんだ。
私が近づくと、
レオンは一歩だけ前に出て、扉を開いた。
「おはようございます、アイリー様」
言葉と同時に、
私の荷物へ視線を落とす。
「お預かりします」
断る間もなく、
自然な動きで鞄を受け取り、先に馬車へ載せてくれる。
(……こういうところ、すごく慣れてる)
護衛というより、
長年、主の傍に仕える人の所作だった。
私は少し遅れて馬車に乗り込む。
レオンは最後に周囲を一度見回し、
異変がないことを確認してから乗車した。
馬車の扉が閉まり、
車輪が石畳を離れる音が、かすかに響いた。
揺れに合わせて、
車内の空気が、ゆっくりと動く。
向かいに座るレオンは、
背筋を伸ばしたまま、窓の外を見ている。
視線は遠く、
景色を“見ている”というより、
ただ警戒のために外へ向けているようだった。
御者の手綱が揺れる音。
馬の蹄が、一定の間隔で地面を打つ音。
木製の車体が、きしむ音。
それらが、
やけに大きく聞こえる。
誰も話さないまま、
時間だけが、じわじわと流れていく。
沈黙は、短いはずなのに、
妙に長く感じた。
(……気まずい、というより……)
(落ち着かない)
私は、無意識に指先を握りしめる。
無言の時間が続くと、
どうしても、そわそわしてしまう性分だ。
「……あの」
思いきって声をかけると、
レオンは視線をこちらへ向け、軽く会釈した。
「はい。何でしょうか、アイリー様」
丁寧だが、感情はほとんど乗らない声。
「えっと……」
一瞬、何を聞くか迷ってから、
私はぽつりと言った。
「……甘いものは、お好きですか?」
レオンの視線が、ほんの一瞬だけ止まる。
「……なぜ、そのようなことを?」
即座に返ってきたのは、
質問に対する質問だった。
(あ、やっぱり変だったかな……)
「いえ、その……」
私は少しだけ困って笑う。
「王都で、綺麗な飴を見かけたので」
「好き嫌いがあるかな、と思って」
レオンは、私の手元に視線を落とす。
そこにある、
花の模様が入った飴の包み。
「……好むかどうかは、考えたことがありません」
淡々とした答えだった。
「そうなんですね」
私は包みを開きながら言う。
「じゃあ、よかったら一つどうですか?」
差し出すと、
レオンは一瞬だけ躊躇したように指を止める。
「任務中ではありますが……」
そう前置きしてから、
「……ありがとうございます」
受け取った指先は、驚くほど無駄がなかった。
飴を口に含んだ、その瞬間――
彼の口元の力が、ほんのわずかに抜ける。
ほんの一瞬。
見間違いかと思うほど、
短い変化。
(……今、ちょっとだけ)
「……甘いですね」
感想というより、
事実の報告のような声。
「ですよね」
私は、少しだけ安心して笑う。
「見た目が可愛くて、つい買ってしまって」
レオンは、それ以上何も言わない。
ただ、
もう一度だけ飴を舌の上で転がす。
表情は相変わらず乏しい。
けれど、完全な無表情でもない。
――感情を表に出さない人。
私の目には、
ただそういう人に見えた。
それでも――
これから視察で一緒に動く時間は、きっと増える。
なら、もう少しだけ話せるようになれたらいい。
任務の言葉だけじゃなくて、
他愛もない話もできるくらいには。
そんなふうに思ったことを、
私は、まだ本人には伝えないまま、
揺れる馬車の中で、小さく息をついた。
♦︎
馬車での移動は、二日半に及んだ。
途中、何度か声をかけてみた。
天気のこと。
道中の景色のこと。
王都で見かけた市の話。
けれど、返ってくるのは短い相槌だけだった。
「……はい」
「そうですね」
「問題ありません」
それ以上、話は続かない。
沈黙が、馬車の揺れに合わせて長くなる。
――やっぱり、距離はまだ遠い。
任務として並んでいるだけ。
それ以上でも、それ以下でもない。
少し仲良くなれた気がしたのは、
たぶん、私の一方的な勘違いだ。
そして。
ホームディアに到着したとき――
あの少年は、いなくなっていた。




