第12話 王子からの…
朝の空気は、夜のざわめきを引きずっていた。
窓の外は明るくなっているのに、
頭の奥だけが、まだ眠っていない。
私は、昨夜決めたことを反芻しながら、
装備の確認をしていた。
外套と小袋を確認し、音の立たない靴に足を通す。
“夜のルクス養育院に行く”
口に出していない決意が、
手の動きに滲む。
シスターたちが帰ったあとの時間帯。
管理側だけになる時間。
昼間の“やさしい場所”とは別の顔。
見てはいけない場所かもしれない。
でも、見ないまま戻る選択肢は、もうなかった。
机の上に並べた道具を一つずつ確認し、
私は、深く息を吐いた。
……今夜だ。
そう思った、その時だった。
コン、コン。
玄関の扉が、軽く叩かれる。
この時間に訪ねてくる相手に、心当たりはない。
警戒しながら扉を開けると、
見覚えのあるギルドの使いが立っていた。
若い配達係だ。
「朝早くすみません」
「ギルドマスターから、すぐ来てほしいって」
用件は、それだけだった。
「……何か、ありました?」
聞いても、
使いは首を横に振る。
「詳しいことは聞かされてません」
「とにかく、急ぎでって」
胸の奥で、
昨夜の決意が、わずかに揺らぐ。
今じゃない、と思ったのに。
なぜ、今日に限って。
私は外套を羽織り直し、
戸締まりを確認してから、使いの後ろについた。
朝の街は、まだ動きが鈍い。
商人は準備を始めたばかりで、
通りには、荷車の音と低い声が混じる。
いつもなら、
この時間帯の空気は落ち着くはずだった。
けれど、今日は違う。
ルクス養育院の中庭が、頭から離れない。
星の印を持つ双子。
“特別推薦”という言葉。
そして、あの場所の夜。
歩きながら、
無意識に拳を握っていた。
ギルドの建物が見えてくる。
いつも通るはずの道が、
今日は、やけに遠く感じられた。
――何が起きた?
心当たりは、ひとつしかない。
“夜に動こうとしている”その矢先に、
呼び止められた感覚。
私は、胸の奥の違和感を押し込め、
ギルドの扉をくぐった。
受付の前に立つと、
受付嬢のミレイユがこちらに気づいた。
「あ、アイリーさん。おはようございます」
朝の帳簿から顔を上げ、
すぐに状況を察したように表情を引き締める。
「ギルドマスターがお呼びです」
「奥の部屋までご案内しますね」
私は軽く頷き、
ミレイユの後ろについて歩いた。
廊下を進む間、
行き交う冒険者たちの視線が、ちらりとこちらに向く。
噂が早い場所だ。
理由も分からない呼び出しが、何かの前触れのように思えた
扉の前で、ミレイユが足を止めた。
「こちらです」
ノックをしてから扉を開ける。
「ギルドマスター。
アイリーさんをお連れしました」
中から、聞き慣れた声が返った。
「入ってちょうだい」
私は一歩、部屋の中へ踏み込む。
そこで、ようやく、
セドリカと向き合うことになる。
♦︎
ギルドマスターの部屋に入ると、
セドリカが腕を組んで立っていた。
珍しく甘い菓子が見当たらない。
机の上には、封の切られていない書簡が一通。
王城の紋章が押された、分厚い封蝋。
嫌な予感が、背中をなぞる。
「呼び出しの内容、聞いてないわよね」
セドリカが、ため息混じりに言う。
「はい。
ギルドの使いの方に“急ぎで来てください”とだけ」
「……そうでしょうね」
セドリカは、書簡に視線を落としたまま続ける。
「内容はこれだけよ。
“第一王子エリオット殿下より、国公認ギルド登録者アイリーを王都サンクトリアへ召喚する”
理由の記載は、なし」
「……理由、なし?」
思わず聞き返すと、
セドリカは肩をすくめた。
「ないものはないわ。
用件も目的も、何ひとつ書いてない」
一瞬、部屋の空気が止まる。
王子からの呼び出し。
理由不明。
説明なし。
「……私、何かやらかしました?」
半分冗談のつもりで言うと、
セドリカはじっとこちらを見る。
「それを聞きたいのは、こっちよ」
口調は軽いが、目は真剣だった。
「最近、変なことしてない?」
「王族の顔に泥塗るような真似とか」
「してません……たぶん」
「“たぶん”が一番信用ならないのよ」
そう言いながらも、
セドリカは深く追及しなかった。
彼女自身も、見当がついていないのだ。
王子と直接関わるような依頼も受けていない。
問題を起こした覚えもない。
少なくとも、表向きは。
「とにかく、呼ばれた以上は行くしかないわ」
セドリカは書簡を机に戻し、
淡々と指示を出す。
「王都サンクトリアまでは、
ギルドの馬車を使って二日半ほど」
「今日は、すぐに戻って
一時間で支度しなさい」
「準備出来次第、いくわよ!
まずは交易都市ヴェインシアは、今日の夜について」
「向こうで一泊して、
翌日に王都へ向かう流れね」
私は、頭の中で距離をなぞる。
ホームディアからヴェインシアまで、馬車で一日。
そこから王都サンクトリアまで、さらに一日半。
辺境から王都へ。
一気に世界の“中心”へ引き戻される感覚だった。
「ギルマスは……同行しないんですか?」
そう聞くと、
セドリカは苦笑する。
「行けたら楽なんだけどね」
机の横に積まれた書類の山を、顎で示した。
「見ての通り、雑務が詰まってるのよ」
「国からの連絡係やら、登録更新やら、揉め事の仲裁やら」
「王族案件は、あくまで“連絡係”としての立場だもの」
「付き添いまでは、私の仕事じゃないわ」
軽い口調の奥に、
ギルドマスターとしての立場が透ける。
「向こうでは、あんた一人で対応してきなさい」
「……分かりました」
理由も分からないまま王子に呼ばれる。
正直、気が重い。
それでも。
呼ばれた以上、断る選択肢はない。
「変なことになったら、すぐ連絡しなさい」
セドリカは、そう言って視線を合わせる。
「王族案件は、面倒が起きるときは本当に面倒だから」
私は、小さく頷いた。
胸の奥に、
説明のつかない不安が沈んでいく。
――王子の呼び出し。
理由の分からない呼び出しほど、
落ち着かないものはなかった。
♦︎
ギルドを出ると、
朝の街は、まだ目を覚ましきっていなかった。
開き始めた露店。
軒先で準備をする商人。
石畳を洗う水の音。
通りを行く人の数は少なく、
空気はひんやりしている。
――急がなきゃ。
私は足を速めた。
家に戻ると、
部屋の中は朝の気配が残ったままだった。
寝台はまだ整えきれていない。
窓から入る光も弱い。
椅子にかけていた外套を掴み、
簡単な着替えと最低限の荷をまとめる。
予備の水袋。
乾燥食。
応急用の包帯。
それから、
奥の箱を開ける。
王子と初めて顔を合わせたときに仕立てた、
少しだけ上等な服。
普段の装いよりも、
線が整い、色も落ち着いている。
王都へ行くなら、
これを持っていかないわけにはいかない。
私はそれを畳み、
荷の上に重ねた。
……王子からの呼び出し。
理由は分からない。
けれど、
胸の奥に、朝から落ち着かない感触が残っている。
準備を終え、
私はすぐに家を出た。
向かうのは、
ルークの家だった。
呼び出しの件だけでも、
伝えておきたかった。
家の前に差しかかって、
私は足を止める。
軒先。
人通りの少ない道沿い。
ルークが、
家の壁にもたれて腰を下ろしている。
その隣で、
少年が同じように座っていた。
二人とも、
朝の光が差し込む場所に身を置いている。
――日光浴。
それだけのことなのに、
胸の奥が静かに動いた。
外に出ること自体が、
彼にとっては大きな一歩だった。
それが今は、
誰かの隣で、
黙って光を受けている。
たったそれだけの変化が、
どれほどの前進なのかを、
私は知っている。
「王子から召還命令が届いて王都に行ってくる」
近づいてから、短く告げる。
ルークが顔を上げた。
「王子から?」
「うん。
だから、今から出る」
「めっちゃ急だな」
「急」
それで話は通じた。
ルークは、
隣の少年をちらりと見てから、
私に視線を戻す。
「こいつ、前より外に出れるようになったんだ」
「音にも、少しは慣れてきてる」
口調はいつも通りなのに、
そこに滲む感情は隠せていない。
「……よかった。ルークありがとう!」
私はそう言ってから、
少年のほうを見る。
「お仕事でしばらく出かけてくるね」
返事はない。
けれど、
視線が一瞬だけ、こちらに向いた。
それだけで十分だった。
私は背を向ける。
ギルドに向かい、ギルド専用の馬車に乗り込むと、
ホームディアの街並みがゆっくりと流れ始めた。
まだ眠たげな屋根。
朝の支度をする人影。
開きかけた門。
遠ざかる街の向こうに、
白い建物の輪郭が見える。
――夜に行くつもりだった場所。
その決意は、
朝の呼び出しひとつで、簡単に脇へ追いやられた。
自分で踏み込もうとした一歩が、
誰かの都合で止められた感覚だけが残る。
馬車は、
交易都市ヴェインシアへ向かう街道へ出た。
時間が進むにつれ、
空は少しずつ色を変える。
街門をくぐった頃には、
空はすっかり暮れ色になっていた。
宿の看板に灯る明かり。
人の声が滲む通り。
部屋を取り、
一階の食堂で簡単な食事を済ませる。
温いスープ。
硬めのパン。
それだけで、
身体の力が少し抜けた。
部屋に戻り、
寝台に腰を下ろす。
静かな夜。
――この街で、歯車を拾った。
路地の奥。
砕けた光の欠片。
引きずられていく小さな背中。
“通り過ぎただけの街”だったはずの場所が、
いつの間にか、
違和感の起点になっている。
……少しだけ、歩こう。
調査なんて言えるほどのことじゃない。
ただ、
あの日の場所を、自分の足でなぞりたかった。
私は外套を羽織り、
夜のヴェインシアへ踏み出した。
王都へ向かう前の、
ほんの短い寄り道として。
♦︎
ヴェインシアに着いた時、
街はすでに夜の気配を帯びていた。
建物の壁に掛けられた灯りが、
石畳をまだらに照らしている。
人の気配はある。
宿の前では笑い声が漏れ、
酒場の扉の向こうでは、
誰かが杯を打ち鳴らす音がした。
けれど、
通りから一本外れるだけで、
空気がひとつ深く沈む。
私は、
人の流れから少し離れた場所へ足を向けた。
店と店の間に挟まれた細い通路。
その入口に、
外套を羽織った年老いた男が腰を下ろしていた。
壁にもたれ、
半分だけ影に溶けている。
私は、歩みを止める。
「この街で……
歯車の形をした物を見たことはありますか」
男は、すぐには反応しなかった。
しばらく黙ったまま、
こちらをじっと見ている。
やがて、
喉の奥で何かを転がすように、
低い声を落とした。
「……ああ」
短い相槌。
「そういや、一時期、
それを金出して回収してた連中がいたな」
胸の奥が、わずかに沈む。
「どんな人たちだったか、
覚えていますか」
男は、ゆっくり首を振った。
「思い出せんなぁ」
私は、続けて聞く。
「その人たち……
今も動いていますか」
男は、少し考えるように視線を落とし、
それから肩をすくめた。
「最近は聞かん」
「夜の“集まり”も、取り締まりで散ったからな」
闇市、とは言わない。
けれど、
何の話かは、はっきり分かる言い方だった。
私は、それ以上踏み込まない。
ここで踏み込めば、
この男は、きっと口を閉ざす。
「……ありがとうございます」
そう言って、
私は一歩引いた。
男は、もうこちらを見ない。
影の中へ沈むように、
視線を伏せる。
通路を離れながら、
私はゆっくり息を吐いた。
闇市は取り締まられた。
歯車を回収していた存在が、確かにいた。
“偶然”と呼ぶには、
あまりにも線が重なりすぎている。
私は、夜の街へ戻る。
♦︎
ヴェインシアを発ってから、
さらに丸一日半。
馬車は、次第に整えられた街道へ入った。
石畳の幅が広がり、
道沿いの木々は一定の間隔で剪定されている。
遠くに見えた城壁は、
この国の“中心”が近いことを告げていた。
やがて、
王都サンクトリアの門が視界に入る。
高い城壁。
幾重にも重なる見張り台。
人の出入りは多いが、
検問の動きに無駄がない。
交易都市とは違う。
ここは、秩序が“常駐”している場所だった。
門をくぐると、
景色は一気に変わる。
石造りの建物が連なり、
通りは整然と区画されている。
商人の呼び声。
子どもを連れた家族。
鎧姿の兵士。
人の数は多いのに、
流れは淀まない。
街の中心へ向かう通りには、
掲示板が並んでいた。
その一つに、
大きな文字で書かれた文言が目に入る。
「子を授かることは、国の力」
その下には、
いくつかの注意書きと支援制度の説明。
出産に応じた税の減免。
家族単位での徴税率の調整。
子を持つ家庭への物資優遇。
私は、足を止める。
――この国は、
露骨なほどに“産め”と言う。
生活が苦しい家庭ほど、
子を持つことで負担が軽くなる仕組み。
けれど、
戦争は絶えない。
男手を失う家は後を絶たず、
結果として、
片親家庭と孤児が増え続ける。
制度は整っている。
数字の上では、理にかなっている。
それでも、
その“後始末”を引き受ける場所が、
どれだけ逼迫するかまでは、
掲示の中には書かれていなかった。
――養育院が増え続ける理由。
私は、無意識に
ルクス養育院の門を思い出す。
“よく整理された場所”。
“善意で満たされた場所”。
けれど、
あの整然さは、
あふれかえる現実を
押し込めるための形でもある。
街の奥へ進むほど、
建物はさらに白く、
装飾は控えめになる。
王城へ続く大通り。
兵士の列が道を区切り、
来訪者を導いていた。
私は、
ギルドの紋章が刻まれた証書を提示する。
確認は早い。
視線だけで、
“扱いの違い”が伝わってくる。
ここでは、
肩書きが通行証になる。
王城の門は、
思っていた以上に静かだった。
威圧感はある。
けれど、
無駄な装飾はない。
権威は、
誇示されなくても伝わる。
私は、門の前で一度、立ち止まる。
―昨夜は、
ルクス養育院の“夜”を見に行くつもりだった。
それなのに、
今、私は王城の前に立っている。
偶然じゃない。
そう思いたくなるほど、
胸の奥が、ざわついていた。
理由は分からない。
何の用件なのかも、聞かされていない。
それでも、
“呼ばれた”という事実だけが、
嫌な重みを持って残っている。
引き返す理由は、ない。
私は、城門の内側へ足を踏み入れた。
この先で、
何を告げられるのかも分からないまま。




