第2話 人間の国に行ってみたい
朝食の席に並んでいたパンを見て。
りんは、ぴたりと手を止めた。
「……これ、いつものと違う」
籠の中には、丸く焼かれた白いパンがいくつも入っていた。
表面には薄く焼き色がついていて、まだほんのり温かい。
りんがひとつ手に取ると、ふわりと香ばしい匂いがした。
「よく分かったな」
向かい側に座るヴァルディスが、少し得意そうに言った。
「昨日、人間の商人から入った小麦を使わせた。製法も向こうのものを参考にしたらしい」
「人間の?」
りんの目が、一気に明るくなる。
隣でスープを飲んでいたネネが、その反応を見て小さく息を吐いた。
「お嬢様、まだ食べてもいないのに嬉しそうですね」
「だって人間のパンだよ?」
「正確には、人間の国の作り方を参考にした魔族製のパンです」
「細かいなぁ」
「大事なところです」
りんはパンを半分に割った。
柔らかな湯気が立つ。
中は思ったよりふわふわしていて。
一口かじると、ほんのり甘かった。
「……おいしい」
素直な感想が漏れる。
「いつもの黒麦パンより柔らかい。なんか、ちょっとだけ甘いね」
「王都の方では、こういう白いパンも珍しくありませんよ」
セレスティアが言った。
りんはすぐに母を見る。
「ママ、食べたことあるの?」
「もちろん。わたしは人間の国で育ったのよ?」
「あ、そっか」
「今さらですね」
ネネが横から言う。
「だって、ママがここにいるのが普通だから」
りんはそう言って、もう一口パンをかじった。
セレスティアが少しだけ目を細める。
「そうね。りんにとっては、そうなのね」
「うん」
りんは深く考えずに頷いた。
聖女。
人間。
魔王妃。
そんな肩書きは知っている。
でも。
りんにとってセレスティアは、ずっとここにいた母親だった。
朝になれば食卓にいて。
勉強をさぼれば注意されて。
魔法を失敗すれば呆れられて。
それでも最後には笑ってくれる。
だから。
昔、人間の国で暮らしていたと言われても。
なんとなく、遠い話に感じていた。
「ママがいたところって、どんな感じなの?」
りんが何気なく聞くと。
セレスティアは手にしていたカップを静かに置いた。
「アルヴェリア王国のこと?」
「うん」
「急にどうしたのです?」
「このパン食べたら、ちょっと気になった」
ヴァルディスの眉が、ほんの少し動いた。
ネネはそれに気づいたらしく、一瞬だけそちらを見る。
けれど。
りんだけは気づかなかった。
「人間の国って、もっとこう……全部白い建物で、教会がいっぱいあって、みんな白い服着てるのかと思ってた」
「どんな国です、それ」
ネネが思わず突っ込む。
「だって聖女とかいるし」
「聖女の存在が建築様式まで決めるわけではありませんよ」
「分かってるけど、なんとなく」
セレスティアがくすくす笑った。
「王都アヴェリスは、もっと賑やかな街ですよ」
「王都?」
「アルヴェリア王国の中心。王様の住む城があって、大きな通りがあって、市場があって。朝になると、パン屋さんや果物屋さんが店を開くの」
「市場……」
「広場には噴水もあります。季節によっては露店がずらっと並んで、お祭りになることもあるわね」
「お祭り?」
りんの食いつきが、一段階上がった。
「どんな?」
「音楽が流れて、踊る人がいて。串焼きや焼き菓子を売る屋台も出ますよ」
「屋台……」
「お嬢様、完全に食べ物に引っ張られてますね」
「だって屋台って楽しそうじゃん」
「そこは否定しませんけど」
ネネも少しだけ興味があるらしい。
耳がわずかに前を向いている。
それを見て。
りんはにやっとした。
「ネネも行ってみたいんじゃないの?」
「行きたいとは言ってません」
「でも耳」
「見ないでください」
「動いてるよ」
「猫魔族なので動きます」
「分かりやすいね」
「お嬢様にだけは言われたくありません」
そんな二人を見て。
セレスティアは楽しそうに笑っていた。
でも。
ヴァルディスは、さっきから少し静かだった。
◇ ◇ ◇
朝食のあと。
りんはそのままセレスティアの部屋へついて行った。
もちろん。
ネネも一緒だ。
「ママ、もうちょっと聞きたい」
「王都のこと?」
「うん。さっきの続き」
「今日は歴史のお勉強もあるのだけれど」
「それもちゃんとする」
「本当ですか?」
「するよ。たぶん」
「たぶんが付きましたよ」
ネネが横から言う。
「ネネは静かにしてて」
「侍女として見過ごせない発言だったので」
「今日はネネ、いつもよりうるさくない?」
「昨日の壁の修理費を見たあとだからです」
「……まだ怒ってる?」
「怒ってません」
「怒ってる声だよ」
「気のせいです」
セレスティアの部屋に入ると。
大きな窓から、午後の柔らかい光が差し込んでいた。
棚には本が並び。
壁際には何枚かの地図が置かれている。
その中から。
セレスティアが一枚の地図を取り出した。
「せっかくだから、今日はこれを使いましょうか」
「なに?」
「エルディア大陸の地図」
大きな机の上に広げる。
りんとネネが、左右から覗き込んだ。
「ここがレグナリア魔導国」
セレスティアが指で示す。
「そして、ずっと西へ進んだ先にあるのが」
指が移動する。
「アルヴェリア王国」
「遠い?」
「近くはないわね。でも、同じ大陸の中です」
「もっとずっと遠いと思ってた」
「人間の国と魔族の国の行き来がほとんどないから、そう感じるのかもしれませんね」
りんは地図を見る。
確かに。
陸の上では繋がっている。
海を越えるわけでもない。
別の大陸にあるわけでもない。
同じエルディア大陸の上にある国。
それなのに。
これまで一度も行ったことがなかった。
「人間って、ほんとに魔族の国に来ないの?」
「ほとんど来ませんよ」
「なんで?」
「怖がっているからです」
「何を?」
「魔族を」
「……魔族を?」
りんは本気で分からないという顔をした。
ネネはその横顔を見て。
少しだけ困ったように笑う。
「お嬢様にとっては、想像しにくいんでしょうね」
「だって……」
りんは窓の外を見る。
そこから見えるのは。
城下へ続く道。
遠くに見える街。
働く人。
行き交う馬車。
「普通だよ?」
ぽつりと言う。
「みんな普通に暮らしてるし。お店もあるし。喧嘩する人もいるし。お菓子屋さんもあるし」
「最後だけ急に平和ですね」
「大事だよ」
セレスティアが微笑む。
「りんにとっては、ここが普通だから」
「うん」
「人間の国の人たちにとっては、人間の暮らしが普通なの」
「でも、知らないだけでしょ?」
りんは地図へ視線を戻す。
「魔族の国がどんなところか」
「そうね」
「じゃあ、なんで怖がるの?」
セレスティアはすぐには答えなかった。
少し考えて。
言葉を選ぶ。
「昔からの争いもあります。人間側に伝わっている話もあるわ。魔族に襲われた村の話。魔王が軍を率いた戦争。逆に、魔族側にも人間に攻められた話が残っています」
「喧嘩したから?」
「ずっと昔から、何度もね」
りんは少し難しい顔をする。
「今も戦ってる?」
「今は大きな戦争はありません」
「じゃあ、もういいじゃん」
「そう簡単にはいかないのですよ」
「なんで?」
「人の気持ちは、国同士が“今日から仲直りします”と言っただけでは変わりませんから」
「……めんどくさいね」
「そうね」
セレスティアは否定しなかった。
「知らないものを怖いと思うのも、人としては自然なことなのかもしれません」
「ふうん……」
りんは、また地図を見る。
そこに書いてある国々を。
じっと見つめた。
「じゃあさ」
「なあに?」
「人間って、どんな人なの?」
「ずいぶん大きな質問ね」
「だってママも人間でしょ?」
「ええ」
「でもママ見ても、人間って感じしない」
「それはどういう意味です?」
「ママだから」
セレスティアが目を瞬いた。
それから。
ふっと笑った。
「そう」
「だから、もっと普通の人間を見てみたい」
ネネの耳が、ぴくっと動いた。
セレスティアも、りんを見る。
「普通の人間?」
「うん。街を歩いてる人とか。お店の人とか。子どもとか」
りんは地図の上に指を置いた。
「どんな服着てるとか、どんな話するのかとか。朝ってどんな匂いするのかとか」
「匂い?」
「だってさ」
りんは顔を上げる。
「本には、街の形とか歴史とかは書いてあるけど、匂いは書いてないでしょ?」
「まあ……そうですね」
「音も分かんない」
少しずつ。
言葉が増えていく。
「どんな声がして。どんなお店があって。朝になったら、どんな人が歩いてて」
そして。
「ママが子どもの頃に見てた景色って、どんなだったんだろって」
セレスティアが。
ほんの少しだけ目を見開いた。
「……そう」
その返事は。
さっきまでより、少し優しかった。
「見てみたい?」
「うん」
即答だった。
「すごく」
ネネが横で小さく息を吐く。
「お嬢様」
「なに?」
「その顔、まずいですよ」
「どんな顔?」
「何か思いついたときの顔です」
「失礼だなぁ」
「十三年見てるので分かります」
「ネネだって見てみたいでしょ?」
「興味がないとは言ってません」
「ほら」
「でも、お嬢様とは立場が違います」
「どういうこと?」
「わたしは行こうと思えば、お嬢様の護衛として行く理由があります」
「じゃあ一緒に行けばいいじゃん」
「話がもう“行く”前提になってますよ!」
りんがきょとんとする。
「だって、行けないの?」
その一言に。
ネネが黙った。
セレスティアも。
少しだけ表情を変える。
「りん」
「うん?」
「あなたは、レグナリア魔導国の第一王女です」
「知ってるよ?」
「人間の国へ遊びに行く、というだけでも。普通の旅とは少し違います」
「どうして?」
「もし正体を知られたら、あなたはただの旅行者ではありませんから」
りんは少し考える。
「魔王の娘だから?」
「ええ」
「でも、隠して行けばいいんじゃない?」
ネネが額を押さえた。
「簡単に言いますね……」
「だって、りんが“魔王の娘です”って言わなきゃ分かんないでしょ?」
「お嬢様は、時々ものすごく大胆ですよね」
「そう?」
「そうです」
セレスティアは。
そんな二人のやり取りを見てから。
静かに言った。
「行ってみたいのね」
「うん」
「本気で?」
りんは。
今度は少しだけ考えてから。
頷いた。
「本気」
ただの思いつきじゃない。
お菓子も気になる。
街も見たい。
市場も見たい。
王都も見たい。
でも。
それだけじゃなかった。
「ママが生まれた国を見てみたい」
セレスティアの目が揺れる。
「本で読んだだけじゃなくて。ちゃんと、自分で」
少し照れたように笑う。
「それに、人間が魔族を怖がるなら。りんも人間のこと知らないままでいるの、同じかなって思ったから」
「…………」
「だから、一回見てみたい」
セレスティアはしばらく何も言わなかった。
やがて。
ゆっくり微笑む。
「そうね」
「行っていい?」
「わたし一人では決められません」
「えぇ」
「当然でしょう?」
「ママがいいって言ったらダメ?」
「あなたのお父さんにも聞かないと」
「パパかぁ……」
りんの顔が少し曇る。
「反対する?」
「しますね」
ネネが即答した。
「そんなに?」
「します」
「まだ聞いてないじゃん」
「分かります」
「どうして?」
「陛下だからです」
「それ理由になってる?」
「なってます」
セレスティアが、思わず笑った。
「でも」
りんが地図をもう一度見る。
その指先。
アルヴェリア王国。
そのさらに中心。
王都アヴェリス。
「……行ってみたいなぁ」
今度の声は。
さっきより小さかった。
でも。
その分。
本気だった。
◇ ◇ ◇
その日の夕方。
魔王ヴァルディスは。
執務室で書類に目を通していた。
扉の向こうから。
ぱたぱたと。
よく知っている足音が近づいてくる。
そして。
ノックより先に。
「パパ〜?」
聞き慣れた声がした。
ヴァルディスの手が止まる。
嫌な予感がした。
「……入れ」
扉が少し開く。
そこから。
りんが顔を覗かせた。
その後ろにはネネ。
さらに。
少し離れたところに、セレスティアまでいる。
ヴァルディスは。
その三人を見た瞬間。
静かに書類を置いた。
「……何の相談だ」
「まだ何も言ってないよ?」
「その並びで来た時点で、何かあるのは分かる」
「パパすごい」
「褒めても許可は出さんぞ」
「まだお願いもしてない!」
ネネが。
小さな声で呟いた。
「もう半分くらい答え出てません?」
「ネネ」
「はい?」
「縁起悪いこと言わないで」
ヴァルディスは眉間を押さえた。
「……それで?」
りんは一度だけ。
後ろのセレスティアを見る。
母は何も言わない。
ただ。
優しく頷いた。
だから。
りんは父へ向き直った。
「パパ」
「ああ」
「お願いがあるの」
「聞こう」
りんは少しだけ息を吸った。
「わたしね」
そして。
笑った。
「人間の国に、行ってみたい」
ヴァルディスの表情が。
ぴたりと止まった。
数秒後。
「駄目だ」
返事は。
びっくりするくらい早かった。




