第8章 承徳王妃宣言
朝議の間は、いつもよりも静かだった。
金殿の白い石床に、冬の名残を引きずる冷気が這う。
廷臣たちの衣擦れの音すら、今日はひどく遠く聞こえる。
承徳王、允成が進み出た。
ただそれだけで、場の空気が変わった。
五年の蟄居を経て、再び太子に立てられた男が、
自ら軍を率いて北を救ったという事実は、
どの臣下も否定することができなかった。
だが――。
まだ、その彼が「何を言い出すのか」は、誰ひとり確信していなかった。
允成は、玉座に伏した父帝の代理として進み出ると、
石段の下から視線をまっすぐ上げて言った。
「北征より戻り、報告いたします。
鉄騎国の騎兵七千を撃退し、北里塞を解放。
併せて、鉄騎国の皇族筋にある者を捕え、ただいま宮中にて拘束中」
拍手喝采――
……は、起きなかった。
勝利は事実だった。
だが、朝議の沈黙は、それ以上の予感を孕んでいた。
允成は、それをすべて受け止めるように、ひとつ息を吐いた。
そして、言った。
「このたびの戦功は、私ひとりの力によるものではない。
石家の協力、柴孔将軍の献身、そして――」
言葉を置く。
「かねてより、身辺に仕え、
我が五年の蟄居を支え続けた“蘭氏”の存在なくして、私はここに立てなかった」
一斉に、周囲がざわめいた。
明玉の名は、記録上では不在だった。
帳にはなく、籍にも戻されず、ただ存在だけが残されていた。
だが、今――
その名が、“戦功の根”として口にされた。
允成は静かに言い切った。
「よって、蘭氏を“承徳王妃”と定め、
正式に妃として、これを冊立する」
声は大きくない。
だが、石で囲まれた広間の奥まで、はっきりと届いた。
騒然とする廷臣たち。
中には顔をしかめる者もいる。
綺華の婚儀を前提に、すでに楊家・王家との水面下の調整を進めていた派閥にとっては、
まさに“突然の爆弾”だった。
王允中の目が鋭く允成を刺す。
だが、彼は何も言わない。
朝議の場では、もうその口を開けないことを、理解していた。
その後、控えの間。
白い扉を一枚挟んだ空間に、允成と王允中が並び立つ。
静寂。
先に口を開いたのは、王允中だった。
「殿下。
皇后の座は……綺華のために空けておくべきでしょう。
妃は、制度のために選ばれるもの。
“情”で、制度を曲げてはなりません」
允成は一拍、目を伏せた。
そして、まっすぐに言った。
「登極の暁には、皇后を綺華とする。
だが、貴妃は蘭氏だ。……これは譲らない」
王允中の眉が、ぴくりと動いた。
「……なぜ、そこまで」
「“情”ではない。
“妃の座”が、“在らざる者”の存在を制度として認める場であるならば――
私は、そなたたちの“帳”のほうを、書き換えねばならぬ」
その言葉に、王允中はぐっと口を閉ざした。
「五年前。
明玉は籍を奪われ、名を消された。
女官としても数えられず、ただ、黙って私の傍にいた。
……私だけが、彼女の存在を知っていた」
その“知っていた”という言い方に、王允中はぞくりとした。
それは、政治の言葉ではなかった。
人が、ひとりの人間を“この世界に在るもの”として見ていた、たったひとつの線だった。
「戦で示したのは、力ではない。
私は、“誰が妃にふさわしいか”を、戦功で押し通すつもりはない。
だが、彼女がそこに座ることに、誰も文句を言わせぬだけの資格は得た」
王允中は、膝を落とすほどには老いていなかった。
だが、言葉を返す気力が、わずかに抜けたように見えた。
允成は、それを見て、静かに頭を下げた。
「ご理解、感謝いたします」
そして、襟を正し、部屋を出た。
その日、春華殿の小さな部屋。
沈侍女長が、儀礼用の衣を明玉に手渡した。
「今日より、あなたさまは“承徳王妃”にございます」
明玉は、まだ何も言えなかった。
けれど、鏡の前に立ち、そっと襟元を合わせた。
その白い肌に、薄紅の衣が映える。
その姿は――
かつて、帳の外に追いやられていた少女ではなかった。




