第6章 親征
北辺――砂塵の地。
春の気配などかけらもない、凍るような風が吹きつける大地に、黒い旗が翻っていた。
鉄騎国の騎兵、七千。
北里塞を取り囲み、その前線に三列の陣を敷く。
対する石家軍、六千。
懐北塞から発した二将・一将の軍勢が、左右から迫っている。
だが、未だ砦は包囲されたまま。風向き一つで、どちらが挟まれるかもわからぬ膠着だった。
──そこに。
丘の向こうから、地鳴りのような音が響く。
最初は誰も、気づかなかった。
けれど、鉄騎の偵察騎が突然、笛を吹き、慌ただしく戻っていくのを見て、
石家の副将が口を開いた。
「……禁軍、来たか」
とたんに、風が変わる。
丘の稜線に、深紅の御旗が現れた。
旗の中央には金で刺された紋――
「承徳王の旗だ!」
最初に叫んだのは、砦の上にいた老兵だった。
次いで、石家の兵たちの間に、次々とその名が走る。
「殿下が――御自ら――!」
荒野に、騎兵一万がなだれ込んできた。
それはただの増援ではなかった。
戦場の風景そのものを塗り替える色だった。
柴孔が先頭に立ち、号令を飛ばす。
そのすぐ背後、白馬に乗った一人の若者。
顔に砂が貼りつき、額には汗。
それでも姿勢は崩さず、手綱を握るその手に、血の滲みがある。
「承徳王――允成殿下だ!」
誰かが叫ぶたびに、兵たちの心に火が灯る。
石家の一将が、騎馬から身体を乗り出して叫んだ。
「北辺に王が立たれたぞ! 全軍、攻勢に転ず!」
鼓が鳴り、馬がいななく。
三方からの挟撃が、戦場を一気に押し返していく。
鉄騎の軍勢が、完全に浮き足立った。
そのころ、承徳王本人は――
白馬の背に、まるで縫い止められたように座していた。
体が重い。
初めての実戦。
禁軍の装備は身になじまず、寒さに固まった指が、鞍の革に食い込んでいる。
だが落ちない。
いや、落ちてはならない。
(今、私が倒れれば――この軍は割れる)
鼓動が、鼓の音に混じって耳の奥で鳴っていた。
(戦は……一度でよい)
誰にも負けぬという証を、
この一度で突き立てれば、
誰も、明玉を嘲らせはしない。
「殿下!」
柴孔が寄る。
允成の口元に血がにじんでいたことに気づいたのだ。
「御馬からお下りを――いったん、幕舎へ」
「……嫌だ」
「しかし!」
「……誰も、見ようとしなかった。
五年、誰も見なかった。
私はここにいると、何度呼んでも、届かなかった」
声は小さかったが、柴孔は凍りついたように動けなかった。
「だから、私はここに立つ。……見せねばならぬ。
ここに立つ者が、“妃を持つ資格”を得るとは、どういうことかを」
その言葉は、もはや少年の声ではなかった。
柴孔は、そっと馬の横に退き、深く頭を下げた。
「殿下……この柴孔、命を賭して、殿下の戦を御支えいたします」
その夜、戦は終わっていた。
砦に残っていた兵が包囲の裏から打って出て、
三方からの連携が敵の後陣を裂いた。
鉄騎軍、総崩れ。
その中で捕えられた一人の男は、重い鎧のまま、血と砂にまみれた姿で引き据えられた。
「璃宋の皇族? ……どうせ影武者であろう」
嘲る声に、柴孔が目を細めた。
だが、允成は馬から下り、静かに近づいた。
「私は璃宋の皇太子、承徳王允成だ。信じずともよい」
嘲りが男の顔から消え、沈黙が一拍。
允成は、目を伏せずに命じた。
「柴将軍。この“客人”を芳都へ。鉄騎の内情を詳しく聞き出せ。……容赦はいらぬ」
柴孔が叩頭する。
「畏まりました、殿下」
「……帰還する」
允成は、短くそう言った。
その声には、疲労も、苦悶も、悲壮もなかった。
ただ、正しく“王の声”が宿っていた。




