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北征  作者: 早坂知桜
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第5章 軍議の幕開け

東宮房。

黒漆の机を挟んで向き合うのは、石仲安と柴孔。

ひとりは北辺を治める宿将、ひとりは禁軍三十万の総監。

このふたりが並び立つ場は、そう多くはない。


允成は、その静かな圧力の中心にいた。

まだ十七の少年――であるはずだったが、いまこの部屋では、誰も彼を少年とは見ていない。


「なにごとだ」


座につくなり、允成が問う。


石仲安が、机の上に一枚の地図を広げる。


「北里塞が包囲されました。鉄騎国の兵、およそ七千余騎。

守備には千名近くがおりますが、三日が限界と見ます」


「援軍は?」


「懐北塞より、一将・二将がそれぞれ三千騎を率いて出ております。

すでに動いておりますゆえ、北里塞の落城は避けられるかと」


「さすがだな、石家は」


允成は頷き、視線を地図へ落とした。

だがその目は、地図の上ではなく、敵の動きをすでに脳内で描き始めていた。


石仲安が低く、苦い声で続ける。


「とはいえ、今回の出兵は――やや規模が大きすぎる。

これは、斥候ではありません。後ろに必ず何かがあります」


柴孔が、初めて口を開いた。


「殿下。禁軍は都を守る兵にございます。

軽々に北へ出すことは――国是に反する行為。どうか、慎重にご判断を」


その声音には、老将の矜持があった。

だが、その矜持を、允成はわずかに切り裂く。


「禁軍が動けば、都が揺らぐ。鉄騎もそう考えているだろう。

……だからこそ、今だ」


「殿下……?」


允成は地図の上に手を伸ばし、包囲線の外に円を描いた。


「援軍に向かう石家の軍を、鉄騎は正面から迎え撃つ陣形をとるだろう。

騎馬の民は速度に自信がある。包囲を解き、前に出るはずだ」


柴孔の目が細くなる。


「北里塞の千名は、動かないと見ているのか」


「千名では背後から撃たれても影響はない、と踏んでいる。

だが――こちらに、即応の騎兵が一万、北の練兵場に常駐していると、私は聞いている」


「……」


柴孔の顔が動かない。

だが、沈黙は肯定に近かった。


允成は、机の縁を軽く叩いた。

それは思考を収める音だった。


「柴将軍。もし私がこのまま登極すれば、いずれ“百万の親征”を誰かが口にするだろう。

だが今は違う。私はまだ“承徳王”だ。出られる今のうちに、出る」


柴孔の眉が動いた。


「殿下……まさか、御自ら前線へ?」


「出ねば、何も変わらぬ。

私は父とは違うと、散々口にしてきた。ならば――証を示す」


柴孔は一瞬、言葉を失った。

目の前の少年の姿に、どこか幻のような影を重ねる。


かつて自分が見上げた、

“何かを変えようとして、何も変えられなかった若き皇族”たち。


だがこの少年は、ただ理を語っているのではない。

命を、踏み出すための足に乗せている。


「殿下、前線は甘くはございません。

地図で描くようには兵は動かず、風も、馬も、矢も、殿下の理など知らず飛び交う。

……それでも、行かれると?」


允成の答えは、ひとつだった。


「この戦は、国を守るためではない。

私は――“妃のために座を作る”と決めた。

そのために、誰にも文句を言わせぬ“戦功”がいる」


柴孔の目が見開かれた。


だがその言葉に、石仲安は静かに頭を下げる。


「承徳王殿下の御言葉、しかと承りました。

石家、全力をもってこれを支えます」


沈黙が満ちる。


そのなかで、柴孔はひとつ、静かに膝をついた。


「……この齢にして、このような言葉を賜る日が来ようとは。

殿下の勅命、柴孔――命をかけてお受けいたします」


允成は小さく、目を伏せた。


「……まだ、なにも始まっていない」


それでも、柴将軍の瞳には、涙が光っていた。

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