第4章 承陽殿の胸騒ぎ
朝議を終え、承陽殿へと戻る道。
冬の名残を引きずる石畳の冷たさが、靴底越しにじわじわと滲んでくる。
廷臣たちが頭を垂れ、「承徳王殿下」と呼ぶ声には、以前にはなかった一抹の畏れが混じっていた。
――何を見た?
允成は黙って歩きながら、その視線を感じていた。
北を見据える視線。王を値踏みする目。
十七の少年に向けられるには、いささか重い問いだった。
けれど、ここから退くことは、もうできなかった。
承陽殿の門をくぐった瞬間、ふと空気が揺れる。
何かが、引っかかる。
ほんの一瞬。
けれど、確かに胸の奥をざわつかせるものが、背中を走った。
――その理由はすぐに見えた。
廊の奥、障子の向こう。
明玉が、誰かと話していた。
その声は静かで、怒気も焦燥もなかった。
ただ、落ち着いた、遠慮のある会話の調子。
しかし、その相手の顔を見た瞬間、允成の足が音を立てた。
楊士文。
楊家の次期当主。廷臣としては温和な評判を持ちつつも、
王允中の庇護を受け、綺華の婚儀にも何かと関わりがある男。
「……」
士文はすぐに気づいた。
頭を下げ、言葉少なにその場を辞した。
何も咎められたわけではない。
ただ、承徳王が来たという、その事実だけで、士文は身を引いた。
その背が遠ざかるのを見送ると、允成の足が自然と速まっていた。
「……何を話していた」
明玉はわずかに目を見張り、そして微笑んだ。
「とくにはなにも。……昔、楊家のご縁でお世話になったことがありまして。
ただ、ご機嫌を伺ってくださっただけです」
「それだけではあるまい。言え、何を言われた?」
自覚している。
この声は冷静を装いながら、嫉妬で濁っていた。
言葉が棘を持っているのを、明玉もきっとわかっていたはずだ。
だが彼女は、咎めず、ゆっくりと言葉を選んだ。
「……もし、王宮から出されるようなことがあれば、楊家で面倒を見ると。
そんなことにはならないと、慰めてくださいました」
允成は、心の奥で小さく舌打ちした。
――甘く見られたな、士文。
だが同時に、たしかにそれは、現実的な“配慮”でもあった。
政の席に名がなく、籍も曖昧な明玉は、そう言われても仕方がない立場にある。
だから、口が勝手に動いた。
「……そのようなことには、ならぬ。
そなたを――承徳王妃とする」
言い放った自分の声が、やけに真っ直ぐ響いた。
意地ではない。思いつきでもない。
これは、すでに自分の中で幾度も繰り返してきた言葉だった。
一瞬の静寂が落ちた。
明玉は、その目に何かを宿して、微かに笑んだ。
「はい、殿下」
その声には、たしかに肯定の響きがあった。
けれど、それは信頼の音ではなかった。
まるで――
(子を諭すようだな)
允成は胸の奥で、薄く痛みを感じた。
彼女はまだ、信じてはいない。
その重みは、冷静を気取るには少しだけ過ぎた。
「……殿下、いかがされました?」
明玉が尋ねる。
はっと気づけば、彼女を見つめたまま、言葉を失っていた。
脳裏に、ある幻が過ぎる。
赤と黒の衣。
髪を高く結い上げ、襟元に銀の細紐。
儀礼の衣装に身を包み、玉座の隣に並び立つ、未来の明玉の姿。
まだ遠い、けれど明確に焼きついた幻。
「……このあと、東宮房に茶を持ってこい」
「……承知いたしました。侍女長にお伝えしておきます」
允成の眉がぴくりと動いた。
「そなたが持ってくるのだ」
それきり黙っていると、明玉が目を瞬かせて、思わず笑ってしまった。
「殿下、どうか困らせないでくださいませ。
わたくしが侍女長に叱られてしまいます」
「侍女長がなんだ。私は承徳王だぞ」
ふてくされたような声に、明玉はとうとう笑いを堪えきれなかった。
――廷臣たちの前では鋼の仮面を被る承徳王も、自分の前では、まだ少年のまま。
その時だった。
石鼠が小走りに駆け込んできた。
「殿下!」
その声は、明るさをひとかけらも持たない。
風を切る報せのように、東宮の空気が一変する。
「砦の一つ、北里塞が……鉄騎国の兵に囲まれました」
明玉の笑い声がまだ耳に残っていた。
だが、次の瞬間。
允成の顔から、少年の色がすっと消えていた。
残されたのは、ただ冷ややかで、決して引かぬ眼差し。
王としての決断を、もう迷わない者の目だった。




