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北征  作者: 早坂知桜
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第3章 禁軍

数日後の朝、承陽殿の小軍議の間。

陽がまだ傾ききらぬ時間、深く落とされた簾の奥に、黒衣の男がひとり、静かに立っていた。


柴孔。

禁軍三十万を束ねる総監、宮中でその名を知らぬ者はいない老将だった。


立ち姿には老いの影がなく、むしろ研ぎ澄まされた静の気が張り詰めていた。

そしてその張り詰めた空気に、允成はまったく臆することなく足を踏み入れる。


「待たせたな」


柴孔がすっと立ち上がり、無駄のない動作で一礼を取る。


「殿下に拝謁の栄、恐悦至極にございます」


「楽にしてよい。……初対面だな、柴将軍。私が允成だ」


柴孔は姿勢を正したまま応じる。


「拝見いたしまして、恐れながら申し上げます。

殿下のお年にしては、静かに過ぎる御風貌。恐れながら、御覚悟のほどを――」


「……察してくれるな」


允成の声が割って入った。

柔らかくはあったが、間にある空気を断ち切るほどには鋭かった。


「父帝は文治の人だった。学問を重んじ、軍を遠ざけることで国を治めようとされた。

それは、ひとつの正解だ。だが私は――それでは、国境は守れぬと思っている」


柴孔の瞳がわずかに細まる。


「軍なくして国は保てぬ、と?」


「文治の端に座っていた五年で、それは嫌というほど思い知らされた」


彼の言葉に、微かな震えが宿った。

それは怒りではない。

五年、冷たく閉ざされた場所で――心と命を均等に削った少年が持ち帰った、最も澄んだ実感だった。


柴孔が静かに頷く。


「では……殿下にお伺い致します。軍を、どう御覧になりますか?」


「私は書物から学び、報告書を読み、図を描き、地図をなぞった。

だが、現場を知らぬ。私が知りたいのは――あなたの目に映る“軍の今”だ。

だから、会いたかった。直接、聞かせてほしいと思った」


その返答に、老将の唇がわずかにほころぶ。

だが、そこにあるのは安堵でも親愛でもない。

もっと静かで、もっと深い――困惑混じりの敬意だった。


「……ははぁ。なるほど。殿下は、陛下とはお違いですな」


「父には父の理由があった。それは否定せぬ」


「もちろんにございます」


柴孔は一礼し、わずかに息をつく。


「軍と皇族が距離を置く。これは璃宋が建つ以前の教訓にございます。

昔、軍が皇を傀儡とした例は数知れず……禁軍が“皇の刃”と化すことは、国を崩す毒ともなりましょう」


「では、柴将軍は、私を……どう見ている?」


問いに、柴孔は一瞬の間を置き、そして言った。


「――正直に申せば、殿下のお言葉は、むしろ恐ろしゅうございます」


その言葉に、室内の空気がぴたりと止まった。


「恐ろしいか」


允成の声は、先ほどよりも一段低かった。

冷たいのではない。

むしろ、火を覆う金属のような、内に熱を秘めた音だった。


しばしの沈黙ののち、柴孔が口を開く。


「十五歳。殿下はまだ若く、言葉だけでは測りきれぬお歳にございます。

けれど、その言葉に実を感じました。

……だからこそ、恐ろしい。

軍に近づく覚悟も、軍を使う覚悟も、両方をお持ちなのではないかと」


允成は身を乗り出すことなく、わずかに姿勢を正す。


「父が軍を遠ざけた時代は、終わるべきだ。

北の風は濁っている。芳都が遠くても、血の匂いは届く。

文書ではなく、“軍が動けるのか”――そこが知りたかった。柴将軍、禁軍の現状は?」


その問いに、柴孔は微かに肩を落とした。


「……禁軍、三十万余。即応兵は十万。

ただし、末端には緩みが見え始めております。

……それも、長く出動のなかった軍ゆえの宿痾。どうかご寛恕を」


「その中で、すぐにでも動かせる兵は?」


「騎兵三万。そのうち一万は北の練兵地にて常駐しております」


「……ならば、それで充分だ」


柴孔の瞳がわずかに揺れた。


允成は、それ以上何も言わなかった。

だが、柴孔には伝わった。


この殿下は、動く気だ。


少年が、己を王たらしめるために軍を使うのではない。

彼は、王であることを前提に軍を動かすつもりなのだ。


(これは、命を賭して仕える覚悟がいる)


柴孔は静かに拱手し、そのまま頭を下げた。

視線の先、筆を握る允成の手が、わずかに震えていたことに、老将は気づかないふりをした。


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