表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
北征  作者: 早坂知桜
2/10

第2章 塩と明玉

朝議のあと、允成は一人、承陽殿へと戻っていた。

春の気配がほんのわずかに混じる風が、石畳をすべるように吹き抜ける。

遠くの回廊、沈侍女長に連れられて歩む明玉の姿が見えた。


一歩一歩、音もなく。

薄衣を揺らし、背筋を伸ばして歩くその姿は、まるで風のなかに紛れるように儚かった。


喉がわずかに鳴り、名がこぼれそうになる。

だが允成は声をのみ込み、指先にこわばるような力をこめて、その場を離れた。


――そなたに、余計な重荷を背負わせたくはない。


言葉にならぬ思いが、胸の奥で小さく疼いた。

足を止めることなく、静かに東宮庁へと歩を進める。


東宮庁に戻れば、すでに石鼠の姿はない。

ここ数日、彼は省庁を奔走していた。


明玉の名を、正式に女官名簿へ戻すために。

だが、どこへ掛け合っても、帳面をめくる手は動かず、返ってくるのは冷たい沈黙ばかりだった。


かつて、沈侍女長でさえ言ったのだ――

「名がなければ、端女と同じです」


その沈も、今では折に触れて明玉に侍女としての所作を教えている。

あの娘の立ち居振る舞いが、黙って人の心を動かすのは、昔から変わらなかった。


「茶を三つ、用意させよ」


控えていた小宦官にそう命じたとき、廊下の向こうから靴音が近づく。

その響きには、片や武将の重み、片や宦官の軽やかさがあった。


「殿下、本日は申し上げたいことがございます」


先に口を開いたのは石仲安。

その声音は低く、しかしどこか剣のような鋭さを含んでいた。


「塩のことだな。朝議でも王允中が言っていた」


「はい」


允成は文書から目を上げ、彼らをまっすぐに見据えた。

筆の先がわずかに揺れていたのを、石鼠は見逃していない。


「だが、私は石家から塩の専売権を奪うつもりはない」


允成の声は冷静だった。

いや、冷たすぎるほどだった。


「商いである以上、鉄騎国と取引があることも承知している。

そこを断てば、かえって奴らの飢えを煽り、侵攻の口実を与えるだけだ」


「お判りいただけて、痛み入ります」


石仲安は深々と頭を下げる。

その仕草に、偽りはなかった。


「石家は塩で国境を守っている。

王允中は“密売”を口実に専売権を奪い、後から下賜として王家に戻すつもりなのだろう。

だが、塩と国は秤にかけるものではない」


「殿下のお言葉、しかと頂戴いたしました」


そこで一拍。

石仲安の声音が、微かに低くなる。


「殿下が、石家の塩をお守りくださるのであれば。

我が家も、殿下のお立場を……とくに、“蘭氏”の件で、ご協力いたします」


允成の目が、わずかに細くなる。


「……石鼠、おまえが吹き込んだのか」


袖を払って一礼した石鼠は、いつもの柔らかな笑みを浮かべていた。


「申したもなにも。明玉さまのお立場を整えるには、

王家・楊家・石家の三家の承認が必要にございますゆえ」


「三家の了解……そう単純な話ではない」


指で机を軽く叩く音が、静けさのなかで響いた。


「では――」


石仲安が一歩進み出て、声を低く抑えた。


「石家は、蘭氏を承徳王妃とすることに同意いたします。

後宮には、我が家からも一人、姫を差し出しましょう。これは盾です。

塩の利権は、我が家と北の血で保たれております。

……王家がそれを“混じっている”と見るのは、つまり裏切りを恐れているのです」


允成の眼差しが、やわらかくも鋭く揺れる。


「疑う者に何が見える? 北方の守りは、石家が担ってきた。

そこを奪って、綺華に何ができる」


仲安は苦く笑い、首を振った。


「殿下は、英明にていらっしゃる。

ですが、世は理では動かぬもの。――ときに、香のように、風で流れてしまう」


允成は、再び筆を手に取る。

書くべき言葉はまだ定まらない。だが、その手は迷っていなかった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ