138 征西の開始
ラヴィアラなどと比べると、もともと姫として育てられたルーミーは体力がないせいか、しばらくベッドに臥せっていた。とはいえ、体そのものは健康で、いずれまた元気になるだろうということだった。
俺が出産後、最初にルーミーのもとを訪ねた時も顔色は悪くなかった。
「わたくし、頑張りましたわ」
「それは俺もよく知っている。でかした。王族の血を引く娘の誕生だ」
「でも、あなたは本当は、男子ならもっとよかったと考えているんではありませんこと?」
少し、俺をからかうようにルーミーは言った。
「それがな、そんな気持ちは本当になかったんだ。お前と赤子が無事であることだけを心から願っていたよ。証人ならいる。ラヴィアラとアルティアに聞いてみればいい」
「わかりました。あなたは、策を弄しはしますけれど、心根はまっすぐな方ですから、わたくしも疑ったりはいたしません」
ルーミーの顔はもう、母親のものになっていると思った。
女は子供を生むと、顔つきが変わる。ただ、俺にはそう見えるだけかもしれないが。
「あとな、娘だろうと王族の血を引く人間には変わりはない。なんら問題はないさ」
どのみち、ここから先は俺の政策は流動的になるわけだし。ハッセの征西がどうなるかで、出方も変わる。
「王都の情勢はわたくしも伝え聞いております。ちょうど、そろそろ出兵がはじまった頃でしょうか」
「そうだな。敵はカルク子爵という、ちょうど前王派の勢力圏の入口に当たるところの領主だ。そこに前王派が集まって一万ほど。まあ、前哨戦といったところだな」
敵の主力であるタルムード伯・サミュー伯の大領主は、距離があることもあって、あまり兵を出してはいない。むしろ、深くまでハッセたちが攻め込んでくるのを、手ぐすね引いて待っているといったところだろう。
前王派のタルムード伯・サミュー伯が根拠としているタルムード県もサミュー県もサナド海峡という海を越えなければならない。事実上、巨大な島だ。そこに上陸してしまえば敵の根拠地で戦うしかない。征西軍のリスクもかなり高くなる。
「実兄である陛下のことも不安かもしれないが、今は自分の回復を考えろ。出兵する連中も王だけは絶対に死守せねばならないといけないと思っている。ケガをすることだってないだろうさ」
「はい。ありがとうございます」
妻の前ではウソをつかないように努めた。
「まさか、こんなところで王を戦死させるほど征西軍も無能の集まりではないだろう。変な話、負けたとしても王が生きていれば大半の者にとったら、どうということはないのだ。前王派がすぐに王都に攻め込んでくることはまずありえない」
「それと、娘の名前を決めないといけないのですが」
これは俺はもう決めていた。
「ルーミーでいいと思う」
「わたくしと同じ名前ですか?」
ルーミーは少しきょとんとしていた。それは考えに入ってなかったのだろうか。
「なにせ、王家の血を引く娘だぞ。王族の子女の名前をつけるべきだ。かといって、俺がかつての姫の名前などを使うとなると畏れ多い。俺でも不敬だと思う。なら、使っても何も言われない王族の子女の名前には、何が残っている?」
ルーミーは楽しそうに笑った。
「そのとおりですわね。わたくしが自分の名を娘につけても、誰からも文句は出ませんわ」
「だろう。あと、白状すれば、俺は名前をつけるのが苦手でな……。娘の場合は妻と同じ名前にしたいんだ……」
ラヴィアラの娘の時もラヴィアラと名付けた。どこにでもいる庶民の名ではないのだ。歴史上、ずっと残り続ける名前になるから、おいそれとつけられない。
「あと、ずいぶんいいかげんにつけた例を知っていてな。そういうのを踏襲してはいけないと思っているんだ」
ルーミーは何が何だかわからないという顔をしていた。わかるわけがないから、それが正しい反応だ。
――それはワシへの当てつけか?
オダノブナガがむっとした声で言ってきた。
そうだよ。自分の娘に「犬」とかそんな名前をつけてただろう。呪術的な意味でもあったのかもしれないけど、なんで娘の名前が「犬」なんだ。
――ワシの国では諱を呼ぶことはほとんどなかったのだ。どうせ、官職や官途名やらで呼ぶのだから、どんな名前だって大差はない。それと、男子にも変な名はつけたが、それは幼名だ。成人したらまともな名前をつけている。
そのあたりの名前の価値観はオダノブナガの世界とは、相当違うみたいだけど、それでも犬なんてつける奴はいなかっただろ。
――それは、まあ、そうだな。
じゃあ、やっぱりこいつのセンスは何かおかしい。いやセンスの問題じゃないな。それがおかしいことをわかっていて、つけているんだから。
とにかく、俺は自分の娘に犬と名付ける勇気はない。それこそ、王妹を妻にしてそんな名をつければ反逆の意志ありと思われる。
――たしかにそうだ。そこはルーミーという名にするべきだな。
オダノブナガもあっさり納得してくれた。
●
その頃、毎日、早馬が俺のところにやってきていた。
理由は明白だ。戦時状況を詳しく確認するためだ。
ただ、本当に重要な情報はラッパのほうからやってくる。こちらのほうが確度も高い。
その日の夜はヤドリギが俺の部屋にやってきた。ヤドリギ直々ということは、何か戦局に動きがあったのだろう。
「しゃべっていい。むしろ、雄弁に語ってくれ」
跪いていたヤドリギが「御意」と短く言った。
俺が初めて出会った頃からヤドリギの容姿はまったく変わっていない。ずっと若いワーウルフの女のままだ。実年齢はわからない。
「戦況ですが、いよいよ王軍とカルク子爵の前王派が衝突いたしました。兵力では王軍が倍ほどかと」
「そのはずだ。敵が一万で王軍が二万と少しか」
「それで、戦況なのですが、敵の守りが堅く、王軍は攻めあぐねております。いくつかの砦を攻めていますが、攻城戦に慣れている将が少ない様子で」
いかにもありそうな話だな。平原でぶつかるならともかく、砦を落とすとなると、数だけというわけにはいかない。将の判断が必要になる。




