4
オマールが知っている限り、解放軍リーダーや参謀のように皆と主を異とするのは七人。
その内の一人が好意を寄せるクロエだった。
つまりクロエは、オマール達がまだ知らないことも知っている可能性が高いということだ。この先に不安を抱く解放軍の面々にとって、知りたくて仕方が無いパンドラの箱を、か弱い彼女も持っているのかもしれない。
初期メンバーに数えられながら、中核にいないクロエは時として人々のそういった不安を和らげる。中核の面子は、末端の人間には少々近寄りがたい。しかし治療部隊の一員として動くクロエとはよく顔を合わせるし、何よりその雰囲気が人々を和ます。
それがオマールにとって、少々歯がゆいのだけれど。
(恐らく俺と同じような想いを抱えている連中は多い)
解放軍のリーダーが眩い太陽なら、クロエは温かな木洩れ日だ。
太陽を目標に人々は突き進むが、決して手に入れることはできず、近寄れば身を滅ぼす。だが木漏れ日は優しい光を届けて疲れた心身を癒す。
その木洩れ日を、その日たまたま見つける。
「…クロエ殿?」
「あ、オマールさん」
「ここでなにや、」
別邸から見ると大きな木の陰になっているそこに、クロエは座っていた。大きな幹に背を預け、今は何かの書物をめくっている。文字が読めるとは知らなかった。彼女はそれなりの教養があるらしい。
しかし今はそれよりも、彼女の腿やら肩やらに頭を乗せる存在の方が気になる。それも、複数。
そのどれもが、気持ちよさそうな寝息を立てていた。
「こいつらは…」
「この間の作戦で保護された子供たちですよ」
「何であなたのところにいる」
「この子達、夜はあまり眠れていないみたいで」
「親から引き離されたか、もしくは孤児だな」
「…ええ」
彼女の声が少しだけ、暗く沈んだ。
オマールにも覚えがある。彼もかつて、奴隷に落とされ家族と引き離された。あの後一度も会うことは無い。この解放軍にも、家族の姿は無かった。
(生きていて欲しいと思うが、それが無謀な願いなのだと知っている)
不当に扱われた結果、命を落とす奴隷も少なくない。
「あなたに随分懐いている」
「そのようですね」
「とても安心した顔で寝ているな」
「小さな頃の弟のようです」
くすくすと笑うクロエには二つばかり年下の弟がいる。後に知ったのだが、オマールが解放軍と戦った際、対峙した精鋭の中にいたらしい。
弟に刃を向けた相手にああ言いきったのかと、そこでもまた驚かされた。いつぞや、それを詫びれば、『誓約』によるものなのだから謝罪する必要はないと言った上で、クロエは悪戯っ子のようにそっと、オマールに囁いた。
弟が、歯も立たなかったと悔しがって、あの後鍛錬に励んでいます
それに、そうかと神妙な顔つきで頷くことしかできないオマールを彼女は笑う。その笑顔を見て、彼女の弟の命を奪わなくて良かったと胸を撫で下ろした。今クロエが笑いかけてくれるのは、弟が生きていたからこそだ。殺していたらと思うと、ぞっとする。
その後、精鋭部隊に所属したオマールは何かと彼女の弟を気にかけた。向こうも目標と見なしているようで、何度も共に鍛錬に励む仲になった。
「ロイクはどうですか」
「悪くない。精鋭の中でも群を抜く」
「あなたに敵いそうですか」
「…それはわからない」
肯定しないのは事実、まだまだだと思うからであって、別に格好つけようと思ったからではない。ないはずだと、オマールは自分を納得させようとする。
その様子をどこか面白そうに見ていたクロエは、空いている左隣に座るように勧める。断る理由も無く、オマールはいつもより少しだけ注意を払って座った。
「どうしてここが空いている」
「先程までロイクがいましたから」
「仲の良い姉弟だな」
「一人きりの、家族ですから」
穏やかに微笑む彼女の顔には、何の陰りも憂いもない。
それでもオマールはどこか頼りなげに見えてしまうのは、惚れた故か。
クロエとロイクの姉弟は、奴隷の両親を持つ。かなり早い頃に両親から引き離された二人は、どうにかその手だけは離さず暮らしていたと言う。そのせいもあって、二人の絆はとても強い。
はっきり言えば、妙齢のクロエが今もフリーなのは、そのロイクが目を光らせているからに他ならない。クロエは自分のことを目立たない存在だと謙遜しており、その隣で若干肩を落とすロイクに少々同情の目線を送ったことが何度かある。母代わりと言っても過言ではないその姉に、変な虫が集るのを全力で防いでいるのは誰もが知るところだ。
そのロイクがいた席に座っていいのだろうかと悩むが、オマールは即座に己に許可を出す。
(ロイクの戦友ではあるが、俺とてクロエを狙う男の一人だ)
なんて、誰に向けてでもない言い訳を心の中で呟いて。
「この子達が、何も怖がらず、明日を楽しみに眠れる日が来ればいいんですけど」
「ああ」
「オマールさんは小さい頃、怖い夜はどう過ごしていました?」
「獲物を手放さなかった」
「ふふ、らしいですね」
「あなたはどうしていた」
「ロイクと手を握り合って、眠りました」
「なるほど」
これはシスコンにもなるわけだと、真面目な顔で納得する。
その心中を知らないクロエは子供達を見て、優しい、けれど悲しそうに眉を下げる。
「『誓約』によって不当に扱われることがないと、頭で理解しても…負った傷は、恐怖は簡単には消えてくれません。この子達も、長く苦しめられるでしょうね」
「そうであっても、前に進むことはできる。抱えた痛みは消えずとも、未来に希望があれば人は前に進める」
「…ええ。そうですよね」
「クロエ殿にとっての希望とは何だ」
「私は」
ふと、表情が緩み、そして胸の前で手を組む。それは神に祈りを捧げるような姿だった。
神などいないと、既に縋ることさえ馬鹿らしいと思うオマールに、神秘的で透明感さえ感じさせた。
「私は、とある御方に救われました」
「今の主か」
「ええ。あの御方は暗闇の中にいた私達姉弟を掬い上げて、人としての感情をくれました」
「人としての、感情?」
「色々とありますが一番大きなのは、他者を慈しむことです。私達は、お互いのことしか関心がありませんでした。他の仲間が痛みに、恐怖に震えていても、何の興味も抱かず、ただ内側に籠ってばかりでしたから」
「想像がつかないな」
「そうですか?…だとしたら、あの御方のおかげです。閉じこもっていた私達に、惜しみない慈愛を与えてくれました。だから今、私はこの子達を受け入れられる。その苦しみに寄り添えるようになりました」
ああ、とオマールは悟る。
クロエにとって、今の主は神に等しい存在なのだ。二人だけの世界で全てが完結していたクロエを外に連れ出したのが、クロエの『誓約』を持つ人間だ。
できれば、とオマールは惜しく思う。できれば、その存在に自分がなりたかったと。
けれどそれが矛盾であることにすぐに気づく。もしもクロエが慈悲の心を持たなければ、そもそも死を願っていたオマールは見向きもしなかっただろう。
あの時惹かれたのは、既に神を見つけたクロエだったのだから。
(だとしたら、俺はクロエ殿の主に感謝すべきだろう)
今のクロエに出逢えたのは、その主あってこそだ。オマールでは決して、クロエに光を、他者を与えることなどできなかっただろう。
本当に、巡り会わせとは不思議なものだ。