第一話 鉄と荒れ地
街道は両側から岩壁が迫り、抜ける道は前後の一筋しかなかった。日は西の壁の向こうへ落ちかけ、道の底はもう陰っている。東の岩壁の上半分にだけ、赤みが残っていた。ヴェナの町まで、あと半日と聞いていた。鉱と牧の前山の町だ。
グレンは荷を負って、その道を歩いていた。行く先々で狩りを請けて食う暮らしを、もう何年も続けている。こういう道では、頭の上から不意を突かれると、よけきれない。それを体で知っているから、歩く速さは変えないまま東の岩棚のへりから目を離さなかった。
その岩棚で乾いた音が鳴った。グレンは足を止める。
小石がいくつか道へ転がり落ち、はね返った音が岩壁づたいに長く響いてから消えた。グレンは荷を下ろさず、風の向きを確かめた。背から前へ、ゆるく流れている。足音も臭いも、もう上の何かに届いているはずだった。
影の中で鱗が動き、岩棚の縁から扁平な頭がのぞく。岩場に潜んで人を襲う獣だ。厚い鱗が体じゅうを覆い、生半可な刃は縁で滑って弾かれる。刃を通すには、鱗の継ぎ目か、目・鼻先の薄いところを狙うしかない。それも、近寄れればの話だった。間合いの数歩に入れば、近づいた者の足元の砂と岩粉がひとりでに浮いて腕と足に張りつき、長く居続けるほど層が重なって動きを縛る。刃で詰めようとした者ほど、先にこの砂が動きを止める。グレンはそれを知っていて、近寄らない。
獣が後肢を引き、低く沈んだ。真上からやや前へ、グレンを狙う向きに体を寄せている。飛びかかる溜めとともに、グレンの足元の砂と細かい岩粉がひとりでに浮いて、腕と足に張りついてきた。腕が重くなる。これがあの獣の砂か、とグレンは思う。粒はまだ薄い層に過ぎないが、ここに長く留まれば層が重なって動けなくなる。今のうちなら、踏み込めば振り払える。
グレンは止まらず、その砂の重みに逆らって一歩前へ出ながら、半身を低くひねって岩棚の真下から外へ抜けた。
獣が落ちてくる。グレンが半身ぶん外れたぶん、獣は狙いを外し、もう誰もいない道の底へ落ちかかる。グレンは鉄杭を一本抜き、落ちてくる頭の下から投げ上げた。腕の力で、重い鉄をまっすぐ打つ。
グレンは放たれた杭から目を離さず、念じた。
手を離れた鉄でも、近くにあればグレンの意のままだ。杭は宙で速さを増し、飛びながら向きを変えて、落ちてくる頭の、目から鼻先の薄い鱗へ下から向かう。まっすぐ投げたのでは届かない一点を破り、鱗の縁にも弾かれず深く食い込んだ。
鉄杭が頭を貫いたまま、獣は落ちた勢いのままに、グレンの足元すぐ前へ墜ちた。道幅の半分をふさいで横たわり、それきり動かない。
グレンは息をついたが、岩棚から目を離さない。さっき見た影は獣一匹ぶんにしては厚すぎた。
墜ちた音がやむと、岩棚の奥でもう一回り、影が起き上がった。最初の一匹より奥の、高い所だ。今度は飛びかからない。岩壁の出っ張りに爪をかけ、体を岩肌に貼りつけ、道の先のほうへ回り込みながら、一段ずつ斜めに降りてくる。
厚い鱗におおわれた背と脇腹がこちらを向き、目も鼻先も岩肌の側へ伏せて、薄い急所を隠したまま降りてくる。この向きでは、鉄杭を投げても鱗の厚い面で滑るだけだ。グレンはそう見てとった。あれが道へ降りきって向き直る一瞬だけ、薄い急所がこちらを向く。
足元には一匹目の死骸が横たわり、前へ踏み込む隙がない。グレンは前へ出ず、間合いの外から先に仕掛けることにした。
鉄粉の小袋を開け、ひとつかみを前方へ放る。背から前へ抜ける風に乗って、撒いた粉が二匹目の側へ漂っていく。グレンが念じると、散りかけた鉄粉がひとかたまりに戻っていく。風に流されて散るはずの粉が固まったまま、二匹目の降りきるはずの一点へゆっくり集まっていった。道の先の、斜め前の低い所だ。あとは急所がこちらを向く瞬間を待てばいい。
二匹目が最後の出っ張りから道へ降り、爪が石を噛み、太い首が起きて、こちらへ向き直る。岩肌へ伏せていた目と鼻先を、はじめてグレンの側へさらした。
その一拍で、グレンはもう一度念じた。
寄せておいた鉄粉が目と鼻先の一点でひとりでに燃え上がる。鉄の粉が薪や油よりずっと熱く燃えることを、グレンは鍛冶場で覚えている。それを撒き散らさず一点へ集めたぶん、火は薄い鱗を芯まで焼き貫いた。二匹目は声も上げず、前のめりに倒れて道に伏した。
風は背から前へ流れ、炎も熱もグレンの側へは戻らなかった。焼けた急所から細い煙が立ち、鉄粉と焦げた鱗の臭いが前へ流れて消えていく。
グレンは肩で息をしていたが、それでも体はまだ軽い。
二匹を片づけ、刺さった鉄杭を抜き取って、グレンは下り道を町へ向かった。日はすっかり落ち、下るほどに道ばたの採掘の跡が増えていく。掘り口は板で囲ってあり、捨て石は山と積んであり、鉱石を運ぶ手押し車が道に深い轍を残していた。町へ近づくほど、鉄錆と焼けた鉱石の匂いが濃くなった。ヴェナは斜面に張りついた段々の集落で、牧の柵と坑道へ向かう道が入り混じる。夜でも、戸口に手槍や刃物を立てかけた家が多かった。
人通りはもうないが、町外れに一軒だけ、火と音の絶えない家があった。鍛冶の工房だ。前山の町はつるはしも刃も鋤も、鉄の道具で回っている。だから夜も炉の火を落とさず、開け放した戸口の奥で炭火が赤く息づき、鞴を踏むたびに炎が大きく立った。鎚を打つ低い音が足の裏まで伝わってくる。
グレンは戸口で足を止めた。「刃を直したい。砥石を貸してもらえないか」。火の番をしていた老いた金物師が手を止めずに顎で台のほうを示す。グレンは「助かる」と頭を下げ、中へ入った。
台の脇に、砥石が粗・中・仕上げと並んでいる。グレンは荷を下ろし、短刀を抜いた。灯りにかざすと、鱗を断った刃の縁が一ヶ所、深く欠けている。脂と焦げた鱗を水で洗い、布でぬぐってから、粗砥は飛ばして中砥に刃を寝かせた。
角度を指の腹で一定に保ち、水を切らさず、押して力を乗せ、引いて抜く。欠けた所の両わきを、底に角を残さないよう、緩くなだらかに落としていく。手を動かしながら、グレンは別のことを思い出していた。
父サドルの炉が目に浮かぶ。鉄を打つ家は火を扱う家でもあり、物心のつく前から熱した鉄に手を入れ、火を一点へ集める父のやり方を手で覚えた。火を大きく広げるより、要るところへ集めて熱す。研ぎでも、肉を落としすぎるなと言われた。この手つきは、さっき鉄粉を狙った一点で燃やしたときにも出ている。
その腕で、グレンは火術師団の試験を受けた。故郷の邦が抱える、火を操る精鋭の部隊だ。最後の選抜まで残って、落ちた。部隊は大きな火を広く長く出し続ける力をいちばん重んじており、それがグレンのいちばん苦手なものだった。一点へ集める精度なら、誰にも負けない。だが広く長く燃やし続ける段で、ほんの一歩、及ばなかった。腕は鈍くなく、グレンの得手が部隊の求めるものと違っていた。
「ハンターか」。金物師が腰の鉄杭の束と刃の欠け方を見て言う。
「ああ、放浪のな」。グレンは砥ぎの手を動かしたまま言った。「今日、峠でバジリスクを二匹やってな。岩場で待ち伏せするやつだ。鱗が硬くて、断った拍子に刃の縁が一ヶ所、深く欠けた」
金物師が手を止め、グレンの手元をのぞき込んだ。「北の地金だな。粘りがあるから、硬い鱗を断っても縁ごと飛ばずに、こう食い込む。脆い鋼なら、縁ごと持っていかれてた。中砥で当たりを直して、仕上げに回せ」
「そのつもりだ」。グレンは粗砥を飛ばし、すでに中砥に取りかかっていた。
金物師がふんと笑った。
仕上げ砥に移したころ、金物師が手を止めた。「ハンターなら、ひとつ言っておく。採掘道の奥には近づくな」
「魔物が出るのか」。グレンは手を動かしたまま顔だけ上げる。
「魔物もいる。だが厄介なのはもっと奥だ」。金物師は炭を一つくべた。「突き当たりに、古い坑道がある。誰が掘ったのかも分からん、ずいぶん昔のものでな」
「掘り尽くして捨てた坑道とは、違うのか」
「ああ、違う。入った者はみな途中で引き返してくる。何を見たかは、誰も言わんがな」。金物師は声を落とし、炭を見つめる。「悪いことは言わん。やめておけ」
グレンはうなずき、もう一つだけ訊いた。「中はどんな様子だって聞いてる」
金物師は少し考えてから口を開く。「人の手で掘ったにしては、壁が妙に整っているらしい」
その一言で、グレンの手が止まった。刃を灯りにかざしたまま、何気なく訊くつもりが、つい具体的になった。「整ってるってのは、角がまっすぐ出てるってことか。それとも、面が平らってことか」
金物師は肩をすくめた。そこまでは知らん、という仕草だ。
グレンはそれ以上は訊かず、研ぎに戻った。だが手を動かしながら、子どものころを思い出していた。村の前山の丘の、岩あいの穴だ。弟のロルの手を引いて、暗がりへ入っていった。奥には、人が作ったのとは違う作りで、噛み合った歯車の残骸があった。誰が何のために作ったのか。グレンはあのころからずっと、その答えを探している。
刃を鞘に納め、礼を言った。「助かった。砥石、ありがとう」。壁が妙に整った古い坑道のことが頭の隅に残っていた。明るいうちに、坑道の入口だけでも外から見ておこう。そう決めて、グレンは工房を出た。
斜面を下りるころには、町はもう寝静まりかけていた。グレンは下手の安宿に入った。土間に長卓が一つあり、奥の竈はまだ火を落としきっていない。先に着いた採掘人が壁ぎわで鼾をかき、牧夫が卓の隅で銅貨を数えている。鉄と家畜と煤の匂いがこもっていた。
銭を受け取った宿主の女がグレンの腕の傷へ目をやった。四十がらみで、前山育ちらしい太い手をしている。「名前と行き先だけ聞いとくよ。決まりでね」
「グレン。放浪のハンターだ。北へ、カドラのほうへ抜ける」
女の手が止まった。まくれた袖からのぞくグレンの腕には、今日の擦り傷と打ち身がまだ生々しい。「ひとりかい。そんな腕で北までねえ」
「ああ。もう何年も、ひとりでやってる」
女はふんと鼻を鳴らして奥へ引っ込み、布と焼酎の瓶を持って戻ってくると、それを卓に置いた。「峠で何かやったね。洗っときな。放っとくと化膿するよ」
「峠でバジリスクを二匹仕留めた。掠っただけだから、深くはない」。グレンは礼を言って卓に着き、湯で砂と血を洗った。布に焼酎を含ませて傷口に当てると、じんとしみる。
女は卓の向こうに腰を下ろし、声を落とした。「ハンターってのはふつう里の近くで稼ぐもんさ。あんたはもっと北へ行く気だろう。この先へ行きゃ牧も鉱も尽きる。あとは巨人の領分だよ。何しに行くんだい」
「探しているものがあってな。それを追ってる」。それが何かは言わず、グレンはいったん手を止めて竈の火へ目を落とした。口にしたところで、どうせ信じてはもらえない。慣れたものだった。
女はそれ以上は踏み込まず、火を見たまま訊いた。「身内はいるのかい」
「両親と弟がいた。家を出ているうちに、皆殺しにされた」。グレンは布を畳むと、短く言い切った。「もう前のことだ」
女はしばらく何も言わず、竈に薪を一本足すと、火が小さく爆ぜた。「朝は早いよ。朝まで暖かいから、そばで寝な」
グレンは礼を言った。この安宿にひとりずつの寝間はなく、客は土間に横になって夜を明かす。グレンは竈のそばに横になった。土間でいちばん暖かい場所だ。明日の朝、坑道の入口を見てから仕事を探そう。そう思いながら、目を閉じた。
朝、宿を出ると、町には人の動きが戻っていた。採掘人が道具を担いで上手の採掘道へ上がり、牧夫は下手の囲いへ下りていく。鉄と家畜と煤の臭いは朝も濃く、空気は乾き、斜面に横から光が差していた。
行き交う人のなかから、ひとりの男が近づいてきた。四十手前だろうか。日に焼けた顔で手は荒れ、腰の革帯に短い手斧を提げている。男はグレンの腕の傷と鉄杭をじろりと見た。
「ゆうべ前山でバジリスクを二匹、ひとりでやったって聞いた。本当か」
「ああ、本当だ」。グレンは隠さない。「グレン、放浪のハンターだ」
男はクレフと名乗り、すぐ用件に入った。「採掘道の奥に魔物が出た。もう三日、掘り子が入れずにいてな。仕事が止まれば、こっちの賃金も止まる。腕が立つなら、ひとつ乗ってくれんか」。早口で損得ずくの物言いだ。「討った分だけ前金と歩合を出す。道具も松明もこっちで持つ。無理して深追いはしなくていい」
「乗る」。グレンは間を置かず、引き受けたうえで一つだけ条件をつけた。「やり方はおれに任せてくれ。奥へ突っ込んで力で押すような狩りはしない。まず地形を調べて、魔物の出る場所と通り道を見極めてから、罠を張って一体ずつ仕留める。掘り子は中へ入れるな。先におれが入って、数と居場所を確かめてくる」
クレフは品定めするように少し見て、それから顎をしゃくった。「いいだろう。入口まで案内する」
採掘道は採掘人が踏み固めた幅広の道で、両側に石屑の捨て場と木組みの支柱が続く。掘り口がいくつもあいていて、どれも縁が荒い。ノミとタガネの打ち跡が不揃いに残り、天井を支柱で支えている。人が力まかせに岩を割って掘った跡だ。
道は岩の張り出しを回り込み、その先で本道から外れ、細い脇道が岩壁の根方へ続いていた。もう誰も通らない道で、崩れた石屑が積もっている。
その奥に、四角い入口があいていた。
グレンの足が止まった。「先に行っててくれ。すぐ追う」。クレフにそう言って、入口の手前まで数歩寄った。
人が掘った坑道の入口とは、まるで違う。四隅の角は定規を当てたようにまっすぐで、壁の面も平らに整っている。壁にノミの不揃いな跡はなく、削った筋はどれも同じ間隔で同じ向きにそろう。床は水平に均してあり、入口の縁はぐるりと面取りしてある。
岩は前山のどこにでもある岩で、削り口だけが古びて、長い年月の埃と乾いた苔の薄い膜をかぶっている。奥は暗く、数歩先で見えなくなり、下りの傾斜がその暗がりへ続いていた。時おり奥から、ひんやりと湿った空気が抜けてきて、土と石の匂いだけがした。
グレンは縁に手の甲を当て、削り筋を指でなぞった。一定の力で同じ動きをくり返す道具でなければ、この精度は出ない。人が打つノミでは、こうはならない。子どものころ、丘の穴で見た歯車の残骸がふいに目に浮かび、指の腹に伝わる感触はあの歯車の歯と同じだった。
グレンは縁から指を離した。クレフは先へ進んでいて、脇道を振り返る気配もない。
入口の前に、目印の石を積んだ。位置を頭に刻んで踵を返し、まず仕事を終わらせる。だが採掘道へ戻る道々、グレンは何度もあの四角い入口を振り返った。
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呼び名 バジリスク。岩場で待ち伏せる獣。
棲み処 岩場や、岩あいの洞。日の差さない岩棚の影に伏せて待つ。
習性 真下を通る獲物へ岩棚から飛びかかる。二匹で潜むことが多い。背の厚い鱗を盾に用心深く動き、向き直るときだけ急所を晒す。
体と急所 厚い鱗が刃を弾く。刃が通るのは、鱗の継ぎ目か、目と鼻先の薄い所だけだ。
干渉 間合いの数歩に入ると、足元の砂と岩粉を寄せて相手の腕と足に張りつけ、層をなして動きを縛る。長く居続けると砂が重なって動けなくなる。近いほど強い。「睨まれると石になる」と言うが、睨みが元ではない。間合いに入ることが、この砂を動かす元だ。間合いを抜ければ砂は振り払って落とせる。




