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創世記



『創世記』


失われた三界のはじまりと、堕天せし光の記録



■ 序章 人間という罪


古い天界文書において、人間は「罪を持って生まれるもの」と記されている。


だが、その罪とは、盗み、偽り、殺めることのような、後天的な悪徳を指す言葉ではない。人間が罪を持つとは、存在そのものが世界の掟から外れている、という意味である。人間は生まれた瞬間から、ただそこに在るだけで、世界にわずかな歪みを生じさせる。魂を宿し、記憶を積み重ね、昨日と今日を区別し、まだ来ぬ明日を恐れる。その営みのすべてが、本来ひとつであった世界に境界を刻みつける。


世界は、はじめから今のような形をしていたわけではない。物質と時間、生と死、光と闇、過去と未来は、かつて互いに分かたれていなかった。すべてのものは流れの中にあり、ひとつの姿に留まることなく、無数の可能性へ散らばっていた。そこには「私」と「あなた」の区別もなく、生まれることと死ぬことさえ、同じ河の水面に浮かぶ泡に過ぎなかった。


その混沌に初めて境界を与えた力を、天界の古文書は【最初の魔法】と呼ぶ。


最初の魔法は、世界に形を与えた。生と死を切り離し、魂と肉体を結び、流れ続ける時間の中に「今」という一点を作った。だが、形あるものは、いつか崩れる。留められた時間は、やがて外へ流れ出そうとする。切り分けられた生と死は、再び混じり合おうとする。世界は誕生した瞬間から、崩壊の運命を内包していた。


その崩壊を防ぐために作られた器こそが、人間である。


人間は、記憶を保存するために生まれた。星々の記憶、過ぎ去った時間、失われた命の残響、まだ形を持たない未来への願い。それらを魂の内側に抱え込み、世界の形が流出しないよう留めるために、人間という器は地上に置かれた。ゆえに人間は、世界に必要な存在でありながら、同時に世界の掟を乱す存在でもあった。


人間は不確定である。

人間は変化する。

人間は選択する。

そして選択は、運命に揺らぎを生む。


この揺らぎこそが、人間の罪と呼ばれるものだった。




■ 第一章 女神族と地上テイア


人間を作り出したのは、かつて地球を支配していた古代の種族、【女神族】である。


女神族は、今の天使や魔族とは異なる、より古い時代の支配者だった。彼女たちは星の記憶を読み、時間の流れを織り、生命がどのように生まれ、どのように終わるべきかを知っていたとされる。人間界に残された遺跡、天界の禁書、魔界の深層に沈む石碑には、女神族が「星の母」「形を与える者」「記憶の庭師」といった名で記録されている。


女神族は、地上を【テイア】と呼んだ。


テイアは、ただの大地ではない。そこは、星々の記憶が滞留するために作られた場所であり、生きる者が時間を刻むための舞台であり、最初の魔法によって生じた世界の形を保存するための巨大な器だった。人間はそのテイアに住まう小さな器であり、ひとりひとりの魂が、世界を支える記憶の欠片となる。


だが、テイアは完全ではなかった。


人間が記憶を持つほど、世界には選択が生まれる。選択が生まれれば、運命は揺らぐ。運命が揺らげば、定められた世界線は枝分かれし、枝分かれした可能性は互いに干渉を始める。女神族は、この現象を【運命の揺らぎ】と呼んだ。


運命の揺らぎは、初めは小さな波に過ぎなかった。ひとりの人間が別の道を選ぶ。出会うはずのなかった者同士が出会う。死ぬはずだった命が生き延び、生きるはずだった命が失われる。そうした小さな変化が積み重なるにつれて、テイアには時空の特異点が生まれた。


特異点とは、世界の流れが乱れる場所である。


そこでは、過去の記憶が未来に滲み、死者の思念が生者の夢に現れ、まだ起きていない出来事の残響が現実を侵食する。もし特異点が増え続ければ、テイアはやがて最初の混沌へ戻る。生と死は再び混じり合い、形あるものは形を失い、世界は無数の可能性へ散らばって消える。


女神族は、それを防ぐために、魂の流れを整える巨大な仕組みを作り上げた。


それが、天界と魔界である。




■ 第二章 生命の川


天界と魔界は、しばしば対立する二つの世界として語られる。天界は光の領域、魔界は闇の領域。天使は秩序を守る者、魔族は秩序を乱す者。そのような説明は、人間にとって理解しやすいが、正確ではない。


天界と魔界は、本来、善悪のために作られた場所ではなかった。両者は、魂の循環を保つために作られた二つの岸であり、あわせて【生命の川】と呼ばれる。


生きた魂は、テイアで時間を刻む。肉体が死を迎えると、魂はその記憶を抱えたまま流れに戻る。整った魂、形を保った魂、次なる生へ向かう準備ができた魂は、天界へと導かれる。天界では魂の記憶が整理され、濁りが取り除かれ、再び世界の循環へ戻るための処理が行われる。


一方で、強すぎる憎悪、未練、恐怖、執着に縛られた魂は、天界へ至る流れから外れ、魔界へ沈む。魔界は、そうした歪んだ思念を土壌へ還し、原子の段階まで分解するための場所だった。魔界の瘴気とは、ただの毒ではない。分解されきれなかった思念、滞留した魂の残滓、形を失った記憶が漂う空気である。


天界が魂を整える場所なら、魔界は魂を砕く場所である。


どちらも生命の循環には欠かせない。天界だけでは、濁った魂を処理しきれない。魔界だけでは、整った魂を未来へ戻せない。二つの世界は相反しながらも、ひとつの流れを支えていた。


しかし、生命の川が作られたことで、世界には新たな支配構造が生まれた。


魂の行き先を管理する者。

生と死の境界を守る者。

運命の揺らぎを監視する者。

そして、掟に背いた不確定因子を裁く者。


その役目を担ったのが、天使族である。




■ 第三章 天界と魔法省


天界は、ひとつの王国ではない。


表向きには、天界全域は【魔法省】によって管理されている。魔法省は、下界の治安維持、魔族の監視、魂の管理、天使の位階制度、魔法の運用規定、各支部への命令伝達などを担う巨大な司法機関であり、天界における秩序の象徴とされている。


だが、魔法省がすべてを支配しているわけではない。


天界には五つの大陸があり、その大陸をまたいで七つの国が存在している。七国はそれぞれ独自の歴史、軍事力、信仰体系、魔法研究機関を持ち、地域ごとの実権を握っている。魔法省は全体を束ねる中央機関である一方、七国は現場を動かす政治勢力であり、その関係は常に緊張を孕んでいる。


天使の位階制度もまた、単なる能力の序列ではない。


古くから天使の階級は九つに分けられ、第一位の熾天使、第二位の智天使、第三位の座天使、第四位の主天使、第五位の力天使、第六位の能天使、第七位の権天使、第八位の大天使、第九位の天使として扱われてきた。この九階級という構造は、実在の神学においても偽ディオニュシオスの『天上位階論』に見られる九位階の天使論と響き合うものであり、熾天使・智天使・座天使を上位三階級とする思想は、天界の古い秩序観にも深く影を落としている。


第一位から第三位までの天使は、膨大な魔力量を持つがゆえに、主に天界で活動する。彼らは下界へ頻繁に降りることを許されず、世界規模の危機、あるいは七国の承認を必要とする特別任務においてのみ、その力を行使する。第四位から第九位までの天使は、下界の支部や管制塔に配属され、人間界に現れる魔族や運命の揺らぎを監視する。


天使は秩序の守護者である。


しかし、秩序を守る者が必ずしも正しいとは限らない。天界は世界を保つために作られたが、長い年月の中で、世界を保つことそのものが目的となった。魂の流れは管理され、人間の不確定性は危険視され、天界にとって都合の悪い歴史は封じられた。


そして、封じられた歴史の中心に、ひとりの天使の名がある。


ルシファー。


かつて天界最強の守護天使と呼ばれた者である。




■ 第四章 明けの明星ルシファー


ルシファーという名は、古い言葉で「光を運ぶ者」「明けの明星」を意味するとされる。実在の聖書解釈においても、この名はラテン語訳聖書の語彙や、イザヤ書における「暁の子」「明けの星」の表現と結びつき、後世のキリスト教伝統の中で堕落した存在、あるいはサタンと重ねられて語られるようになった。


天界におけるルシファーもまた、はじめから悪魔だったわけではない。


彼女は、最も神に近い炎を持つ守護天使として記録されている。熾天使に連なる力を持ち、膨大な魔力と、他の天使には扱えないほど純度の高い光を操った。彼女の翼は夜明けの色を帯び、戦場に現れるだけで魔族の軍勢は後退したという。天軍九隊が成立する以前、天界の辺境を守っていたのは、ほとんど彼女ひとりの力だったとさえ言われている。


だが、ルシファーは天界の秩序を信じきることができなかった。


彼女は、生命の川の本質に気づいていた。天界と魔界が魂を循環させている限り、人間は永遠に記憶の器として使われ続ける。生まれ、選び、苦しみ、死に、その記憶を回収され、また次の生へ流される。人間は自由に生きているように見えて、実際には世界の形を保つための部品として消費されている。


世界は美しい。

だが、その美しさは誰かの記憶を燃料にして成り立っている。


ルシファーはその仕組みを憎んだのかもしれない。あるいは、神の定めた掟そのものに届こうとしたのかもしれない。彼女の真意は、今も明らかではない。ただひとつ確かなのは、彼女が生命の川を断絶しようとしたことである。


そのために彼女が目指した場所が、古代遺跡【神の庭】だった。




■ 第五章 神の庭と原初の火


神の庭は、女神族が残した最古の遺跡である。


その場所は、天界にも、魔界にも、テイアにも属していない。三界の狭間、時間の流れが最も薄くなる領域に存在し、通常の魔法では辿り着くことさえできない。神の庭には、最初の魔法が行使された痕跡が残されており、世界が形を得る以前の混沌を封じ込めた祭壇があると伝えられている。


その祭壇の奥に封じられているものが、【原初の火】である。


原初の火は、火という名を持ちながら、炎ではない。光でもなく、熱でもなく、魔力でもない。それは暗黒物質に似た、因果そのものを焼き切る力である。原因と結果を結ぶ鎖を断ち、生と死を分ける境界を溶かし、物質と時間の接続面を破壊する。


通常、世界に存在するあらゆる現象には因果がある。火が燃えれば灰が残り、刃が振るわれれば傷が生じ、命が終われば魂は流れる。原初の火は、その当然を壊す。燃えたのに灰が残らない。斬られたのに傷が存在しない。死んだはずの者が死へ至らず、生きているはずの者が生の記録から消える。


ゆえに原初の火は、最も危険な禁忌とされた。


伝承によれば、原初の火を手にした者は、神のいる場所へ至る鍵を創ることができるという。だが、その鍵が何を開くのかは記されていない。神の玉座なのか、世界の外側なのか、あるいは最初の魔法が発動する以前の無垢なる混沌なのか。天界はその問いを封じ、原初の火の存在そのものを神話の奥へ隠した。


しかしルシファーは、原初の火が実在することを知っていた。


そして、それを手に入れるには、神の庭の封印に触れなければならなかった。




■ 第六章 生と死の境界


神の庭の封印は、天使の力では開かない。


どれほど高位の天使であっても、熾天使であっても、純粋な魔力だけでは扉に触れることさえできない。なぜなら、原初の火を封じる壁は、生と死の境界そのものによって作られているからである。


天使は、すでに死を越えた魂で構成される存在である。魔族は、死に滞留し、歪んだ思念から生まれた存在である。どちらも生と死のどちらかへ偏っている。境界に触れることができるのは、生きながら死を恐れ、死を知りながら生を願う者だけである。


つまり、人間である。


しかも、ただの人間では足りない。偽りのない時間の中で育まれた記憶を持ち、誰かに作られた命令ではなく、自らの意志で生を選び続けた魂。世界に都合よく整えられた器ではなく、傷つき、迷い、恐れ、それでも明日を望む純粋な魂。そのような人間だけが、封印に張られた壁を溶かすことができる。


ルシファーは、その事実を知った。


だから彼女は、天使であることを捨てた。


堕天とは、単なる追放ではない。堕天とは、天界の住人であることをやめ、生と死の境界に近づくための変質である。翼を捨て、位階を捨て、天界の祝福を捨てることで、ルシファーは自らを人間と同じ次元へ落とした。光を運ぶ者は、光の座を離れ、地上の影の中へ降りた。


この時から、彼女は堕天使と呼ばれるようになった。


天界の記録は、彼女を反逆者と記した。

魔界の伝承は、彼女を解放者と呼んだ。

人間の神話は、彼女を悪魔の名で恐れた。


だが、いずれの名も、彼女のすべてを語るには足りない。




■ 第七章 アトモスの心臓


原初の火を求めたルシファーの最終目的は、生命の循環を断つことだった。


生命の川を完全に止めるには、天界を滅ぼすだけでは足りない。魔界を焼き払うだけでも足りない。魂の流れを生み出している根源、すなわち生と死をつなぎ止める楔に干渉しなければならない。


その楔は、古い名で【アトモスの心臓】と呼ばれる。


アトモスの心臓は、エデンの樹の下に眠るとされる。エデンの樹とは、世界に枝を広げる生命の構造そのものであり、天界、魔界、テイアを貫く見えざる大樹である。その根元にある心臓が鼓動する限り、生まれた魂は死へ向かい、死んだ魂は流れへ戻り、流れた魂は再び形を得る。


この循環は、世界を安定させる。

同時に、すべての命を世界の仕組みに縛りつける。


アトモスの心臓を貫くには、純粋な魔力では足りない。必要なのは、生を懇願する魂の強さである。死を恐れること。失うことを拒むこと。明日を望み、誰かの手を離したくないと願うこと。その強烈な執着だけが、生と死の楔に刃を立てる。


ルシファーは、天使のままではその刃を持てないと知っていた。


天使は死を管理するが、死を恐れない。魔族は死に滞留するが、生を正しく知らない。人間だけが、死を恐れながら生きる。だからこそ人間は罪を持ち、だからこそ人間は、世界を変える鍵になり得る。


ルシファーが堕天した理由は、そこにある。


彼女は神に近づくためではなく、神の作った循環を壊すために、自らを人間へ近づけた。原初の火を手に入れ、因果の鎖を断ち、アトモスの心臓へ刃を届かせるために。


だが、神の庭で何が起きたのかは、誰も知らない。


残された記録にあるのは、ルシファーが封印を完全には解けなかったこと、天界が彼女を反逆者として追放したこと、そして彼女が地上へ逃れたことだけである。




■ 第八章 追放と魂の分裂


神の庭への侵入は、天界最大の禁忌だった。


ルシファーは位階を剥奪され、名を奪われ、天界から追放された。魔法省は彼女の存在を歴史から消そうとし、七国は彼女に関する記録を封印した。かつて最強の守護天使と称えられた者は、一夜にして世界を滅ぼそうとした悪魔として語られるようになった。


地上へ落ちたルシファーは、しばらく人間の中で暮らしていたとされる。


彼女は人間を観察した。食べること、眠ること、怒ること、笑うこと、老いること、誰かを愛し、誰かを憎み、いつか必ず死ぬこと。天界から見下ろしていた時には理解できなかった人間の時間を、彼女は地上で初めて知った。


だが、天界の追手は彼女を放っておかなかった。


ルシファーの力は、堕天した後もなお強大だった。もし彼女が再び神の庭へ向かえば、今度こそ原初の火に触れるかもしれない。魔法省は彼女を捕縛し、あるいは完全に消滅させるため、天軍を地上へ送った。


追い詰められたルシファーは、自らの魂を無数に分けた。


それは逃亡のための策であると同時に、彼女自身を世界中の時間へ溶け込ませる行為でもあった。魂の欠片は、血脈となり、因子となり、記憶の奥に眠る声となって、人間の中へ散った。天界は本体を見失い、ルシファーは追跡から逃れることに成功した。


しかし代償は大きかった。


魂を分けすぎたことで、ルシファーの本体は自我を失った。明けの明星と呼ばれた意志は砕け、かつて世界を変えようとした願いも、怒りも、悲しみも、無数の欠片となって地上へ沈んだ。


以後、ルシファーは眠り続ける存在となった。


完全に死んだわけではない。

完全に生きているわけでもない。

ただ、世界のどこかに散らばった自分自身の帰還を待つ、空白の器となった。




■ 第九章 因子を宿す者たち


ルシファーの魂の欠片は、長い年月をかけて人間の血に混ざった。


欠片を宿した者は、必ずしも特別な力に目覚めるわけではない。多くは自分の中に何が眠っているのかを知らないまま生き、普通の人間として死んでいく。だが、その人生の中で積み重ねられた記憶は、欠片に刻まれる。


人間としての時間。

誰かを守りたいという願い。

失いたくないという恐怖。

生きたいという叫び。


それらは、ルシファーにとって単なる記録ではない。原初の火に触れるために必要な、生と死の境界そのものだった。魂の欠片が人間として生きれば生きるほど、ルシファーは人間の記憶を手に入れる。欠片が再び本体へ集えば、彼女はかつてよりも確かな肉体と、より強い翼を得ることになる。


この仕組みを知る者たちは、ルシファーの欠片を【因子】と呼んだ。


因子は血に宿ることもあれば、魂に宿ることもある。魔力として発現することもあれば、特性として目覚めることもある。ある者は異常な身体能力を持ち、ある者は通常の属性体系に当てはまらない魔法を操り、ある者は死に近づいた瞬間にだけ、黒い翼の幻を見る。


天界は因子を危険視した。


魔界は因子を崇拝した。


そして、人間の研究者たちは因子を利用しようとした。


この三つの思惑が交差した時、地上には数多くの悲劇が生まれた。極秘研究、人工的な覚醒、血脈の追跡、孤児の収容、魔族による襲撃、天使による処分。ルシファーの欠片を宿した者たちは、自分の意志とは関係なく、世界の争いへ巻き込まれていった。


その中に、ひとりの少女がいた。


勅使河原サユリである。




■ 第十章 十の眷属『十戒』


ルシファーの復活を望む者たちは、魔界にも、地上にも、天界の影にも存在する。


その中心にいるのが、十の眷属【十戒】である。


十戒は、単なる魔族の集団ではない。彼らはルシファーの思想、あるいはルシファーという存在そのものに魅入られた者たちであり、各々が異なる戒律を掲げて行動している。ある者は天界の支配を憎み、ある者は生命の循環を呪い、ある者は原初の火を神へ至る道と信じ、ある者はただルシファーの完全な復活だけを求める。


彼らにとって、人間は救うべき存在ではない。

天使は倒すべき敵である。

魔族は従えるべき兵である。

そして因子を宿す者は、回収すべきルシファーの一部である。


十戒は長い間、地上に散った因子を探し続けてきた。だが、因子は人間の記憶に紛れ、血脈の中で薄まり、天界の監視網からも魔界の探知からも逃れていた。発見されたとしても、多くは弱い欠片に過ぎず、ルシファーの復活へ至るほどの力はなかった。


しかし近年、烏森町において、極めて高濃度の因子反応が観測された。


それは、天使の属性体系にも、魔族の分類にも当てはまらない反応だった。天界の記録に残る熾天使級の魔力に似ていながら、魔界由来の霊子を含み、人間の魂の波長を持つもの。三界のいずれにも完全には属さない、あり得ないはずの混合体。


十戒は、その反応をルシファーの重要因子と判断した。


彼らは地上への侵攻を開始する。魔族を烏森町へ送り込み、天界の管制を乱し、人間社会の裏側で因子の回収準備を進めた。彼らの目的は、街を滅ぼすことではない。天界と魔界の戦争を始めることでもない。


ただひとりの少女を手に入れること。


勅使河原サユリを、ルシファーへ還すことである。




■ 第十一章 勅使河原サユリ


勅使河原サユリは、愛知県立烏森高校に通う女子高生である。


明るく、騒がしく、体を動かすことが好きで、虫を見れば悲鳴を上げ、チョコレートとアイスクリームを万能薬のように信じている。中学時代はなぎなた部に所属し、高校ではバスケ部のマネージャーとして部員たちに慕われている。彼女を知る者の多くは、サユリを少し変わっているが気のいい少女だと思っている。


だが、彼女はただの人間ではない。


サユリは、天使と人間の間に生まれた古代種の血を引いている。さらにその魂には、ルシファーの因子が宿っている。彼女の肉体は人間として成長しながら、内側には天使の構造と魔族の霊子、そして堕天使の残魂を抱えている。


サユリの中には、ルシファーがいる。


ただし、それは本体ではない。世界を破壊しようとした明けの明星そのものではなく、無数に分かたれた魂の一片が、サユリの時間の中で育った人格である。そのルシファーは、かつての目的に強く執着していない。原初の火にも、アトモスの心臓にも、自らの完全復活にも、どこか無頓着である。


なぜなら、サユリの中のルシファーは、すでにひとつの個として目覚めているからだ。


彼女はサユリの記憶を見てきた。施設で生まれ、逃げ出し、泥だらけで橋の下に倒れていた幼い日のこと。勅使河原薫に拾われ、人間として育てられたこと。烏森町へ引っ越し、恐る恐る学校へ通い、神宮寺健人と出会ったこと。誰かを遠ざけようとして、それでも手を差し伸べられたこと。平凡な日常が、どれほど脆く、どれほど尊いものかを知ったこと。


本体のルシファーが人間を原初の火へ至る鍵と見ていたのなら、サユリの中のルシファーは、人間の時間そのものに触れてしまった存在である。


だから彼女は、復活を望まない。


完全なルシファーへ戻ることは、サユリという少女の人生を奪うことを意味する。記憶を回収するとは、サユリがサユリでなくなるということだ。十戒にとってはそれが救済であり、天界にとっては阻止すべき災厄であり、魔族にとっては新たな時代の始まりかもしれない。


しかしサユリにとっては、ただの日常の終わりである。


彼女が望むものは、世界の支配ではない。神の座でもない。天界への復讐でも、魔界の解放でもない。朝になれば学校へ行き、部活で健人たちに小言を言い、帰り道でアイスを買い、薫の待つ家へ帰ること。そんな当たり前の明日を、彼女は望んでいる。


だが、世界はそれを許さない。


天界は彼女を危険因子として見る。

十戒は彼女をルシファーの器として狙う。

魔族は彼女の魂に惹かれて集まる。

人間の研究機関は、彼女の肉体に眠る秘密を求める。


そしてサユリ自身も、いつまでも知らないふりはできない。


自分が何者なのか。

なぜ生まれたのか。

なぜ戦わなければならないのか。

人間ではない自分が、人間として生きることは許されるのか。


その問いに向き合う時、堕天使の物語は、神話ではなく彼女自身の物語となる。


終章 平凡な日常を取り戻すために


人間は罪を持って生まれる。


それが天界の教えであり、女神族の遺した仕組みであり、生命の川を維持するための冷たい真実だった。人間は不確定で、運命を揺らし、世界に歪みを生む。だが同時に、人間だけが記憶を抱き、時間を積み重ね、生と死の境界で明日を願うことができる。


ルシファーは、その力を利用しようとした。


彼女は天使であることを捨て、人間へ近づき、原初の火を求めた。因果を壊し、生命の循環を断ち、神のいる場所へ至ろうとした。彼女が世界を救おうとしたのか、滅ぼそうとしたのか、それは今も定かではない。ただ、彼女は掟に背き、翼を失い、魂を砕き、長い眠りについた。


その欠片が、いまサユリの中にある。


サユリは、世界の仕組みを変える鍵かもしれない。ルシファーを復活させる器かもしれない。天界が恐れる災厄かもしれない。十戒が待ち望んだ希望かもしれない。


けれど、彼女自身はまだ、ただの女子高生でありたいと願っている。


その願いは、神話に比べればあまりにも小さい。世界の創世、原初の火、生命の川、堕天使の復活。そうした巨大な運命の前では、放課後の体育館も、友達との笑い声も、家に帰れば誰かが待っていることも、取るに足らないものに見えるかもしれない。


だが、人間の記憶とは、そうした小さな時間の積み重ねでできている。


そして、その小さな時間こそが、世界を支えている。


勅使河原サユリの戦いは、世界を滅ぼすための戦いではない。世界を救うための戦いですら、最初から望んだものではない。


彼女はただ、奪われようとしている日常を取り戻すために戦う。


堕天使の因子を宿し、最強の悪魔の血を引き、天使にも魔族にも人間にもなりきれない少女が、それでも自分の明日を選び取るために立ち上がる。


その時、罪と呼ばれた人間の不確定性は、世界を壊す災厄ではなく、運命を書き換える希望となる。


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