第8話
ガタゴト、ギギギ……
コモレビ村に近づくにつれ、街道を覆う木々は深さを増し、馬車の車輪から伝わる振動が重く不規則なものに変わっていった。
「止まれ」
ルーカスが手綱を引き、馬の足を完全に止める。
「ここが最後の難所だ。コモレビ村の手前、一番厄介な場所だな。降りて調べるぞ」
トビーは無言でこくりと頷き、御者台から身軽に地面へと降り立った。ポケットから小さなノートを取り出すと、緊張した面持ちでルーカスの後ろに控える。
目の前に広がっていたのは、道と呼ぶのも躊躇われるほどの悪路だった。巨大な古木から張り出した木の根が幾重にもうねって這い回り、その隙間を埋めるように底なしの深いぬかるみが広がっている。進路の先には剥き出しの大きな岩が陣取り、そこを避けた直後に鋭い急カーブを強いられる最悪の複合地形だった。
そして道の脇には、先行者の無残な失敗の痕跡が生々しく残されていた。無理なスピードで突っ込んだのだろう。ぬかるみには車輪が空転して深くえぐられた轍が残り、木の根の周りには、砕け散った木箱の破片や、荷崩れを起こして散乱した藁が泥にまみれている。
ルーカスは地面の湿り具合や木の根の傾斜に目を細め、じっくりと観察を始めた。
「トビー、見てみろ。あの木の根を真正面から踏めば、車軸ごと突き上げられる。かといってスピードを殺せば、帰り便の『朝露草』の命が持たない」
「……はい」
トビーは言葉少なに頷き、ルーカスが示した木の根や岩の配置をじっと見つめた。天才的なひらめきでその場で奇策を思いつくわけではない。ただ、目の前の過酷な現実と、ルーカスの言葉を一言一句逃すまいと、脳裏に焼き付けていく。
「行くぞ。お前は俺の指示通りに、荷台の重心とクッションの配置を合わせろ。……記録しろよ」
「はいっ……!」
トビーはしゃがみ込み、猛烈な勢いでノートにペンを走らせた。
クイクイ、トントン、スー……。
言葉にする暇はない。うねる木の根は鋭い三角の波線で、岩の傾斜は矢印で、ぬかるみの深さは斜線で。文字を書くのが追いつかないトビーが編み出した記号メモが、ルーカスの見立てたラインと地形のデータを正確に紙面へと刻んでいく。
ルーカスが地面の硬さや車輪の軌道を確認し、どうやって速度を落とさずに衝撃を逃すかというルートの答えを組み立てていく。トビーはそれを無言で聞き届け、自分の仕事――その計算通りに、どんな揺れでも絶対に荷物を崩さない完璧な荷積みの準備を頭の中で組み立てていく。
「このラインで行く。トビー、積載のバランスは任せたぞ」
「……はい。絶対に落とさせません」
口数は少なく、自分に自信のなさそうな少年だったが、ノートに刻まれた無数の記号と、しっかりと握り締められたペンの重みだけが、確かな才能と師弟の絆を物語っていた。二人は顔を見合わせ、再び馬車へと乗り込んだ。
──ざあッ。
朝露を孕んだ湿った風が吹き抜け、干した草木の甘酸っぱい匂いと、薪の煤の匂いが混ざり合って鼻腔を突いた。
鬱蒼とした広葉樹の影が途切れ、光が爆発するように視界を染める。小川のせせらぎ、木々を抜ける風の音、そして乾燥した土を踏む複数の足音。
「おい、来たぞ!商人だ!」
声が上がり、数人の子供たちが泥を跳ね上げて走ってくる。畑仕事の手を止めた大人たちが、腰を擦りながら集まり始めた。
ルーカスは手綱を緩め、馬車を広場の中央、大きな樹の陰に滑り込ませた。車輪が静かに土を噛んで止まる。
「やあ」
ルーカスが御者台から飛び降り、革の手袋を外した。集まった村人たちの中心から、木の杖をついた村長が前に出る。眉間に深い皺を刻んだまま、荷台の隅をじっと見つめていた。
「……商人さん。荷物は無事か。森の根で大手の奴らの樽は全滅した。どうせ壊れて──」
「村長さんかい?」
ルーカスは返事を途中までで切り、荷台のトビーへ顎をしゃくった。
トビーの手が動く。麻縄の結び目に指先を掛け、無駄のない動きで解いた。角の布をめくり、二重の毛布に包まれた小さな木箱を、両手で包み込むように抱え上げる。
地面へ降りる靴音が、トビーの足元で静かに鳴った。
トビーの眼球が、広場の光景を素早く把握する。村長の握る杖のすり減り具合。右膝のわずかな傾き。日差しが強く当たる中央の土台。
トビーは一度も言葉を発さず、村長の前を通り過ぎた。樹齢の古い木が落とす暗い影の中、頑丈な木製作業台の前に立つ。村長が腰を屈めず、肘を自然に曲げた高さの真前へ、木箱を静かに滑らせた。
──ス。
摩擦音すら立てずに置かれた木箱。トビーはそのまま無言で蓋の留め金に指を掛け、外側へ倒した。
箱の内部。朝光を受けて輝くのは、一つも触れ合うことなく、朝露のような透明な液体を満たしたまま静止しているガラス瓶の群れだった。擦れ痕一つ存在しない。
「……あ」
村長の喉から、擦れた声が漏れた。伸ばしかけた指が空中を彷徨い、瓶の表面と、日陰の作業台を交互に見つめる。
「日陰……それに、この高さ」
村長の手が微かに震え、木箱の縁を撫でた。
「イザックさんが……日に当てちゃダメだと」
トビーはボロ布の端で自分の指の汗を拭い、低くつぶやいた。言葉の終わりは風にかき消されたが、村長の瞳が大きく見開かれる。
周囲の村人たちの間に、さざ波のようなざわめきが広がった。声を上げる者、荷台の縄の結び目を覗き込む者、トビーの汚れた袖口を凝視する者。
ルーカスがトビーの横に立ち、上着の内ポケットを指先で突いた。
「チェックだ」
トビーは右手を内ポケットへ滑り込ませた。取り出した小さな革綴じノート。インクの煤の匂いが、ハーブの香る朝の空気へ混ざる。
羊毛筆の先に残ったインクの乾きを確かめ、開いたページに落ちた。そこには、丸い薬瓶の脇に刻まれた、日陰を示す一本の線。
トビーの手首がすっと動く。その記号の横へ、太く深い一本の斜線が叩きつけられた。
紙を削る毛先の音が、静かに響く。
トビーはノートを硬い手触りのまま固く閉じ、内ポケットへ収めた。指先で上着の布地を一度強く押し叩く。
村長が杖を握り直し、深々と頭を下げた。
「ありがとよ、小さい商人さん」
向けられた声に、トビーは一瞬息を呑む。わずかに潤んだ目をまっすぐに据え直し、頭を下げた。
孤児院の隅で膝を抱えていた少年の面影は、冷えた空気の中に消えていた。木々の間から吹き抜けた風が、少年の前髪を揺らしていた。




