第7話
──ス……。
紙の上を毛先が撫でる。黒い一筋の線が、緩やかな弧を描いて曲がり、小さな傘の形を作った。その下に、垂直な二本の短い線。さらにその横へ、素早く爪痕のような縦線が三本、平行に並ぶ。
コモレビ村への、乾燥キノコ三斤。
トビーの喉が、引きつったような音を立てて鳴った。眼球が激しく左右に動く。指先が、言葉にならない速さで次の余白へ移動した。
──サッ、ササッ。
輝く星の代わりとなる、角の尖った四角形。その脇に小さな円をふたつ。シーガルの研磨剤、二号缶。
文字の線を一筆ずつ思い出そうとしていた時の、頭奥の不快な熱が消えていた。記憶の底に焼き付いている物体の輪郭が、そのまま腕の神経を通って紙の上へ転写されていく。手首の動きに迷いがない。黒いインクが吸い込まれていく羊皮紙の繊維の音が、夜の静寂の中に静かに響く。
ルーカスは横顔のまま、膝の上に置いた両手を動かさなかった。ただ、トビーの手元から少しだけ視線を下げ、紙の上に次々と打たれていく歪な記号の群れを静かに追いかけている。
金槌の形。その下、沈みかけた太陽を示す半円と、細い斜線。
「……前倒し」
トビーがつぶやいた。声は低く、掠れていたが、語尾の震えは消えていた。
筆先から一滴のインクが滴り、灰の上の記号の脇に小さな黒い点を残した。トビーは筆を置かず、次のページへ指をかけた。濡れた黒いインクの匂いが、夜風に乗って鼻腔をくすぐる。
ルーカスは拾い上げた枝を静かに炎の渦へ投げ入れた。薪が低く鳴り、赤く熾った炭の熱が、二人の足元と、描き埋められていくノートの紙面を静かに照らし続けていた。
──スッ……ススッ、テン、テン。
羊毛筆の穂先が紙を叩く微小な音が、火の爆ぜる音に紛れて規則的に刻まれる。トビーの眼球は光を映して硬く固定され、指先だけが生き物のように滑らかに動いていた。
ルーカスは横から静かに覗き込む。灰の上に描いた単純な型画とは、明らかに毛色が違っていた。
ガルド宛ての金槌の脇に描かれた、二重の波線で囲まれた四角。老錬金術師の薬瓶の横にある、半円の太陽と、左側に引かれた一本の太い垂直線。
「……ガルドの横の、これは?」
ルーカスが指し示すと、トビーの手がピタリと止まった。羊毛筆の先から黒い滴が垂れ落ちる前に、素早く脇へ引き寄せる。
「あ……これ、布です」
トビーの喉が小さく鳴る。
「親方、倉庫で角の樽を蹴っ飛ばしたとき……大手の奴らは裸で積んで潰すって、唾飛ばしてました。二重に巻いてねぇと受け取らねぇぞって」
ルーカスの右眉の端が、微かに跳ね上がる。
「……それ、覚えてたのか」
「それと、こっちの太陽は……」
トビーの指先が、薬瓶の横の四角い枠へ滑る。
「イザックさんの棚、入って左の下側です。あのおじいさん、右の膝をかばって歩くから……高いところに置くと、背中を丸めて痛そうにしてたから。太陽のバツは、日の当たらない影の場所です」
沈黙が落ちた。夜風が横切り、馬車の荷台を覆う幌がパタと低い音を立てる。
ルーカスは手綱を握る癖のある右手の親指で、自身の爪の生え際を激しく押し付けた。皮膚が白く変色するほどの強い圧力がかかる。
大商会バロン商会が回すのは、数字と箱の数だけだ。型番を照合し、受け取り印をもらい、泥を跳ね上げて去る。その裏で切り捨てられている手触りのすべてが、目の前の少年の指先から、黒いインクの点となって羊皮紙へ叩きつけられている。
ルーカスはトビーの細い上腕を、側面から力強く掴んだ。衣類越しに伝わる骨の細さに、一瞬だけ指の力を緩める。だが、離さない。
「……トビー」
「あ、僕……また、余計な……っ」
首筋を強張らせ、身を縮めようとするトビーの視線を、ルーカスは正面から捕まえた。
「余計じゃない」
低く、押し殺した声。ルーカスの喉仏が大きく一度落ちる。
「箱を運ぶ奴は、山ほどいる。……だが、それをどう置くかまで覚えてる奴は、街のどこにもいない」
トビーのまばたきが止まる。見開かれた瞳の中で、焚き火の小さな橙色の炎が揺れていた。
「……置く場所」
「そうだ。お前が書いてるのは、ただのメモじゃない」
ルーカスはトビーの腕から手を離し、濡れたインクの匂いが漂うノートの端を指先で慎重に撫でた。
「これで、うちの仕事が決まる」
トビーの右手が、筆の軸を再び強く握り直した。指関節の白さはもうない。湿った手のひらの汗が、木軸にしっくりと吸い付いている。
「……僕、もっと覚えています。薬売りの、あの背負い箱の留め金の形も今日調べた街道の地形も」
「……書け」
「はい」
筆先が再び紙面へ落ちた。──スッ、サッ。夜風が薪の灰を巻き上げ、静かな暗闇の中、小さな擦過音だけがいつまでも続いていた。
──ヒュ……ゥ。
冷えた朝気が、鼻腔の奥をツンと刺す。東の空の端、群青の膜がゆっくりと引き裂かれ、濁りのない薄桃色の光が地平の筋線に沿って滲み出していた。
草の葉先に結んだ露が、朝光を受けて白く光る。小さくなった焚き火の跡から、細い一本の白い煙が、風のない空気の中へ真っ直ぐ立ち上っていた。
トビーは、胸のポケットに差し込んだ小さな革綴じノートの感触を、上着の上から右手で確かめた。指先に伝わる、硬く乾いた羊皮紙の層。昨夜塗られた黒いインクはすでに乾き、独特の酸っぱい煤の匂いが、自分の作業着の布地にしみ込んでいる。
右手の親指で、ポケットの布地を一度だけ強く押さえつけた。
「……トビー」
馬の首筋を刷毛で撫でていたルーカスが、手元を止めて振り返る。手綱を握り直す彼の指先が、一瞬だけ宙で止まった。
トビーの背筋が、垂直に伸びている。顎を引き、湿った土を硬い靴底で均等に踏みしめていた。朝靄の冷気が頬を叩いているが、まばたきの回数は少ない。眼球の奥にある焦点が、はっきりと前方の一点に固定されている。
「……出せます」
トビーの喉から出た声は、低く、短かった。昨日のような掠れはない。
「コモレビ村の追加、キノコ三斤。……薬売りの箱、留め具が緩んでるから、左の底に積む」
ルーカスは返事をせず、作業用の革手袋を外した。手袋のすれる乾いた音が静寂に落ちる。ルーカスの右目の端に、かすかな皺が寄った。
「……そうか」
言葉はそれだけだった。ルーカスは御者台の木枠に手を掛け、慣れた動作でステップを踏み越えた。座席に腰を下ろし、手綱を両手で拾い上げる。革の張りを指先で一度確かめ、左肘をわずかに外側へ開いた。
トビーもまた、躊躇なく反対側のステップに足をかけた。木枠を掴む右手の指先に、余計な力が入っていない。指関節は白くならず、吸い付くように木肌を捉えている。アシスト席へ身体を引き上げ、そのまま背筋を軽く伸ばして座り直した。
二頭の馬が鼻を鳴らし、温かい吐息が白い塊となって朝靄の中へ消える。
──パチン。
手綱が馬の背を軽く叩く音が響いた。
ガラ、ゴト……ッ。
車輪が湿った土と小石を押し潰し、ゆっくりと回転を始める。跳ね上がる振動が直接木板を押し上げてきたが、トビーの首筋は柔らかく揺れを受け止めていた。
視線はもう、背後の荷台へは戻らない。どこまでも引き伸ばされた一本の轍と、その先にある薄桃色の空に向かって、トビーの眼球は静かに光を映し続けていた。




