第45話
コモレビ村へと続く一本道。出立直後の朝靄はどこへやら、正午を過ぎた頃から天空は急速にその色を失っていた。重く垂れこめた鉛色の暗雲が太陽を完全に呑み込み、湿り気を帯びた生ぬるい風が街道の木々をざわざわと激しく揺らす。
「……チッ、嫌な風が吹き始めてきやがったな」
第二馬車の御者台で、カイは首をすくめながら空を見上げた。鼻先をかすめる土の匂い、皮膚にまとわりつく湿気――裏路地で培った野性の勘が、これから訪れる悪天候の到来を告げていた。
「おい、メガネ。これヤバいぞ。コモレビ村の手前にある崖沿いの道は、雨が降ると一気に土砂が流れ込んでドロドロになる。少しスピードを落として、旧道の高台ルートに迂回した方がいいかもしれねぇ」
「何を言っているのですか」
隣で羊皮紙の地図と懐中時計を交互に見つめていたレオンは、冷淡な声でカイの提案を即座に却下した。
「天候の崩れなど、出立前の想定範囲内です。ここで迂回ルートを選択すれば、走行距離が伸び、到着時間が一時間四十分遅延します。それではコモレビ村の夕市に間に合わず、イザック先生の調合薬を心待ちにしている患者たちへ届ける定刻を破る。定時配送の遵守こそが、ルーカス様の掲げる信用の骨格です」
「だけどよ、本格的に降られたら——」
カイの懸念を遮るように、空が重く響めいた。
ゴロゴロ……ゴロゴロロッ!
一瞬の静寂ののち、まるで天の底が抜けたかのような激しい大粒の雨が、容赦なく二人と馬車へと叩きつけられた。
ザーーーーーッ!!
「うわっ……!」
瞬く間に視界が白く濁る。雨粒が頬を叩き、吐き出す息が湿った空気の中に白く溶けた。乾燥していた街道の土肌は、水分を吸い上げて黒く変色し、粘り気のある泥沼へと姿を変えていく。馬車が進むたび、車輪が深く粘土質の土へ沈み込み、重く冷たい泥水を周囲に跳ね上げた。
「ヒヒィーーンッ!」
ぬかるむ足元に足をとられ、二頭の馬が悲鳴のような嘶きを上げる。馬車全体がガタガタと不吉な振動を起こし、後方の荷台から重い木箱同士がギシギシと軋み合う音が響いた。
「くっ……!」
レオンは銀縁メガネの滴を手の甲で乱暴に拭い、羊皮紙を懐へ押し込んだ。計算されたはずの行程が、足元の泥に足をとられて音を立てて崩れていく。濡れた前髪が額に貼りつき、その視線は焦燥に揺れていた。
ザーーーーーッ!!
大粒の雨が激しく音を立てて大地を叩きつける。雨水は坂道の上から泥流となって押し寄せ、街道はもはや「道」としての体裁を失っていた。粘土質の土が水を吸い尽くし、底なしの泥沼となって馬車の車輪を丸ごと呑み込んでいく。
「ヒヒィーーンッ!ズルッ、ヒヒーン!」
前を走る二頭の馬が悲鳴を上げた。泥に足をとられて前脚を滑らせ、必死に泥を蹴り上げるが、蹄は虚しく滑るばかりで一歩も前に進まない。
ズブブブッ……ガコンッ!
「うわっ……!」
激しい衝撃とともに、第二馬車が大きく右に傾いた。右側の後輪が、泥の底に隠れていた深い轍の窪みに根元までハマり込んだのだ。前進する力を失った馬車は不気味な軋み声を上げ、その場に完全停止した。
「おいメガネ!止まっちまったぞ!馬が限界だ!」
カイが濡れた前髪を首筋に張り付かせながら、御者台から身を乗り出して叫ぶ。喉の奥が乾き、荒い息が白く濁った。
だが、レオンは信じられないものを見るかのように、見開いた目を固定させたまま荷台を振り返っていた。雨水が睫毛を伝い、銀縁メガネのレンズを白く曇らせるのすら忘れている。
「な……なぜだ。馬二頭の牽引力に対し、重量の計算は完璧だったはずだ。摩擦の上昇を考慮しても、この勾配なら踏破できる余力は十分残されていたはず……」
「だから言っただろ!」
カイが冷え切った指先で御者台の木枠を叩いた。爪の隙間に黒い泥が詰まる。
「お前が荷台の隅まで木箱をギチギチに詰め込んだからだろ。積み荷が重すぎるんだよ。しかも重心が右後ろに偏ってやがる。だからぬかるみにハマった瞬間、逃げ場がなくなって深みに落ちたんだ」
「計算では、左右の均衡はとれていたはずだ。泥の深さが不均等だなどと、そのような突発的な環境は予測できるはずが――」
メリメリッ……グラッ!
レオンの言葉を断ち切るように、荷台から鈍く不吉な破壊音が響いた。馬車の右傾斜がさらに深まり、ロープで固定されていたはずの木箱の山が、ズルりと右側へ傾ぐ。一番上に積まれていた箱の角が大きく突き出し、縛り目から抜け落ちそうになっていた。
「おい、ロープが千切れそうだぞ!荷崩れする!」
カイの叫び声が、激しい雨音を切り裂いた。箱が落ちれば、中に詰まった壊れ物のガラス瓶が砕け散る。計算の端にすがっていたレオンの喉から、細い息が漏れた。冷たい泥水が足元から体温を奪い去っていく中、二人は身動きの取れない泥沼の底に取り残されていた。
ザーーーーーッ!!
天の底が抜けたかのような豪雨が、叩きつけるように街道のすべてを洗い流していく。視界は泥と水煙に阻まれて数メートル先も見えず、吹き付ける冷たい風が二人の体温を容赦なく奪い去っていく。そんな極限の悪条件の中、第二馬車の傍らで、レオンとカイの声が激しい雨音に溶けていく。
「僕の計算に狂いはないはずだ……!積載の容積も、馬二頭の牽引力も、過去の天気の資料から算出した摩擦の許容量に収まっていた!」
レオンは銀縁メガネにへばりついた雨水を乱暴に拭いながら、目の前の泥に埋まった車輪に向かって叫んだ。その声は、己の正しさを証明したい焦りと、崩れ去る理論への恐怖に震えている。
「この勾配と重量であれば、迂回せずとも踏破できる余力は十分に残されていたはずだ!なぜだ……なぜ車輪が沈み込む。なぜ動かないんだ……っ!」
「うるせぇよ、この数字バカがっ!」
カイが御者台のフチを荒々しく蹴り飛ばし、血走った目を剥き出しにして怒鳴り返した。冷えた指先が痙攣するように震えている。




