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血の通わない数字

 銀縁メガネのブリッジを押し上げる指先が、わずかに、しかし確実に熱を持っていることにレオンは苛立った。


 商人の私塾。数と効率、損益分岐点こそが世界のすべてであると教え込む、知の殿堂。すべての取引は数字で証明されなければならず、感情や信頼といった不確実なものは、商売の効率を落とす毒でしかなかった。レオンは常にその首席であり続け、同期の生徒たちや指導にあたる教師たちから向けられる畏敬と嫉妬の入り混じった視線を、冷めた冷徹さですべて見下ろしてきた。


 正しい計算さえあれば、失敗などあり得ない。――あの男の噂を耳にするまでは。


「……ルーカス」


 夕暮れの影が長く伸びる私塾の自習室で、レオンは静かにその名を呟いた。迷宮都市ヴァルハイトを発信源とし、周辺の村々や都市を結ぶ循環型配送モデル。その事業が爆発的な成功を収めているという風評が、商業ギルド経由で私塾の耳にも届いたとき、最初、それはただのまぐれ当たりか運が良かっただけの愚行に思えた。


 だが、手に入れたわずかなデータと噂の断片を元に、その商売の構造を独自に分析した瞬間、背筋を冷たいものが駆け抜けた。


(なんだ、これは……)


 時間管理、輸送ルート、無駄を削ぎ落とした経費の配分。そこに描かれていたのは、日夜追い求めていた完璧な数値そのものだった。しかし、同時に理解を拒む大きな歪みがあった。なぜ、その合理的な仕組みの裏で、職人や村人たちがこれほどまでにその男を信頼し、熱狂しているのか。レオンにとって信頼とは契約書と数字の裏付けによってのみ発生する二次的な結果にすぎず、人間関係の泥臭さや感情など計算を狂わせるものでしかなかったはずだった。


 それなのに、ルーカスは、そのような人間の感情すらも計算に内包しているかのように、圧倒的な規模で事業を回し続けている。


 許せなかった。数字を極めたはずの自分が、まだ見ぬ田舎のしがない運び屋の仕組みに圧倒されているという事実が。そして何より、その完璧な方程式の正体を、自分の目で確かめずにはいられなかった。


 私塾を首席で卒業した者には王都の大商会や中央の有力ギルドから引く手あまたの優先枠が用意されていた。同期の者たちがこぞってその安全な道を選び将来の安泰を確信する中、すべての推薦状を机の上に放り捨てた。


 向かったのは、迷宮都市の心臓部にある商業ギルドだった。


「――おや、レオン君じゃないか。君ほどの成績であれば、王都の大きなところへ行くものだと思っていたがね」


 ギルドの重役席に深く腰掛ける初老の男が、呆れたような、しかしどこか興味深そうな目を向けてきた。その机の前に、音を立てないようにピタリと立ち止まると、微塵の乱れもない動作で一枚の羊皮紙を叩きつけた。


「私塾の首席卒業証書です。そして、これが私なりに分析した、ルーカスの循環型配送モデルの非効率な点を洗い出し、収支をさらに一割五分向上させるための試算書です」


 重役が眉をひそめながら羊皮紙に目を走らせる。そこに書かれていたのは、若者特有の背伸びなどではなく、正確で、容赦のない効率化の方法だった。


「ふむ……。君ね、ルーカスのやり方は確かに荒削りだが、あそこは現場の職人や村人との『信頼』という目に見えない絆で成り立っているんだ。君の言うような数字の最適化だけでは、あの現場の連中はついていかんよ」

「信頼などという曖昧な変数に頼るから、現場に無駄が生じるのです」


 一歩も引かず、冷ややかな瞳をまっすぐに向けた。


「私が彼の事業に入り込み、そのすべてを標準化された正確な数値の仕組みに置き換えてみせます。そうすれば、彼の商売の規模は現在の何倍にも跳ね上がる。ギルドにとっても利益しか生まないはずだ」


 重役はしばらく顔をじっと見つめ、やがてふっと苦笑を漏らした。瞳の奥には圧倒的な才能への評価と、同時に痛い目を見るだろうという冷めた予感が混ざっていた。


「……確約はしない。あいつは一筋縄ではいかん男だ。君のその数字の計算が、あいつの現場でどう弾かれるか、私には想像もつかんからね」


 重役は羽ペンを走らせ、一枚の紹介状を書き上げた。


「だが、ルーカスも事業の拡大に向けて人手を欲しがっている頃だ。『こういう鼻っ柱の強い優秀な若者が会いたがっている』と、私の方から奴に話を通しておくことはしてやろう。面会の場を用意はしてやる、そこから先は君の腕次第だ」

「……感謝します」


 深く一礼し、紹介状をしっかりと受け取った。心臓が不規則に高鳴るのを感じながら、仮面の裏で、静かに牙を研ぎ澄ませていた。


 商業ギルドの重役室を出たレオンは、冷たい石畳の廊下を歩きながら、胸の内で計算を繰り返していた。


(ギルドからルーカスへ話は通った。あの男がどれほど現実主義者であれ、私塾を首席で卒業したこの私からの、完璧に最適化された試算書を突きつけられて、無視できるはずがない)


 頭の中にはすでにルーカスとの邂逅の想定が何通りも描き出されていた。頭の回らない現場の男が、提示する圧倒的な数値の正しさに気圧され、教えを請うように自らの下へ頭を下げる未来図さえ鮮明に浮かんでいた。しかし、同時に商業ギルドの重役が最後に漏らした言葉が、心の片隅でチリとした小さな棘のように残っていた。


(……笑止。数字と合理の前では、いかなる泥臭い絆も無力な記号にすぎない)


 首を小さく振ると、自らの気負いをねじ伏せるように銀縁メガネのブリッジを強く押し上げた。


 数日後。ギルド経由でルーカスから「面会を許可する。指定の刻限に事務所へ来い」との返答がもたらされた。指定されたのは、迷宮都市ヴァルハイトの南門近く、ガルドの工房の二階から移したばかりの新しい倉庫兼事務所だった。


 そして、その当日。正午を少し過ぎたころ。迷宮都市の南門周辺は、一日の中で最も重苦しい熱気と、あちこちから飛ぶ怒号のような歓声に包まれていた。


「おい、どいたどいた!ルーカスの馬車が帰ってきたぞ!」

「ルーカス!トビーちゃん!帰ってきたか!」

「うちの工房の精密部品を次の便で運んでくれ!」


 事務所を取り囲むように、職人や商人の群れが黒山の人だかりを作っている。その喧騒のなかを、身なりを寸分の乱れもなく整え、周囲の熱気から完全に隔絶されたかのような足取りで進んでいった。小綺麗すぎる服の袖口が微かにこすれ合う音。片手に抱えたのは、幾層もの高級な羊皮紙で仕立てられた特製の帳簿と、最高級の羽ペン。


 ガチャン、と重い倉庫の扉が締まり、外の喧騒がふっと遠のく。処理しきれない依頼書や羊皮紙の山が積み上げられた澱んだ空気の漂う室内へと、一歩を踏み入れた。


 背後で木扉が閉ざされる。卓を挟んで、噂に聞いた男――ルーカスが、椅子に深く腰掛けたまま静かにこちらを見据えていた。その瞳の奥には、商売の重みを背負った者に特有の、底の知れない緊張が宿っている。


 微動だにせず、真っ直ぐにルーカスの瞳を射抜いた。私塾トップのプライドと、己の計算に対する絶対的な自負を胸に、淀みない動作で卓上に帳簿を広げる。


「――失礼します。ルーカス様、お約束の刻限通りに伺いました」


 その声にはわずかな揺れもなく、調律された楽器のように響いた。ここからすべてが始まる。自分の数字こそが、この男の商売をさらに洗練された完璧な仕組みへと昇華させるのだと信じて疑わないレオンは、胸の奥で静かに息を呑み、最初の言葉を紡ぎ始めた。

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