一筋先の空き倉庫
夕暮れが西側の窓枠を赤く染め上げる。ガルドの工房の二階、積み上げられた帳簿の横で、トビーが黙々とペンを走らせていた。
紙を引っかく乾いた音が部屋の隅で小さく跳ねる。その指先は、かつての怯えをすっかり失っていた。目の前にあるのは、奇妙な線と丸が幾何学模様のように並ぶ特製の記号メモ帳だ。文字を書くスピードでは到底追いつかないため、彼自身が編み出した暗号のような記録法である。顧客が欲しがる素材の数、その日の機嫌、細かな要望までが、その小さな空白にぎっしりと詰め込まれていた。その横には拙く歪んだ文字が一緒に並んでいる。
「……よし、これで今日の集金と発注の控えは全部だな」
ルーカスが呟きながら、インクの乾いた紙を丁寧に束ね、トビーのメモ帳を覗き込む。
「トビー、頑張ってるな。だんだん文字も上手くなってきてるじゃないか」
「……いえ、まだまだです。ルーカスさんは無理して読んでくれるけど、他の人が見たら、きっと笑います」
ボソリと返すと丁寧に文字の練習を繰り返す。
ルーカスは愛弟子の手元から目を外し、窓の外へと視線を投げた。物量が増えるにつれ、馬車の発着場や在庫を保管する倉庫が手狭になっている。少し離れた場所を間借りしている現状では、仕分け等でどうしても無駄な足が生じる。
「なぁ、トビー。そろそろ引っ越しを考えないか。一筋先の空き倉庫、あそこを丸ごと借り上げて、事務所と倉庫を一つにまとめようと思うんだが」
トビーはぴたりと手を止め、わずかに眉をひそめた。
「……あそこの、ですか」
「ああ。馬車も入れやすいし、お前の荷積み場とも直結できる」
「……いいですね。それなら、離れてないから移動時間もなくなりますし」
「だろ?商売の効率を上げるためにも、そろそろ新しい拠点に――」
その言葉を遮るように、階下の床板を突き上げるような低い地響きが走った。
ガルドがその断片を耳にしたのは、ちょうど鉄を打つ手を止めた瞬間だった。
『―引っ越し―』
『―いいですね―』
『―離れて―』
『―新しい拠点―』
ガルドの手から、小さなピンセットがコトリと机に落ちた。硬質な金属音がやけに耳に残る。
(……は?何だと?)
無愛想なドワーフの脳内で、歪んだ想像が凄まじい勢いで膨れ上がる。最近商売が軌道に乗ってきたからといって、俺の顔に飽きたというのか。誰の庇護の下でここまで育ったと思っているのか。一言の相談もなく、この街を出ていく気なのだ――。
恩知らずめが。胸の奥がドス黒く熱を帯びる。
「おのれ……」
ガルドは真っ赤に血走った目を細め、片手に愛用の鍛冶ハンマーをガシリと掴み取った。ドスドスと、工房の天井を割る勢いの重い足音が、容赦なく階段を駆け上がっていく。
ガシャーーーン
ひしゃげた音を立てて二階の木製ドアが打ち破られた。勢い余った体躯がそのまま突っ込み、ドワーフの老職人が仁王立ちする。
「お前らぁぁぁっ!!」
息を荒げ、トマトのように真っ赤に染まった顔でガルドが怒鳴り散らす。手に握られた鍛冶ハンマーが、危なっかしく天井の梁をかすめた。
「俺の顔を毎日見飽きたからって、勝手に夜逃げするとはいい度胸じゃねぇか!この街を出ていってどうする気だ!恩知らずのペテン師風情が、今日という今日はただじゃおかねぇぞ!」
突然の乱入と剣幕に、ルーカスとトビーは完全に息を呑んだ。トビーはビクッと肩を跳ねさせ、指先のペンを取り落としそうになる。
しかし、ルーカスは一瞬ポカンと虚を突かれた後、怒鳴り声の輪郭を脳内で咀嚼し……そして、あまりの斜め上の勘違いに、思わず喉の奥から盛大な息を漏らした。
「……は?どこに行くって……何言ってるんですか、親父さん」
「とぼけんな!『引っ越し』だの『新しい拠点』だの『離れて』だのって、さっきハッキリ聞こえたぞ!この街を捨てて別の街へ高飛びする気じゃねぇか!」
「しませんよ、そんな面倒くさいこと」
ルーカスはこめかみを指先で押さえ、力なく息を吐き出した。
「ここで基盤を作って商売してんのに、なんでわざわざ出ていかなきゃならないんですか。そうじゃなくて、今の事務所と倉庫が離れてて不便だから、一筋先の広い空き倉庫を借りて、一つの拠点にまとめようかって話してたんです」
ガルドの動きが、ピタリと凍りついた。
「……は?」
ハンマーを振り上げたままの姿勢で、濁った瞳がわずかに揺れる。
「……一筋先……?」
「ええ、一筋先です」
「……事務所と倉庫を、一つに……まとめる……?」
「そうです。この街を出るわけないでしょう。親父さんの顔を見飽きるわけがありませんよ、毎日こうして怒鳴り込みに来るんだから」
――シーン。
夕暮れの工房に、気まずい静寂が落ちる。
ガルドの顔の赤みが、怒りから別の色へと急激に塗り替わっていく。彼はゴホゴホとわざとらしく喉を鳴らし、泳いだ視線をどこに向ければいいのかと迷わせた挙句、持っていたハンマーを背中へ隠そうと不自然な体勢をとった。
「な、なんだよ……!そうならそうと、最初からハッキリ言いやがれ!紛らわしい言い方するから、こっちはだな!」
「いや、こっちが話してる途中に勝手にドア蹴破って怒鳴り込んできたのは親父さんでしょ」
「うるせぇ!!年寄りの聞き間違いなんてよくあることだ!!」
ドワーフの凄まじいまでの照れ隠しを前に、ルーカスは苦笑いを浮かべるのがやっとだった。
トビーは少し離れた場所から、その大人たちのやり取りを見つめている。ガルドが自分たちの離脱を本気で怒り、怯えていたのだと気づいた胸の奥が、わずかに熱を帯びてほぐれていく。トビーは自分の足元を見下ろしてから、ぽつりと小さな声をこぼした。
「あの……寝泊まりは、これまで通り、ここに……」
その呟きに、ガルドの耳がピクリと反応した。
トビーは「どうしようか」と真剣な眼差しでルーカスを見上げている。拠点が移っても、この生意気で手のかかる弟子は、寝泊まりの場所の扱いをちゃんと考えてくれているのだ。
ルーカスはかすかに笑い、トビーの頭にそっと手を伸ばした。
「いや、せっかく倉庫と事務所が一つになるなら、生活スペースもそっちへ移したほうが効率的かもしれないな。どうするトビー、広い部屋が使えるぞ」
「え……でも、ここは……」
トビーがガルドの横顔をチラリと盗み見る。ガルドは慌ててあさっての方向を向き、鼻を大きく鳴らした。
「……ふん、勝手にしやがれ!どうせすぐ近くなんだろ。飯が食いたくなったら、どうせあの臭いに釣られてここに顔を出すんだ。勝手に荷物まとめて、さっさと引っ越しちまえ!」
ぶっきらぼうな、しかしこれ以上ないほどの許しがそこにあった。
ルーカスは柔らかく目を細め、トビーは小さく息をついて肩の力を抜く。少年の手元には、今日の記録や新しい予定が独自の記号でびっしりと書き込まれたメモ帳が開いていた。
ガルドは照れくさそうに、そして気まずそうに近づき、その記号メモ帳を、まるで孫の頭を撫でるように、ごつごつした大きな手で一度だけそっと叩いた。
西日はすっかり藍色の空に溶け込み、迷宮都市の夜の帳が静かに下りていく。けれど、この小さな工房と一筋先の新しい拠点をつなぐ細い路地裏には、かすかな体温が残されていた。




