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第38話

 トビーは手押し車をピタリと滑らかに止めると、背筋を伸ばしてハンスの前へと歩み寄った。胸元から真新しい革カバーを取り出し、特注のペンを走らせる。素早い手つきで記号を刻み込みながら、荷物を受け取ると、まっすぐにハンスの目を見つめた。


「ハンスさん、大切な革製品をお預かりします!湿気と圧迫に気を配り、仕立屋さんの元へ傷ひとつなくお届けします。……ありがとうございます!」


 腹の底から響く、澄み渡ったハキハキとした声。トビーは深々と頭を下げた。


「おう……!おうよ、頼んだぞ、トビー!」


 ハンスは一瞬目を見開いて驚いたが、すぐに顔をくしゃくしゃにして笑った。かつて自信なさげに俯いていた少年が、いまやこちらの目を真正面から見つめ、商人としての誇りと感謝を伝えてきたからだ。


 続いて訪れたのは、老錬金術師イザックの店だった。薬品の匂いが立ちこめる部屋の中で、トビーは完成した最高品質のポーションが入った木箱を丁寧に受け取る。手押し車の最上層、最も衝撃の少ない特等席へと木箱を鎮座させた。


 トビーは姿勢を正し、老錬金術師の目をじっと見据える。


「イザック先生!命を救う大切なポーション、確かにお預かりしました!シーガル港の救護所まで、最高の状態でお届けしてまいります。……本当に、ありがとうございます!」

「……ふむ。良い顔になったのう、トビー」


 イザックは白い髭を撫でながら、目を細めて頷いた。


「ただ荷物を運ぶのではなく、わしらの情熱と、それを受ける者の安心を届けておるという自覚……どうじゃ、錬金術を学んでみぬか?。お主になら、わしの錬金術のすべてを託しても惜しくはないわい」


 さらに街を進む。ガラス細工のフランツ、刃物研ぎの老職人、辻のパン屋の女将さん、そしてドワーフのガルドの工房へと足を踏み入れる。


 トビーはルーカスから授かった「最後の教え」を、忠実に、そして魂を込めて実践し続けた。荷物を受け取るとき、手渡すとき。どんなに忙しくても、どれほど荷物が重くても、必ず足を止め、相手の目をまっすぐに見つめ、心を込めて「ありがとうございます」と言葉を贈る。


「おう!トビー、今日もいい声だねぇ!」

「トビー!今日の仕入れも任せたぞ!」

「見ろよ、あのトビーの引き締まった顔!もはやルーカスの助けなんて要らないくらい立派な商人じゃないか!」


 街のあちこちから、トビーを称賛し、応援する温かい声が飛ぶ。かつて「動作が遅い」「使えない孤児」と蔑まれていた過去の面影など、この街のどこを探しても存在しなかった。


 トビー自身も、言葉を交わすたびに胸の奥から湧き上がる熱を感じていた。まっすぐ相手の目を見て感謝を伝えることで、職人たちの情熱や信頼が、言葉を通じてダイレクトに自分の心へと流れ込んでくる。


(ルーカスさんが言っていた通りだ……!僕たちが運んでいるのは、ただの物じゃない。この人たちの想いなんだ!)


 胸元の革カバーに特注ペンを挿し直すと、トビーは再び手押し車の取っ手を固く握り締めた。ガルドの特製軸が滑らかに回転し、手押し車はどこまでも軽やかに、職人たちの笑顔と信頼に彩られた迷宮都市の路地を駆け抜けていく。


 夕暮れの茜色が、迷宮都市ヴァルハイトの巨大な南門と石造りの街並みを真っ赤に染め上げていく。都市の喧騒が少しずつ落ち着きを見せ始め、長距離街道から吹き込む涼やかな晩風が、石畳の隙間をすり抜けていく。南門の小高い丘の上で、ルーカスは夕日に向かって長く伸びる街道の先を静かに見つめていた。その背中には、いつもの飄々とした気配の底に、遠くを見据える深い思索の色が混ざっている。


「ルーカスさん!」


 軽やかな車輪の音とともに、トビーが駆けてきた。胸元には夕日を受けて鈍く輝く新しい革カバーが収まっている。その顔には、今日の都市内集配をすべて滞りなくやり遂げた充実感と、隠しきれない誇りが浮かんでいた。


「今日の都市内集配、すべて完了しました!ガルドさんの工房もイザック先生のギルドも、全員に予定通りの品を届けて、帰り便の仕入れメモもバッチリです!」

「ああ……お疲れ様、トビー」


 ルーカスは振り返り、少年の顔をまっすぐに見つめた。その瞳には、かつて不器用さに怯えていた孤児が、いまやこの巨大な迷宮都市の物流をたった一人で支えるまでに成長したことへの、深い愛おしさと確信が満ちている。


「すごいな、トビー。本当にお前は、立派になった」

「ルーカスさんが教え込んでくれたからです!それに、この革カバーとペン、ガルドさんの車輪軸のおかげで、なんだってできる気がします!」


 トビーは胸を張った。だが、ふとルーカスの視線が、自分の背後――迷宮都市の領地を越えた、さらに遠い地平線に向けられていることに気づく。ルーカスはポケットから一枚の羊皮紙を取り出した。そこには、隣領の大都市や沿岸の交易ギルドからの切実な要請文が記されている。


『迷宮都市ヴァルハイトで確立された循環型ルート配送の噂は聞いている。我が領地でも大手の買い叩きと流通の断絶に多くの村が喘いでいる。どうかルーカス殿、我々の街と村々にも、あの命を繋ぐ道を開いてくれないか――』


 ルーカスはゆっくりと手紙をたたみ、夕闇に溶けていく街道を指差した。


「トビー、見ろよ。この道はな、どこまでも繋がってるんだ」

「街道……ですか?」

「ああ。バロン商会の妨害を跳ね返し、コモレビ村やレム村、シーガル港とこの都市を結ぶルートは完成した。そして今や、お前が一人でこのヴァルハイトの街中を完璧に回してくれている。だからこそ……俺たちの足は、ここで止まっちゃいけないんだ」


 ルーカスの言葉に、トビーは喉の奥を詰まらせた。ひとつの都市の成功に甘んじることなく、いまだ理不尽な物流の分断に苦しむ未知の土地へと走り出し、さらに多くの人々の想いを循環させる。それは商人としてのさらなる挑戦だった。


 トビーは胸元の革カバーをそっと指先で握り締め、ルーカスの横顔を見上げる。


「ルーカスさん……次の場所へ、行くんですか?」


 ルーカスはニッと口角を上げ、相棒の肩をポンと叩いた。


「どうだ、トビー。ヴァルハイトを守る一人前の商人としてここに残るか、それとも――俺と一緒に、まだ見ぬ世界へ新しい道を拓きに行くか?」


 その問いかけに、トビーの瞳が一層強く熱を帯びる。広大な世界へ向けて、二人の絆と循環の道は、いま再び大きな一歩を踏み出そうとしていた。

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